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三島由紀夫の書簡を読む⑩ 仮面は残って首が落ちた

天皇制は愚劣だ


 この三島由紀夫の書簡集は宛先のあいうえお順で、時間を何度も行き来するのでめまいがしそうだ。

 一昨日、光文社の二十代座談会といふ奴で講談社へ行きましたが、お寄りする暇がありませんでした。「天皇制は愚劣だ」といふ奴に反対すれば、「不健全な思想だ」と罵られ、うつかり、「僕は政治には無関心だ」といへば、さんざんに揚げ足をとられ、満身矢傷でかへつてきました。このごろは僕も少々人間恐怖症です。
               昭和二十二年九月二十三日

(「高橋清次宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 高橋清次は大日本雄弁会講談社の「少年倶楽部」の編集者であったようだ。

 この時三島はノンポリ、そしてやせっぽちの「夜の仕度」を書いたばかりの学生であり、この二十代の集いに、ぎりぎり二十代の加藤周一、中村真一郎、福永武彦らが混ざっていたとしたならば、弁舌ではやはりとても歯が立たなかったのだろう。

 後の東大全共闘との討論会などを考えると隔世の感がある。

 なおこの時のトラウマは「お里が知れる」として最後の対談までも残っていたのではないかと私は勝手に考えている。


蹉跌


 事件の経過は予定では二時間であります。しかし、いかなる蹉跌が起るかもしれず、予断を許しません。傍目にはいかに狂気の沙汰と見えようとも、小生らとしては、純粋に憂国の情に出でたるものであることを、ご理解いただきたく思います。
 万々一、思ひかけぬ事前の蹉跌により、一切を中止して、小生が市ヶ谷会館へ帰つて來るとすれば、それはおそらく、十一時四十分頃まででありませう。もし、その節は、この手紙、檄、写真を御返却いただき、一切をお忘れいただくことを、虫の好いお願ひ乍らお願ひ申上げます。
               昭和四十五年十一月二十五日

(「伊達宗克宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 つまりこれは三島事件がテレビ放送されるための協力依頼で、といちいち説明するまでもないことだろう。ただここまで用意周到に、冷徹に事を運んだかと感心するばかりである。
 
 この事件は猪瀬直樹の『ペルソナ-三島由紀夫伝』などを読む限りかなり無理のあるものであり、いくつもの奇蹟が重なって為し終えたもので「万々一、思ひかけぬ事前の蹉跌により、一切を中止して」などというものではなかった筈だ。佐々淳行なども事前に「三島が何かやるかもしれない」と察しており、失敗する可能性の方が高いものであった。

 しかし三島は正気のまま、成功するための準備を抜かりなく行っていた。やったことからすれば正気とは思えないが、この「もし、その節は、この手紙、檄、写真を御返却いただき、一切をお忘れいただくことを、虫の好いお願ひ乍らお願ひ申上げます」という辺りはかなり現実的な考え方である。
 脚本、演出、主演、全部三島由紀夫の大芝居をやるからカメラはよろしくというなんとも物凄い手紙だ。


小生の内面


 人々が私を見る目は、私の文学やその他に迷わされてゐるのだと思ひます。
               昭和四十五年八月十日    

(「田中千世子宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 田中千世子は面識のない人のようで「世間の人の誰も知らぬ小生の内面」を洞察してしまった人のようだ。これが赤ニシンでなければ、三島由紀夫は天皇信仰者でも憂国の義士でもなく、おかまのヒステリーでも西郷さんでもなくなる。

 それにしても磯部浅一が憑依したなどという小芝居は兎も角として、あれだけ煙幕も張り、宣伝もして、誤魔化し続けてきた三島が「私の文学やその他に迷わされてゐるのだと思ひます」と書いているのが妙におかしい。

 三島文学には三島の内面の反映などない、という宣言は三島由紀夫の主要な作品の解釈から三島由紀夫の行動や思想を読み解こうとする試みの失敗を予め宣言している。


欣喜雀躍


 さて早速乍ら、本日嶋中鵬二氏より電話がございまして、思ひかけぬことに、先生が拙著「美しい星」をお読み下さつてゐる由、そればかりか、望外のお言葉を賜つた由承はりまして、これ以上めでたい新春はないと欣喜雀躍いたしてをります。
               昭和三十八年一月三日

(「谷崎潤一郎宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 三島由紀夫の谷崎潤一郎あての手紙は三通だけと思いのほか少ない。もっと若い時期から手紙はよこしていたのではないかと思われるが、谷崎潤一郎の方で古いものは失念してしまっているのではなかろうか。

 とにもかくにもここには三島由紀夫の谷崎潤一郎に対する憧れと、前年連載、十月に刊行された「美しい星」に対するこだわりが感じられる。ドナルド・キーンに英訳を断られるなど決して評判の良くなかった「美しい星」を素直に認める谷崎も立派である。1886年生まれの谷崎潤一郎は1963年には七十七歳、この二年後にこの世を去る。『瘋癲老人日記』が昭和三十六年。当時の七十七歳の老作家が、いきなりSF哲学小説を読まされて受け入れられたのが凄い。

 時代を問わず老人は頑固になっていく。新しいものが受け入れられない。自分の価値観が変えられないし変えたくないところに、SFや哲学はなかなか厳しいのではなかろうか。だからこそ大谷崎なのだと感心するところ。


青酸カリも御免です

 私は暴力肯定論者で、精神の暴力で、うんと血なまぐさい兇行を演じたいと存じます。事実私は美少年を見ると、油をぶつかけて火をつけて焼いてやりたいと思はぬ時はありません。
 笑われるかもしれないが、僕の生活の理想を申し上げようかなア。
 僕はお金持ちになつたらガツガツに飢ゑた獅子を飼ひたいと思ひます。今獅子は自動車より高ひでせうか。
 その檻の前でときどき世にも莫迦げた淫蕩な宴会をひらきます。もちろん檀さんを主賓にいたします。上等な真紅の葡萄酒以外のお酒は飲みません。
 僕は年をとつて、白ぶくれに肥つて、象のやうになります。(なれたらね!) そしてたえず猥褻なことを言ひ、時々哲人の言を吐きます。
 そして死期が近づいたら、寵童を悉く獅子の檻のなかへ放り込んで、それを見物しながら、阿片でも呑んで死にませうかね。ヒロポン、アドルムは絶対に御免です。青酸カリも御免です。
               昭和二十四年十二月十六日

(「檀一雄宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 檀一雄は一回り以上年上の先輩。その檀一雄に対して途中で「私」が「僕」に切り替わっていて、最後は酔っぱらいのようでさえある。随分親しげではあるが、檀一雄あての手紙も二通しかない。檀一雄は三島由紀夫のお友達ではないのだ。

 これが昭和二十四年の手紙であることを考えれば、つまり『仮面の告白』の成功の余韻の裡にあると考えれば、これも強かなセルフプロデュースではないかという疑いは消えない。

 一体三島はこの手紙に書かれているようなサディストではなく、どちらかと言えばマゾヒストである。

 そう気が付いて読み直すと、実にうまく書いている。この手紙を読んだ檀一雄は、三島由紀夫という新人作家の変態性を疑うことはないだろう。それにしても三島由紀夫の仮面は剥いでも剥いでも切りがない。


僕の劇は

「僕の劇は/仮面のない時からはじまつた」
 とは耳の痛いやうな御詩句ですが、
「仮面と/仮面との間におちた/僕の顔を探している」
とは更に痛切な御詩句です。
             昭和四十二年十二月二十九日

(「堤清二宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 堤清二は楯の会の制服を作った人である。
 
 ここも三島が煙幕を張っているようで案外「僕の劇は/仮面のない時からはじまつた」「仮面と/仮面との間におちた/僕の顔を探している」という言葉はたまたま三島由紀夫論として正鵠を射ているのではあるまいか、と三島が認めているところ。三島の劇は母から遠ざけられ祖母の前で女の子の遊びをさせられていた時から始まっていたのであろう。

 本当の顔が仮面のように落ちてなくなる訳もないというのは間違いで、仮面はいつでも見つけられるが、本当の顔などそうそう見つけられるものでもあるまい。

 三島由紀夫の本当の顔は最期に落ちて、七生報国の生首になった。胴体と顔が離れて、三島由紀夫が出来上がった。

 七生報国のメッセージを解かない三島由紀夫論には一文の価値もない。三千八百円で売ってはいけない。


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