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司馬遼太郎さんと井上ひさしさんも対談でご指摘:今の日本人の思考停止

(はじめに)


 
先日の私のnoteの記事「同業他社がどうするか見てから決めますという横並び思考と就職協定」< https://note.com/ko52517/n/n00fc11500f6c >において、「今の日本人の傾向として、ほとんどの人が、どうするのが一番いいのか、みんな自分で考えず、みんな周りから答えが降ってくるのを待っている。」とし指摘しました。作家の司馬遼太郎さんと井上ひさしさんも、平成8年(1996年)に、私とおんなじことを、「対談 国家・宗教・日本人」講談社77-78頁の中で言っているのを最近発見して、大変興味深く思ったので、ここに引用します。皆さんのご参考になれば幸いです。
 

1.  司馬遼太郎さんと井上ひさしさんの対談から


 
司馬  ・・・今の若い人は、表面だけカッコよく見せて、最大公約数の意見らしいものを言わなければならないので、動詞をポケットに隠しておいてごじゃごじゃと煮え切らないことを言う。その、言葉に対するずるさがきたなさになっていると思うんです。
 
井上 そうですね。思考停止、判断停止というのでしょうか、用意された答は何だろうということがまず最初にあって、その先とかその脇を考えずに、他の道筋を考えもせず、ただひたすら用意された答えに寄り添っていく。あらゆる時代にそういう傾向はあったでしょうが、最近起こっているいろいろな事件を見ていると、一般に、社会が待ち構えている結論へすぐに辿りつこうとする傾向が強くなっているように見えますね。
 しどろもどろでもいいから、もっと考えて考えて考えて、その先まで考える。考えること自体が尊くて、答えは当たっていてもいなくてもいいんだよ、という社会ではなく、とにかく途中はどうでもいいからまず差し障りのない答えを、という社会になってしまった。機械を作る、モノを作る、あるいは文章を書く・・・、どんな面においても日本人の想像力にパワーがなくなっているのは、そのあたりに理由があるのかもしれません。
 
 この対談の初出誌は平成7年(1995年)・9月号の「現代」「よい日本語、悪い日本語」ですから、実際の対談はそれより少し前の6月か7月ころでしょう。したがって、あの地下鉄サリン事件や麻原彰光逮捕の直後で、未曾有のテロ事件がオウムの仕業であることが確定した直後です。
 この時期、なんでこんな事件が日本で起こったのか、多くの知識人が社会の病理について深く考えていました。
 

2. 一般現象として、1990年代に入ってから大学生が急速に物事を深く考えなくなった


 
 1990年代に入ってから、日本の大学生の学力が極めて落ちてきたのを、どこの大学の教官も実感していました。
 そこで、20世紀最後の年の2000年(平成12年)の秋、以下の様なことが私の所でありました。20年近く大学で教えてきて、このようなことに初めてでくわし私も少なからずショックを受けました。
 
 私は化学系の学科で物理化学という理論系の科目を教えています。そのクラスは三年生で、量子化学に応用する点群を教えていました。学科の科目の中でも、なかなか理解するのは大変ですので、半年の講義の中で三回レポート問題を出しています。理解をステップバイスッテプで深めるためです。しかし、問題をといてレポートを提出するのは単位を取得する上で義務ではなく、熱心な学生には提出すれば、見て添削してあげようという約束です。なので毎年四十人の受講者のうち、特に熱心な三~四人しか、このレポートは提出しません。私は、大学は本来自分で勉強するところなのだから勉強したい人だけが勉強すればよいと思っています。無理やりやらされていると感じるなら大学ではなくもっと別の道があるでしょう。ただ、熱心に提出してきた学生には、教員の私も熱心に応えてやろうと常に心がけてきました。大学のレポートというのは、ご存じかと思いますが、ただ答えだけを書いてきたのではレポートではありません。自分が、どのようにして、万人が認めている基本原理から最終の答えや結論を導いたかということが、他人にわかるように書かれていなければなりません。従って、他人が読んで論理の流れがちゃんと追えるように書いていなければなりません。答えだけが合っていても、途中の論理が書いていなければ、なぜそのような結論が出たかわからないからです。
 
 ある成績が優秀という評判の女子学生が、レポートを提出してきました。しかし、この女子学生のレポートにはがっかりしてしまいました。評判にたがわずというわけではなかったのです。彼女のレポートの書き方は、どの論述も論理が飛んでおり、いきなり結論が出てくるのです。たとえば、積分をしなければならないところでは積分の式さえ書いていないのに、いきなりその答えが出ているのです。どこもかしこも、そのような書き方なので、最後には辟易してしまいました。論理が飛躍してわからないところにすべて×印をし、最後に「このようなレポートの書き方をしてはいけない、論理の流れがわかるように書くこと。さもないと、まるで他人のレポートを写したように見える。」と書いておきました。私の偽らざる感想です。論理がないのに答えだけがあってもレポートとしては意味がないからです。3年生までにレポートの書き方をしっかり練習することが、4年生になった時に卒業論文を書く第一歩なのです。
 
 レポートを返してから次の日に、その成績が優秀な女子学生がなぜか、成績のぱっとしない男子学生を連れて、私の部屋に入ってきました。女子学生はレポートを手に泣き顔です。その連れの男子学生は、レポートを出したことのない男です。異様な感じがしたので、女子学生に聞いてみると、レポートのことで話があるといいます。付いてきた男はレポートを出していない学生ですから、彼がなぜここにいるのか理解できません。私はその男子学生に席を外せと言いました。この雰囲気からして、当然難しい話でしょうから、当事者だけで話すのが自然です。ところが、この男子学生は聞くに耐えない暴言を吐き、出ていこうとしません。それで思い出しました。この男、生協で、この女子学生に、彼女の皿からカレーライスを彼女のスプーンで口に入れてもらっていたのを見かけたことがあります。おそらくこの女子学生の恋人でしょう。加勢したいということでしょうが、全く迷惑な話です。何の加勢かわからないので、もし私一人で対応していて、刺されでもしたら、二対一で後で証明が出来ません。そこで、この男、しばらく押し問答しても出ていかないので、「関係のない君が出ていかないのであれば、上司の学科長凸本先生を連れてきて二人で聞くことにする。」と言って、私の部屋に凸本先生を連れてきました。変な話です。
 
 女子学生は、泣きながら「私、カンニングなんかしていません。」というのです。レポートにカンニングもくそもない、試験じゃないんだから、一人でやらずにみんなでやっても別にも構わない。何を言っているのかよく意味がわからないので、順序よく話させると、
「私はレポートを自分で考えて書いたので、誰にも見せてもらってはいない。」といいます。
 嘘だろう。あの最後の問題の式の誘導は、図書館で調べても、どの学生も見つけられなかったと言ってきたものです。にもかかわらず、この女子学生は式の誘導なしに答えだけが合っている。どうやって自分だけでこの答えを導いたのか不思議です。この女子学生よりも以前に、別途聞きに来た学生2人に、式の誘導の仕方が書かれた文献を渡しておいたのでそれを見せてもらったのであろう。まあ百歩譲って、自分で導けたとしても・・・。
 
 私、「それはそれで結構だが、あの君の書き方では、誰も論理を追えないから、論理が追えるように書くことが必要です。あの書き方では全く理解できない。」
 女子学生、「私の答えあっているじゃないですか。なぜ、×なんですか。」
 私、「レポートというのは答えだけ合ってても、だめなんだ、論理がきちんと人にわかるように書かなければだめだ、だからわざわざ、そういうところを指摘してその箇所を×と書いてあるので、答えが合っているとかの問題ではない。」
 女子学生、「私の答えあっているのに、×にされて、皆、○○ちゃんかわいそうって言うんです。答えが合っているのにどうして怒られないといけないんですか。私二十歳を過ぎて何で怒られないといけないんですか?」
 私、「レポートは答えだけがあってもだめだと言っているだろう。じゃあ、全く今までに世界中で答えがないような、誰にも初めてで正解を誰も知らない問題だったらどうするんだい?みんなは、君が書いたレポートや論文の論理を丹念に追って逐一理解できて初めて君の言うことが正しいとか、間違っているとか判断するのが、学問なんだよ。正解がどこからか降ってくるわけではないんだよ。また、私のような年になったって、失敗すれば上司に怒られるんだよ。」
 何を言っても無駄のようでした。理解できないのでしょう。成績だけは良くて、全く学問を知らない学生です。今まで、答えさえ合っていたらいい成績がとれて、それでよしとしてきたらしい。成績が良くて、いい子いい子と言われて育ってきて、それで親にも怒られたことがないようでした。
 女子学生、「私、絶対、人のレポート写したんじゃないんです。他人のレポートを写したように見えるというのはどういうことなんですか。」
 積分の式も書かずに、どうやって積分値が出てくるんだ!? ええい、もうわからんのならいい。そんなことを言っているのではない。私は、せっかく丁寧に見てやったのにばかばかしくなってきました。
 
ここで一緒に話を聞いてくれていた、上司の凸本先生が、次のように提案してきました。
 凸本先生、「○○君、ここの部分だけ消してやったらいいんじゃないか?」
と言うことで、その部分「他人のレポートを写したように見える」だけ、私が赤線で二重線を入れて消去し、決着しました。
 その間、ずっと、その横で恋人の男子学生は黙って突っ立っていました。
 「なんやねん、この男。ほんで、この女子学生も、なんやねん。こんなんばっかし増えたら日本はほんまあかんようになるなあ・・・」と心の中でつぶやく私でした。
 

3. 勉強とういうのは、答えだけを覚えることではありません。


 
 勉強や学問というものは、その思考過程を学ぶことです。つまり論理回路を自分で自分の中に作ることです。特に大学ではそうです。
 上に見たような昨今の日本人の思考停止現象は、理科系の学生だけの問題ではありません。文化系の学生にしたって同じ問題が起こっているのです。どこもかしこもこんな具合になってきているように見受けられます。今もっとも世界の人達から問われているのは、我が国の経済規模に見合った発言能力、国際貢献でしょう。自分たち日本人の立場やこれから行く道を、論理的に世界の人々に納得できるように、現在、政治経済を学ぶ学生や政治の指導者が、説明できるでしょうか。他国がこれからの日本の行く道の正解を示してくれるわけがありません。もしそんなことがあったら疑った方がいいです。良からぬ策謀が巡らされているかもしれないからです。したがって、日本人は自国の行く正しい道を自ら考えなければならないし、それが自国の国益と世界との共存に正当(正解)であると論理的に世界の人々に示すことが求められているのです。国際的に発言能力が低いのは、政治家だけが悪いのではありません。今の日本人全体に論理を構築するパワーがなくなってきていることによると思われます。
 日本人が元々論理に弱い訳では決してありません。鎌倉時代初期に書かれた平家物語の、平重盛がたびたび父清盛を説得する場面を見て下さい。論理が明解で誰もが納得します。また、江戸時代に書かれた雨月物語の、西行が崇徳天皇の亡霊を説得する場面を見て下さい。明快な論理で崇徳天皇と云えども、反論しがたいものがあります。日本人が論理に弱くなったのは最近のことなのです。
 マークシート方式の共通一次を始めたころからおかしくなったんじゃあないかと思います。要するに安直に答えを求めすぎるのです。全部論述式にしたらいい。大学入試を、全国一律のマークシート方式から、各大学が独自に実施する論述方式にすれば、かなり変わるだろうと思います。共通一次前はそうでした。日本語や英語が筆記できなければまずいけないし、言葉や数式で論理が人にわかるように長文で展開できなければ、論述式にはなりません。あるいは、論理展開力をペーパーテストでなく口頭による発言能力でもみてもいいと思います。ここ20年(40年)以上も日本はマークシート方式なんかで鉛筆で黒い丸つけるだけの大学入学試験やっているから、論理的思考のパワーが落ちてくるのです。
 

(おわりに)


 
 もう一度、この文章の最初の第1項に掲げた井上ひさしさんの発言を読んでみて欲しいです。全く私と同じ考えだとわかるでしょう。私は前期高齢者となって、老兵は去るのみと思ってはいますが、私は老婆心ながら、今の思考停止した日本人の将来を心配しています。この日本人の思考停止への反省や改善に、本文が、今後少しでも皆様のご参考になれば大変嬉しいです。
 
 
平成13年(2001年)12月10日随筆
平成13年(2001年)12月22日加筆
令和5年(2023年)10月2日加筆
 
 
*なお、冒頭のイラストは、下記のURLのフリー画像の中のものを使用させて頂きました。
https://www.ac-illust.com/main/search_result.php?word=%E6%80%9D%E8%80%83
 
 

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