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幸せについて考えた。

このnoteは、

これからの世界で私の人生を生きるにあたって、

私が、私のために、幸せについて考えたことを、

ありのまままに書いたものです。

まだ未完成な私の考えなので、
優しく読んでいただきたいです。



生きている人間にとって、幸せとは、

とても不完全な定義であり、
不安定な存在のようです。

知っているのに知らない。

だから、幸せの正解を早く見つけたくなる。

でも、今すぐ正しい答えを見つけることは不可能なのかもしれないと薄々感じている。



目的も分からず、必死にもがいていた頃の私は、

何かしないと、何かを成し遂げないと、そう自分を追い込んでいた。

その頃の私には、

成長にこそ価値があるという価値観があった。

成長がなければ価値がないと思いこんでいた。

だから、常に目標に向かって頑張り続けることが偉く見えたし、

現状維持を目標にすることに対して罪悪感を感じていた。



学校は失敗してもいいところ。

よく耳にした言葉だったけれど、

社会に出てからが本番だと、言われれば言われるほど、私は怯えていた。

今はすでに、人生のリハーサルではなく、本番。

今は今でしかない。

SNSにより、年齢も関係なく人生を大きく左右する言動ができるようになった。

良くも悪くも、リハーサルとは言っていられないことが起こせる。

これが成人になる私が受け入れるべき現実だった。


だから、自己責任と言い脅しつつも、お節介な言動に出会う度、疲れてしまっていた。


変に、周りの目を気にさせるように、失敗しないようにしてくれるのは、

誰が生み出したのか誰もわからない、見えない同調圧力。

そんな雰囲気が充満した集団の中で、人は日々を過ごしていたりする。


「大丈夫」

失敗がどうとか、成功がどうとか、そういうことじゃなくて、

たった一言、そう言ってくれる人がいること。

24時間ずっと私のことを見ているわけじゃないのに、そう言ってくれる。

この言葉に泣きそうになった。


今は一度しかないけれど、うまくできなくてもいいのだと。


本当の意味で、どんな私でも良いと安心させてくれる。


そんな言葉を求めている人は、
この世の中に思っているよりもたくさんいるんじゃないかな。

すぐ身近にも。遠くどこかにも。

だから、人はひとりでは生きていけないんだな。



ほどほどの幸せで満足している。
人は人、自分は自分で切り離し、無関心。
より高みを目指そうとしない。

そんな人が増えれば、これからの社会が危ないという人もいる。

でも、

不健康になってもでも、我慢して、嘘ついて、無理して、

それを全て、幸せになるためという理由にすることが本当の生きる価値なのだろうか。


生きるということは、

愛し愛される可能性もあるし、

傷つく可能性だって十分にあるし、

幸せでいる可能性もある。

生きていれば無傷でいることなんてできない。

だから苦しい。

そうだったとしても、

もう傷つきたくないって言って、最後に自分で最大の傷をつくるなんて、
それは矛盾してる。

いつだって、
自分を苦しめているのは自分だと知っている。

どこからあふれてきたのかわからない、
そんな焦燥感や危機感は、

頑張り方も、表現の仕方も、生き方も、
すべてそのままで良いと理解できるようになるしかない。

それも全てひっくるめて、私はとっくに、

自分で決めたことには、どんな不安があっても、
本気で向き合うことへの覚悟ができているのかもしれない。



幸せの小さな手がかりを見つけても、
答えは見つからない。

ひとつ確かなことは、

幸せか幸せじゃないか、
決められるのは自分であり、他の誰かでもない。

それなら、

誰かに決定づけられることに恐れて、
焦って早く結論を出そうとする必要もなくて、

自分が幸せかどうかなんて決めないということも、ひとつの選択肢かもしれない。

そんなことを言いつつ、

今わたしは幸せだと思う。

なぜなら今この瞬間を生きているから。

何をしていても、生きてさえいれば、
幸せである可能性を持っている。

そんなに深く考えすぎなくても、

幸せとは、

ある存在の名前なだけなのかもしれない。

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