今年も桜は咲いている

志望校合格を「サクラサク」と表現することがある。発表がある春のイメージと蕾から花が開くポジティブなイメージが混ざり合うよくできた表現だと思っている。
だが個人的にこの表現はあまり好きではない。なぜなら桜の花が咲く事は毎年当たり前のことで人生を左右する合格とは不釣り合いに思うからだ。

これは桜が咲く事の感動が薄いと言っているのではなく、単に美しさの性質が違いすぎるという話だ。桜は木が枯れない限り毎年花をつける。春に対し「桜の花が咲く時期」の認知が大衆に染みつくほどに桜の花は日常に溶け込んでいる。あって然るべきもの、環境を構成するものの一つでありそれこそが「桜が咲く」ことの美しさだと思っている。
一方志望校合格はどうだろう。まず日常的ではない、結果如何によって人生を左右するものが思い通りにいった人の心境を考えるとさながら長い戦闘に勝利した兵士のようにも思えてくる。あって当たり前のものがない暗闇の中、必死にもがき苦しみ光を目指したその果ての光はどうしようもなく眩しいはず。そのどうしようもなさからは日常とかけ離れたものを感じるだろう。いわば非日常からの解放、そして大きな変化が現れる出来事であり生まれる感情の大きさは人生でも指折りのものとなるに違いない。

桜は一度咲いたら咲きっぱなしではない。必ず散る。満開を楽しめる時期は一週間も無い。だが来年には蕾をつけて花を咲かせる。そのことに安心感すら感じる。それが桜の持つ趣であり美しさだ。散らない桜は造花でしかなく桜本来の風情を持つことは無い。
合格は結果であり出た時点で覆ることは前提でない。消えること自体が例外で基本的にいくら時が経とうとも不変のものとして過去に鎮座する。変わらない事そのものが価値であり、変えられないが故に必死につかみ取ろうとする。その必死さが喜びに変わる。
繰り返される暖かさは繰り返されない輝きの代わりにはなり得ないと思うのだが如何だろうか。

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