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谷崎潤一郎の『假裝會の後』を読む あまりにも安直な「逆説」

 谷崎潤一郎の『假裝會の後』は、

どうです、此であなた方は、綺麗に降参なすつたでせう。━━その理由はつまり斯うなんです。━━女と云ふものは、どうかすると、人間よりも惡魔を好く事があるのです。さうして世間の醜男だけが、ひとり惡魔の美を持つて居るのです。━━(谷崎潤一郎『假裝會の後』)

 ……という結びの「逆説」に全てがあり、この「逆説」で尽きているように思える。いや、まさかとは思うが、それが『女人神聖』の後でなら、何某かの意味を持ちうるのだろうか。『女人神聖』の由之助は顔だけが自慢のくず男である。女を騙してうまく立ち回ろうとするが、うまくいかなかった。それが顔を傷物にされて、その結果「浅草の千束町の銘酒屋の兄い」になったというのは、顔が駄目になったおかげか、そうではないのか…。
 この曖昧さに対して、あまりにも素朴な『假裝會の後』の「逆説」はさらに幻惑を仕掛けようとしているようにも思えなくもない。
 銘酒屋とは、

銘酒を売るという看板をあげ、飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した店。 現在のピンクサロンに相当する。(ウイキペディア「銘酒屋」)

 …というもので、別に女にもてるうんぬんの立場ではない。そもそもピンクサロンは買春しているのか。それは西川口だけではないのか。大塚ではどうなのか。そもそもどこからどこまでが買春なのか…。そんなことはとりあえずどうでもよろしい。
 しかし間違いなく「浅草の千束町の銘酒屋の兄い」とは「女に食わせてもらう」立場である。そこでようやく私娼を神聖と呼ぶ「逆説」が見えてくる。男であろうが女であろうが適当にだましてやろうという由太郎を濵村は「惡魔」と呼びはしたが、由太郎はさして女には持てなかった。さしてというのはとことんではないという意味で、そこそこはもてたものの、ぎりぎりのところでは女に捨てられた。つまり…牛というあだ名のある倶楽部の給仕Dは、今こそ女を勝ち得て得意げだが、やがて女に捨てられる未来が待っている?
 いや、醜くなかった由太郎には惡魔の美はなく、醜いDにだけ悪魔の美があるのか…。
 こんな中学生のような観念を遊ぶ谷崎の真意がどこにあるのか、現時点では私には解らない。
 この中学生の思い付きのような「醜男だけが、ひとり惡魔の美を持つて居る」という逆説は、これまでも形を変えて何度か繰り返されてきたものだ。そして次作でもまた繰り返されるだろう。私にはそれが解る。何故ならば、先に読んでいるからだ。





【余談①】

 余談を書くのを忘れていた。

 谷崎潤一郎というと晩年のでっぷりとしたお爺さんというイメージがあるが、この作品を書いている当時の谷崎は眼光鋭いしゅっとした美青年である。いかついぶ男ではない。醜男とは言えない。しかし目つきは本当に悪い。こんな神童や天才はむしろ珍しいのではないか。
 川端康成も元神童の一人で、眼光は鋭いが、谷崎の場合鋭いというより、悪いのである。谷崎が繰り返し自己宣伝に使うキラーワードに「惡魔」というものがあるが、確かにそういう「悪い感じ」というものがある。しかし不思議と美しい感じというのはしない。だから「世間の醜男だけが、ひとり惡魔のを持つて居る」といった言葉がもう一つピンと来ない。何か言葉がチープな感じがしてしまう。あの大谷崎が、と言ってしまっては申し訳ないが、あの大谷崎でさえ言葉はこのくらい浮いてしまうんだと感ずる今日この頃。MRI検査は本当にやかましくてかなわん。

 





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