見出し画像

住まいを移す、という意思決定のゆらぎ

先週から今週にかけて、大きな意思決定をした。

休日の午後、1冊の本と日記と筆記具を持ってカフェに来た私は、ようやくほっと、一息つけた気がする。ちょうど突発的な仕事が入ったりもして、自覚していたよりも気が張っていたのかもしれない。2〜3組の家族やカップルの会話とゆるやかなジャズが耳から全身へ馴染むのを感じながら、深煎り珈琲を口にする時間がご褒美のようだった。


住む場所を、また変えようと思う。大きな意思決定とはそれだった。

けれど岡山県内から離れるわけではなくて、今住んでいる場所から1時間くらい南に行った、瀬戸内海の近くで暮らす。岡山に来てもうすぐ2年。もっと、暮らすと働くを私なりにデザインしてみたい。そう思っての決断だった。

意思決定というと、「揺るがない信念」みたいなイメージを持ちがちだけれど、実際は大きく揺れに揺れていて、なんなら今も、時折不安が押し寄せてくる。ワクワクしている気持ちも確かにある。これからの生活が楽しみで仕方ない。はずなのに、本当にこれでよかったのか今はまだ答えは出せない。今回の揺らぎは、自分の思考の癖と、現実的な話とがうずまいているように思う。


自分の思考の癖というのは、「好き」の気持ちのど真ん中を進むことに罪悪感があることだ。以前noteにも書いたけれど、私は幼い頃に大好きだったバレエを後ろめたさがありながら続けていた経験がある。

歳を重ねるごとにその後ろめたさは怖さになり、「好き」の周りをうろうろする日々を繰り返していた。やはり癖は抜けていなくて、罪悪感を認識しては自分の感情の中心から一度脇に置き直し、好きに向き合うことを今でもおこなっている。

今回の引越し先を決めるのも然りで、気に入った物件があったのに他の物件を何度も見に行っていた。巡りめぐってもう一度気に入った物件を見て、ようやく決断した。自分の直感を信じることは、好きなものであればあるほどむずかしいなと思う。


現実的な話というのは、家賃や引越し費用のことだ。今このタイミングで住まいを移すことに投資して、本当にやっていけるのだろうか。そう思えば思うほど、現状維持を選ぶ自分がにょきっと顔を出し、決断したい自分を揺るがしていた。

もっと現実を見ると、今の家賃より次に暮らす部屋の家賃の方が1万と少し上乗せになる。正直、今の家賃が結構低くて、次の家賃が相場というところだけれど、フリーランス2年目そこそこの私にとっては非常に大きな違いだと思った。

いろいろ計算して、家賃に移せそうな金額は捻出できそうと分かったものの、やっぱり心のどこかでは「大丈夫かなあ」がよぎるのである。


ふと、岡山に住もうと思った2年前を思い出す。あのときは切羽詰まっていて「とにかく駅の近くで、住めそうなところを!」としか考えていなかった。理想の暮らし、なんてものは後回し。まずは引越す。話はそれから。今思えば極端すぎるけれど、当時はたぶん、そんなかんじだった。

2年前と今を比べると、働き方も、関わる人も、環境も、何もかも変わった。いろいろなことがあったものの、全てにおいて自分で決め、立ち止まりながらも今日まで生きた。1日1日の日々があったから、今、自分のためだけに大きな意思決定ができるのかもしれない。最近気を張っていて気が付かなかったけれど、振り返ってみると、それこそご褒美のような時間になるのかもしれない。


住まいを移すのは、暖かくなってからにした。もう少し時間があるので、不安の行き来はまたあるだろうと思う。無理に割り切るとか、今の気持ちを顧みずに進むとかは、今の私はしたくない。この曖昧さのなかで揺れるのもまた、今しか味わえないだろうから。





この記事が参加している募集

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?