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出雲大社訪問を通して出雲と信州の関係の歴史的考察

(はじめに)

2000年10月に、日本液晶学会主催の液晶討論会に出席するため島根県松江市を初めて訪れました。信州上田から、松江までは、鉄道で行きましたが、とっても遠かったです。現代でもこうですから、古代においては、もっと遠い印象だったと思います。しかしながら、以前noteの記事< https://note.com/ko52517/n/n465bf3b6411c >に書きましたように、出雲のタケミナカタが天照勢力に敗れて、信州に逃れてきて、信濃の国を建国したので、信濃の国は出雲の亡命政権、本国は出雲ということになります。せっかく信州からここまで来たからには、タケミナカタのお父さん、大国主命を祭った出雲大社をぜひお参りしたいと思いました。本拙文は、出雲大社訪問を通して、出雲と信州の関係などを歴史的に考察したものです。

一畑電鉄で出雲大社へ

液晶討論会が終わった後、レトロな一畑電鉄に乗って、松江から出雲大社まで行きました。一畑電鉄は、切符が、昔懐かしい、硬券で入場する時に鋏で、女の駅員さんに入鋏してもらいました。入鋏は「にゅうきょう」とよみ、鋏で切符の一部を切り落とすこと、つまり改札パンチのことを意味します。もう、現在、日本全国で、硬券を販売して入鋏をしているところは、めったにないものと思います。60年前、私の子供のころは、国鉄でも私鉄でも、どこでも、硬券・入鋏でしたが、今はほとんど見かけません。なので、一畑電鉄の硬券・入鋏は貴重です。これ22年前のことなので、今も一畑電鉄、硬券・入鋏なのかはわかりません。1か月くらい前、六角精児さんの「飲み鉄」をテレビで見ていたら津軽鉄道が、今も硬券を販売して、入鋏も希望すればしてもらえるようでした。日本で、2022年の今も少数ながら、硬券・入鋏しているところあるんですね。

出雲大社の御柱(みはしら)

さて、一畑電鉄の終点の出雲大社前を降りて、出雲大社まで歩いていきました。さすがに大きな神社でした。参道の一の鳥居から、お社までは、非常に幅広い砂利の参道をとても長い距離、歩きました。お社の前は、丁度、発掘調査をしている所で、お社の前平行に長方形の穴を深く掘ってあるのが見えました。その穴の底には、3本の柱をまとめて一本の柱にしたものの、その根元が掘った穴の底から少しだけ顔を出していました。この後、展示場に入ったら、掘り出された大木3本を金輪で一本にまとめた「みはしら(御柱)」が展示されていました。この横に説明書があり、「昔、出雲のお社の高さは、今の2倍の16丈(48m)あった、いやもっと前は32丈(96m)だったいう言い伝えが、あり、そんな高い建物が実際木造で建てられるのか、大いに疑問視されていたが、大林組の構造計算から、この3本を1本にした御柱だと、48mは十分可能だという結論になった。」と書いてあって、とても感心しました。なお、信州では、御柱を「みはしら」とは読まずに「おんばしら」と読むところが、出雲と少し違うところです。諏訪大社の御柱祭がとても有名ですが、それは、山から大木をきりだして、大勢の人力で、街中まで引っ張ってきて、諏訪大社のお社の前に、垂直に建てるお祭りです。御柱祭のときは、諏訪の人は、町中が興奮して、人が変わったようになるユニークで特別神聖なお祭りです。この信州の御柱祭の原点は、この出雲大社の高層建築にあるんだと、改めて、認識しました。

10月に全国の神様が、会議のために出雲に来たときにお泊りになる宿舎

出雲大社の横には、小さなお社が棟割長屋のようになって連なっていました。よく家庭の神棚にあるお社がありますが、これを少し大きめにして、これを何十も横一列につなげた棟割長屋の形をしています。こんな変わった神棚のようなもの見たことがないので、何だろうと、説明を読むと、1年に1回、10月に、全国の神様が、会議(寄合)のために、出雲に来たときにお泊りになる宿舎だと書いてありました。なるほど、10月の和名は、神無月で、出雲だけが神在月と言われるゆえんだなあ、また、そのとき全国のたくさんの神様が泊るため、こんなに長い神様のホテルが、ここに必要なんだと納得しました。因みに、信州の神様は、出雲の亡命政権なので、敵の支配地になった出雲のこの会議には出席しません。そのため、全国的には知られていませんが、実は、信州も、10月は、出雲と同じ、神在月というのです。これも、信濃の国が、出雲の国の亡命政権であることの、証拠と言えます。

出雲大社宝物館所蔵「後醍醐天皇直筆の祈願書」

この神様のホテルの横には、出雲大社の宝物館が、コンクリート造りでありました。空調して宝物を守らないといけないので、コンクリート造りなのだと思います。この宝物館に入って、私は、個人的に、大感激しました。出雲大社宝物館の所蔵品として国宝の「後醍醐天皇直筆の祈願書」が、展示されていたからです。
 後醍醐天皇は、私の一族と切っても切れない関係にある天皇です。今大河ドラマで、「鎌倉殿の13人」をやっていますが、このドラマは、平安末期に源頼朝と北条一族とが協力して、鎌倉幕府を建てた話ですが、鎌倉幕府は初期には源頼朝の子孫が頂点に立っていましたが、3代で源家は滅びてしまい、そのあとは実質北条政権となりました。その鎌倉時代の末期は、北条氏の統治能力も衰えてしまい、北条高時などは、政務に勤めなくなり闘犬などにうつつを抜かして、全国的に武士からも朝廷からも信頼を失っていきます。そこで後醍醐天皇と私の先祖は鎌倉幕府を倒すために京都で、クーデターを画策しておりましたが、ある人の密告により捕まり、後醍醐天皇は隠岐島に流され、私の先祖は、四国の阿波の撫養に流されました(元弘の変)。680年ほど前のことです。それ以来、私の一族は四国に住んでいます(ご注意1)。後醍醐天皇の方は、1333年(元弘3年/正慶2年)、隠岐島から脱出した後、伯耆国の船上山で挙兵し、出雲大社に倒幕の成功を祈願して「・・・冥助を願う」との直筆の書を奉納します。冥助とは冥界の力をも借りて討幕を成功させたいとの意味でしょう。その祈願書は、出雲大社の宝物館に国宝として展示されています。私は、この2000年(平成12年)に出雲大社を訪問した時、初めて、この後醍醐天皇の直筆を見て、感激しました。「ああこの天皇が、我が一族の運命を変えたその人だ!」と、その場で一人声をあげました。

木曽義仲の最期

 平安時代末期、以仁王の平家打倒の「令旨」に呼応して、現在の信州上田市丸子町依田城にいた、木曽(源)義仲も、北陸道を京へ進軍していきます。そして、平家を都落ちさせ、天下を奪います。同じ源氏の源頼朝は、従弟の義仲が先に天下を取ったことを嫌い、自分の弟の源義経に、義仲を討たせます。そのため、同じ源氏に討たれて、義仲は滋賀の粟津で討ち死にしてしまいます。義仲が討たれたのを見て、最後まで一緒にいた乳兄弟の今井四郎兼平は、口に刀をくわえたまま馬から飛び降り、壮絶な死を遂げます。あまりにも義仲や兼平の最期が哀れで、私は平家物語のこの場面を読んで泣きました。義仲の後同じ源氏の源頼朝が、北条氏の力を得て、鎌倉幕府が開かれます。

(最後に)

 鎌倉幕府が始まる直前の信州出身の義仲と、鎌倉幕府討幕を出雲大社に冥助を願うと祈願した後醍醐天皇や私の祖先のことが重なり、この時の出雲大社初めての訪問は、私にとって忘れられない大変貴重な経験となりました。

*冒頭の写真は、信州上田市丸子町依田地区にある、「木曽義仲館跡」の看板

(ご注意1) 先祖の名誉のため一言申し述べます。私の先祖は、鎌倉幕府打倒の企てが露見して、四国に流されましたが、決して犯罪者ではありません。政治犯は、勝てば官軍負ければ賊軍ですので、犯罪者ではありません。


2019年3月21日随筆
2022年2月5日加筆

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