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モンゴルの版図拡大行動原理が古代出雲や大和朝廷の国家建設の基盤

はじめに

モンゴルは大帝国を創建しましたが、その版図拡大行動原理がわかりました。この行動原理は、古代の出雲でも大和朝廷でも、この行動原理によって版図が拡大されています。そして、これは、古今東西を通じて、行われる勢力拡大の基盤になっていることを、証明します。皆様に、ご笑読頂ければ、大変うれしいです。

(1)世界史から日本史を学ぼうという姿勢に共感
 

 最近、YouTubeで、2人の歴史学者の講演にはまっています。それはなぜかというと、世界史から日本史を学ぼうという、研究姿勢に大変共感を覚えたからです。


 その一人新進気鋭の歴史学者の倉山満さんは、日本だけの狭い視点からだけではなく、その時世界はどういう情勢だったか、なぜその時日本はそういうふうに動いたのかという世界的な視野から、日本史を見ていくと、非常に良く日本の歴史がよくわかると、言っておられます。学校で習う日本史は、そういう視点が極めて欠けており、また私が戦後習った日本史は多かれ少なかれ共産主義からの視点から書かれていてあまりにも偏向的で自虐的でした。倉山さんの語る日本史はとにかく面白く、自国の歴史に大変愛情があふれています。また、モンゴル歴史学者の宮脇淳子先生の話は、中国ではないそのもう一つ向こうの隣国モンゴルから日本の歴史を見ようという姿勢です。これは、今までの世界史が西洋人の視点からしか物事を見ていなかったものが、大帝国を築いたモンゴルから、世界史を見ると、ヨーロッパもアジアもすべてが納得のいく壮大なドラマとしてみることができることが示されています。


 もし、お時間があれば、倉山満さんの「じっくり学ぼう、日本近現代史」や、宮脇淳子先生の「世界史の始まり、モンゴルを学ぼう」というYouTubeを、是非、ご覧いただければ、コロナが収まって、歴史好きな皆様がご友人と会談されたとき、お話に弾みがつくと信じます。

(2)モンゴルと古代出雲の版図拡大行動原理


 さて、宮脇淳子先生の、モンゴル史のお話を聞いていて、大変面白いことに、昨日気が付きました。


 モンゴルは、史上最大の大帝国を築きました。東は朝鮮半島から西はポーランド、エジプト、南はインドに至る大帝国は、どのようにしてできて統治されたかという話のなかで、語られています。モンゴル人が異民族の都市を落として、そこを支配すると、そこの王様の娘と、チンギスハーンは結婚して、親戚となり、版図を広げることを繰り返します。そうするとチンギスハーンの子供が1000人も生まれたという事です。この子供たちのうち女の子は、モンゴルの将軍などと婚姻関係を結びます。男の子でしたら、またモンゴルの有力者から娘をもらい、血縁関係を濃くしていきます。こうやって、ユーラシア大陸全土の異民族と血縁関係を結んで、版図を広げていったとのことです。モンゴル人の女の人は、みんな馬にも乗り、お嫁に行くときには親から家来と財産をもらって嫁いでくるので、経済的に独立しており、その家来を戦争に送り出した場合に、得た戦利品は、自分の所得となり、裕福となっていきます。したがって、モンゴル人の女の人は、男と平等であり、政略結婚の犠牲者などというイメージとは全く別物です。モンゴル帝国の、勢力拡大は、その土地の有力者にモンゴル人のお姫様が嫁いでいくということを次々に繰り返し行うことが、行動原理となっていることが分かります。


 そこで、さらに気が付きました。出雲の国は、スサノウの命が高天原から降臨してきて、創建した国ですが、スサノウから6代後の大国主命のころになると、大国主は、次々と周辺の国を従えていき、子供が180人出来たといわれています。その一例は、高志(=越:現在の新潟県糸魚川)のヌナカワ姫のところに大軍で押し寄せて、ヌナカワ姫と結婚しようといったといわれています。最初は断ったヌナカワ姫ですが、ついには結婚して、タケミナカタという男の子を生みます。これって、上に述べたモンゴルの勢力拡大の行動原理と全く同じだということに、昨日気が付きました。大国主の命は、モンゴルと同じ行動原理を積極的に使って勢力拡大を図り、大国を作っていったということですね。ということは、大国主の祖先のスサノウは、モンゴル系なのかあるいはモンゴルの家来だった女真族だったのかと、私は思ったわけです。面白いことに家来だった狩猟民族の女真も騎馬民族のモンゴルの軍事制度などを踏襲していました。


 ここで、前に読んだ、原田 常治著「古代日本正史―記紀以前の資料による」同志社(1976)を、思い出しました。「スサノウはモンゴル系だ、その証拠に、モンゴルと同じ末子相続であった」という話です。2~3年前にこの本を読んだときには、「モンゴル系」という話が突拍子もないものに感じましたが、昨日、上に述べたモンゴルの勢力拡大の行動原理も、見られるということに気が付き、なるほどと合点が行った次第です。

(3)古代大和朝廷の版図拡大の行動原理
 

 さらに、とても興味深いことに気が付きました。昨夜、明治天皇の玄孫、竹田恒泰さんのYouTubeでの講演

https://www.youtube.com/watch?v=PDMeMdIKLVQ&list=WL&index=3&t=26s

を視聴しておりましたら、「天皇家は、古代に統一国家を建てたとき、戦争で制圧したのではなく、各地の豪族の娘と結婚して親戚となり、平和裏に版図を拡大して行った。日本書紀を読んで誰と結婚したかというのを、私は一人一人数えてみたら、大変な数になった。」と、言っておられました。おおこれは、出雲の大国主と同じ勢力拡大行動原理だ。ということは、天皇家、つまり天照系のルーツは、モンゴル系かあるいはモンゴルの家来だった女真族だったのではないかと、私は再び思いました。ただ、竹田さんの平和裏にというのにはちょっと引っかかりました。というのは、(i) 神武天皇が、東征した時にナガスネヒコと戦ったとあったり、(ii) タケミナカタが信州まで逃れてきたときに、長野市の今の善光寺辺りで、追手の天照系軍隊と激しい戦闘があったといわれていること、また、(iii) 縄文時代から弥生時代に移行する時代は、日本列島全体でたくさんの戦争があった時代であったのはよく知られていることなど、を無視している気がしたからです。モンゴル帝国も、都市を包囲して、激しく戦ったことは有名ですが、そのあとは、そこの王様と血縁関係を結んでいます。しかしながら、一方で、竹田さんがご指摘の「各地の豪族(異民族)の娘と結婚して親戚となり、版図拡大をしていった。そして、大和朝廷により全国が統一された」というのは正しいと思います。私はここでも、これは大昔のモンゴル由来の版図拡大の行動原理から来ているのではないか、と思いました。

 以上のような、血縁を結ぶことによる勢力拡大行動原理は、モンゴル帝国が瓦解した後も、ヨーロッパでも、日本でも引き続き見られます。たとえば、ロシア、オーストリア、ドイツ、スペイン、イギリスなどヨーロッパの王室間では、近年まで広く婚姻関係を持っていたこと、また、日本では、殿様同士の姻戚関係や、公武合体などでも、つい最近まで勢力拡大行動原理として見られます。でも、これって、もともと、大昔からモンゴルにあった版図拡大の行動原理から来ているのではないでしょうか。
 皆様どう思われますか?

(4)日本各地にいた異民族、部族、豪族について

 上の話で、竹田さんが「各地の豪族」と言っておられることに、一言付け加えたいと思います。


 2600~2000年前の日本列島は、今のニューギニアと同じように、言語や風習の違う多数の異民族がいたことはわかっています。したがって、「各地の豪族」というより「各地の異民族」と言った方が正しいでしょう。そして、第2項で述べた版図拡大行動原理により、日本列島各地にいた異民族は、混血を繰り返して、今の一つの日本人になって行ったのです。したがって、熊襲(=球磨族+曾於族)も、隼人も、出雲族も、ヌナカワ族も、洩矢(諏訪)族も、毛人も、アイヌの人々も、全て等しく、我々日本人のご先祖様なのです。現在、一部で、沖縄の人々や北海道のアイヌの人々を、先住民族としようとしていますが、これは、帝国建設の版図拡大行動原理の歴史を知らない人の言うことです。あるいは日本分断を狙う外国勢力の言うことでしょう。アイヌ人もまた我々日本人の構成員であり、先住民族ではありません。


 もっとわかり易い例を言えば、現在の北海道のアイヌ人ではなく、2000年くらい前の北関東の毛人(えみし、蝦夷)です。ここの毛人(すなわち現在のアイヌ人につながる人々)はワカタケル大王(雄略天皇)の時代に、大和朝廷に帰属したことが、北関東の埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣の文字から知られています。また、北関東の古墳から出土する人物埴輪の顔は、顔が四角く目が大きいです。ところが、関西の古墳から出土する人物埴輪の顔は、面長で目が細いことが分かっています。明らかに北関東の人たちは、関西の人たちとは異なる人種と考えられます。また、群馬県や栃木県が、旧国名を上毛(上野)、下毛(下野)というのは、毛人の住んでいた地域であったことから来ています。それをもって、今の群馬県民や栃木県民を、えみしだとか先住民だとかいわないでしょう。彼らも一つの日本人なのです。


 その、えみしはおそらくアイヌ語系の言語を話していたと考えられます。なぜなら、アイヌ語の地名は、中部地方から、関東、東北地方まで各地に残っており、古代東日本はアイヌ語系の言語を話す人々がいたことは間違いありません。したがって最後までその風習を残していた今の北海道のアイヌの人々が、1000年から800年前に樺太から南下したなどというのは、間違いです。樺太から1000年から800年前に南下して来たのは、オホーツク文化人で、それはギリヤークやオロチョンの人々です。東北の日高見国が徐々に滅亡していった1000年から800年前に、東北を追われて北海道に渡った蝦夷(アイヌ人)は、このオホーツク文化人のギリヤークと戦い、彼らを樺太に追い出して、北海道に入植したのです。このレプンクル(海の向こうの人:礼文人:ギリヤーク人)と戦いの様子は、英雄ポイヤウンペの物語として語り継がれています。北海道は、滅亡した日高見国の亡命先で、その中心の平取は、日高国と命名されたのは故あることです。われわれは、このような敗者の歴史を、学校で習わないので、多くの国民が知らないだけです。日本史は、周辺の地域の歴史を合わせて学ばないと実像がわからない例と言えるでしょう。


 数万年前に日本列島が大陸と地続きであるとき我々のご先祖の各部族が日本列島にやって来て、今から2600年前から約1000年間かかって、版図拡大行動原理に従い各部族が混血を繰りかえして今の日本人になったのです。したがって、日本には西洋に言うような先住民はいないのです。

2021年3月7日随筆
2021年3月9-28日追記
信州上田之住人和親


*1:文頭の写真は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:YuanEmperorAlbumGenghisPortrait.jpg
より引用


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