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すれ違う二人の天才② 鏡花パンチ


秋声老人は、「僕は実は紅葉よりも露伴を尊敬していたのだが、露伴が恐ろしかったので紅葉の門に這入ったのだ」といっていたが、同じ紅葉門下でも、その点鏡花は秋声と全く違う。この人は心の底から紅葉を崇拝していた。紅葉の死後も毎朝顔を洗って飯を食う前に、必ず旧師の写真の前に跪いて礼拝することを怠らなかった。つまり「婦系図」の中に出て来る真砂町の先生、あのモデルが紅葉山人なのである。或る時秋声老人が「紅葉なんてそんなに偉い作家ではない」というと、座にあった鏡花が憤然として秋声を擲りつけたという話を、その場に居合わせた元の改造社長山本実彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらいなことはしかねない。

(谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』)

 この流れだと『金色夜叉』を読んで「自分にもあれくらい書ける」と嘯いた夏目漱石も鏡花にパンチを喰らっていたかもしれない。

 漱石が一高の英語を教えていた時分、英法科に籍を置いていた私は廊下や校庭で行き逢うたびにお時儀をした覚えがあるが、漱石は私の級を受け持ってくれなかったので、残念ながら謦咳に接する折がなかった。私が帝大生であった時分、電車は本郷三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかったので、漱石はあすこからいつも人力車に乗っていたが、リュウとした対の大嶋の和服で、青木堂の前で俥を止めて葉巻などを買っていた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大学の先生にしては贅沢なものだと、よくそう思い思いした。

(谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』)

 いまさらながら「押しかけろよ」と云いたくなる。それでどうなったか、論語で諭されたか……。なかった話ながら、もしと考えてみると面白い。


肌合いの相違というものは仕方のないもので、東京生れの作家の中には島崎藤村を毛嫌いする人が少くなかったように思う。私の知っているのでは、荷風、芥川、辰野隆氏など皆そうである。漱石も露骨な書き方はしていないが、相当に藤村を嫌っていたらしいことは「春」の批評をした言葉のはしはしに窺うことが出来る。最もアケスケに藤村を罵ったのは芥川で、めったにああいう悪口を書かない男が書いたのだから、よほど嫌いだったに違いない。

(谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』)

 そういえばそうか。まあそうか。しやしかし、谷崎もそうか。

そういう私も、芥川のように正面切っては書かなかったが、遠廻しにチクリチクリ書いた覚えは数回ある。作家同士というものは妙に嗅覚が働くもので、藤村も私が嫌っていることを嗅ぎつけており、多少気にしていたように思う。そして藤村が気にしているらしいことも、私の方にちゃんと分っていた。

(谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』)

 みんな仲良くしろよ。いちゃいちゃはしなくていいけれど。

 



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