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文字だと気がつかない 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか③

 昨日は蝙蝠は人ではないかと書いた。蝙蝠がいた洞穴に「さん・せばすちあん」がいたことで、蝙蝠も「さん・せばすちあん」も両方怪しくなる仕掛けだ。蝙蝠がいた洞穴に石原さとみがいたら、やはり石原さとみも怪しくなる。あばれる君がいたら、まあ、そうかと思う。そのための「さん・せばすちあん」なのだ。

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 蝋燭の火の落ちた岩の壁。そこには勿論はっきりと「さん・せばすちあん」の横顔も映っている。その横顔の頸すじを尻っ尾の長いの影が一つ静かに頭の上へ登りはじめる。続いて又同じ猿の影が一つ。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 また猿が出てきた。気のせいだろうか。つい最近『猿』の話を読んだような気がする。

 ふむ。先月末か。割と最近だな。

 この猿たちはオオストラリアには猿がいなくて、ニホンザルの尻尾が短いことを知っているのだろうか。

 おそらく何も知りはすまい。しかし芥川龍之介という作家がそれを知らない筈はない。何故芥川は存在しない猿たちを存在させようとするのか。

 猿とは何なのか。

 首席司教?

 それにしても「影」を追って動きを伝えるのは、まるで「トムとジェリー」とか、ディズニーアニメの手法だな。

 文字だけで書いているとなかなか思いつかない書き方だ。

 それに昔の歌舞伎などの舞台は暗く、影で動きを見せる演技はなかった。

 小説作品としては『影』という作品でもそれに近い技巧が駆使されているが、少なくとも映画以前にこの書き方がされていることは結構凄いことなんじゃなかろうか。

 夏目漱石にもこういう書き方はなかったような……。

「おおい」と後れた男は立ち留りながら、先なる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり閑と行き尽して、萱ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く伸のして、返れ返れと二度ほど揺ゆすって見せる。桜の杖が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う間もなく、彼は帰って来た。

(夏目漱石『虞美人草』)

 あるっちゃあるようにも思えるが……

 渓川に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、辛うじて一縷の細き力に頂へ抜ける小径のなかに隠れた。草は固より去年の霜を持ち越したまま立枯れの姿であるが、薄く溶けた雲を透して真上から射し込む日影に蒸し返されて、両頬のほてるばかりに暖かい。

(夏目漱石『虞美人草』)

 この「影」はあくまで「姿」だな。

 やはり影を動かすという手法は新しいのではないか。

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「さん・せばすちあん」の組み合せた両手。彼の両手はいつの間にか紅毛人のパイプを握っている。パイプは始めは火をつけていない。が、見る見る空中へ煙草の煙を挙げはじめる。………

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 矛盾、非現実。

 結果的に猿は水兵の死の残酷さを消し去り、絵面をユーモラス活幻想的なものに変えた。

 十字架の前で煙草を吸う「さん・せばすちあん」。洞穴でタバコを吸えばカマドウマがいぶされてぴょんぴょん跳ねるのではないか。それはゆるゆるの服を着ればお乳が見えそうになるのと同じ理屈である。

 ところで『誘惑』とは、誰が何を誘惑?

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 前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」は急に立ち上り、パイプを岩の上へ投げつけてしまう。しかしパイプは不相変らず煙草の煙を立ち昇らせている。彼は驚きを示したまま、二度とパイプに近よらない。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 ここで「さん・せばすちあん」の驚きの意味が解らないように、何故ウクライナの債務保証を日本がしなければならないのか私には解らない。「さん・せばすちあん」は明らかにおかしい。

 猿は?

 二匹の猿はどうなった?

 猿は全部で何匹いる?

 私には何も解らない。

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 岩の上に落ちたパイプ。パイプは徐ろに酒を入れた「ふらすこ」の瓶に変ってしまう。のみならずその又「ふらすこ」の瓶も一きれの「花かすていら」に変ってしまう。最後にその「花かすていら」さえ今はもう食物しょくもつではない。そこには年の若い傾城が一人、艶しい膝を崩したまま、斜めに誰かの顔を見上げている。………

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)


紅毛雑話 5巻 [1] 森島中良 編河内屋仁助[ほか11名]


古事類苑 飲食部1

 これは傾城には見えない。

 なるほど。

 解ったぞ。

 猿の正体は悪魔だな。「さん・せばすちあん」を煙草と酒とお菓子と女で誘惑するつもりだな。

 だから「さん・せばすちあん」はつい煙草を吸い、パイプを投げつけたわけだ。猿はどんな人間の中にも忍び込み、私の本を買わないように仕向けるのか。

 それは剣呑だ。直ぐこの本を買わねば。

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