親と宗教と私

先日ミッドサマー×カルト宗教実体験の記事を読み、私もつらつらと自分の体験を書きたいなと思った。ので書きます。

先述しておきますが、私の体験した宗教自体は、穏やかなものです。金銭を巻き上げたり、差別主義があったりするものではないです。簡単に言えば、「人を妬まず、謙虚に、真摯に生きよう」というもの。


【我が家での宗教】

ただ我が家での信仰の仕方は、「間違っていた」。今回は、何でそれに気づいたのか(なんで洗脳されなかったのか)について触れようと思います。

我が家は宗教を中心に成り立っている家でした。祖母、母、父ともに同じ宗教を信仰(宗教婚)していて、「神様を信じること」が何よりも重要。

朝晩正座で祝詞を唱え、食べる前にも唱え、日曜には宗教の集まりに連れていかれ、正月は本部で一日中祝詞を唱え、初詣でも周り関係なしに祝詞を唱えさせられる。家族でどこかに行く=宗教の集まりでした。

が、私は小さい頃からとにかく宗教が嫌でした。今思えば宗教の集まりや、皆で祝詞をあげることが嫌でした。けれど、泣いて叫んでもそれだけ拒絶しても私の意見が通ることはありませんでした。

「俺が養ってやってるんだから親の言うことは絶対だ」「親に意見するなんて生意気だ。可愛くない。お前は幸せになれないぞ」「神様を信じない子は家の子じゃないから出ていけ。学費も払わないからな」「お前がそんなに生意気なのはお母さんのせいだ(そして母が責められる)」

幸い身体的な暴力はありませんでしたが、父からの罵倒と人格否定は凄まじかったです。怒鳴られた記憶しかない。(私は父からのモラハラを受け続けた結果、鬱になったりしたのですが、それはここでは置いておきます。)

じゃあ何で、小さい私は洗脳されなかったのか?それはおそらく、「信仰している人が全然幸せそうじゃなかったから」です。

もう、すごかったんですよね。祖母と父の言い争いが。宗教の集まりが終わった後の帰り道、ずーーーーーーーっと誰かのことを悪く言ってるんですよ。あの人は信仰する気があるのかだとか、あれはおかしいとか。本来は「穏やかに生きる」「心の拠り所となる」はずの宗教が、全然機能していなかったんです。むしろ逆効果でした。

だけど当時の私は小学校中学年くらい。言語化することもできず、「ただ嫌!やりたくない!」としか言えませんでした。(この時の影響か、元からそうだったのか、今でも誰かに強制されること・干渉されることが苦手。)


【なんで宗教が機能しなかったのか】

じゃあなんで機能しないかというと、信仰している人たちが「宗教の教えを理解していないから」。

それにはっきりと気づいたのは今から4年ほど前のこと。なんだか父も祖母も言動に矛盾があるよなぁ…と思い続けていた中、母と本部での勉強会(もちろん強制)に参加することになりました。

勉強会は大学の講義のような形で、「なんで宗教ができたのか?」「どんな歴史があるのか?」「祝詞には何が書いてあるか?」を教えてもらう、という内容でした。(神秘体験の話もあったかな?)個人的には、死生観とか知れて面白かった。

で、まずその中の「祝詞の意味」。

「子は預かりものです。親の所有物ではありません」「子は一人の人間です。大切にしましょう」

これがね、書いてあったんですよ。はっきりと。父はこれを毎日朝晩唱えているんですよ。真面目な顔で。そして次の瞬間には上述したモラハラワードを連発するわけですよ。コントかよ。

そして極めつけは、勉強会の中で何度か聞いた「こんな人は本当の意味では信仰できていません。」というお話でした。

それは、「人に強制する人」と「人に対して難癖をつける人」。

うん。

こりゃだめだ。

つまり祖母と父は、祝詞をあげている最中は真剣だけど、「人を妬まず、謙虚に、真摯に生きよう」っていう根本がすっぽ抜けているわけだ。形式だけは真似ているから、パッと見「信仰している」けど、中身はもう、何もない。ピーマンかよ。

もっと踏み込んで言えば、結局のところ「自分を変える」という意識がない。だから他人を変えようとする。空っぽの自分から目を反らすために、他人を攻撃する。そりゃ宗教も機能しないよね。

この勉強会の数年後、母の実家にお邪魔する機会があった(同じ宗教を信仰している)のだけど、そこでは穏やかな時間が流れていて、ちゃんと話が通じて、強制も干渉もなくて。あぁ宗教って信仰する人次第で、こんなにも変わるのか、と思ったのだった。

他人がどうこう、じゃなくて自分がどうするか。

最近、ヤマシタトモコさんの「違国日記」で出てきた、「自分の空虚を人に押し付けるな」という台詞を、よく思い出す。

そうだそうだ。自分の空っぽを人に押し付けるな。自分で埋めろ。

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