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【女将さんの聖地】

熊野に「滝の拝」という聖地がある。

彫刻刀で削り取ったような鋭い凹凸の岩盤に、一筋の滝が滑り落ちていく。その滝を見下ろすように、一軒の民宿が建っている。そこに泊まると、まるで滝の上に布団を敷いているみたいに、ごうごうとさ流れる川の音の中で眠りに就くことが出来る。

「あのねえ」

朝食についてきたヤクルトを飲んでいると、宿の女将さんが声をかけて来た。

「よかったら、近くにええとこあるよ。あんた、せっかく東京から来たんやから、寄っとくとええ」

どんなところかと尋ねると、

「川が流れてて、大きな岩があって、とってもええとこ。わたしそこ行って、小さな橋の上で寝そべってるの。こんな田舎に住んどっても、あすこは特別に気に入るよ」

女将さんは本当にそこが好きらしくて、満面の笑みになる。

「滝の拝」のそばに宿をかまえる女将さんの薦める場所なのだから、きっと奇岩や滝のある、古くからの修験の行場に違いない。地元の人しか知らないそんな場所を訪ねられるなんて、なんとラッキーなことだろうか。

女将さんの書いてくれた地図を頼りに、車を走らせる。急な山道を登って行くと、今度は下りだ。あたりは棚田で、引いたばかりの水がきらきらと光る。どんどん深い谷底に向かっている。


たどり着いたのは谷あいにあるちょっとした集落で、その前には小さな川が蛇行していた。

ちょっと待って。本当にここなのだろうか?道を間違えたのでは?申し訳ないが、行場でも何でもなく、田舎には珍しくない風景だ。


疑わしくなって、茶畑にいるおじいさんに声をかけてみる。ところが耳が遠いらしく、何回叫んでもいっこうに返事がない。とうとう一軒の家から、よれよれのジャージを履いた中学生くらいの女の子が出て来て、隣の畑で茶摘みをしている農家の人たちを呼んでくれた。

「あのう、○○というところはここでしょうか?」

「はあ、そやけど」

「とてもいいところだって、薦められて来たんですが」

「はあ、ここが?

まさか。場所ちゃうやろ。ほんなわけないわ」

「でも、女将さんが」

民宿の名前を言うと、茶摘みをしていた数人が、はっはっはっ、と、声を揃えて高らかに笑った。

「ほんまか。嬉しなぁ。あの人、そんなん思ってくれとるんやなぁ」

よく見ると、蛇行する小川には小さな岩がいくつかあり、澄んだ水が可愛らしい滝をつくっていた。いつも女将さんが寝そべっているらしい小さな橋もある。隣では集落の住人らしいおばさんが、畑から抜いてきた野菜を慣れた手つきで洗っている。

濃い緑に包まれ、田んぼと茶畑に囲まれ、日がな他愛ないおしゃべりを交わしながら農作業に明け暮れる人々。

人が自然を切り拓くのではなくて、自然にそっと寄り添うように暮らす風景は、ありそうでいてそうそう出会えるものではないのかも知れない。まるで誰かが故郷を想いながら作り上げた箱庭のようだ。

そう思いながら、絶え間ない小川の流れを見ていた。

(2012年 古座川町にて)





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