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第12回 神戸・新開地「初の神戸新開地ツアー」

喜楽館の体験バックツアー企画

毎月一回、京都を散策する会に参加しているが、「地球沸騰」とも言われた今年のあまりの暑さに、8月の例会は京都を歩き回るのではなく、上方落語の定席・喜楽館での落語鑑賞を中心とした神戸・新開地ツアーを実施することになった。
当然ながら地元出身の私が世話役を務めた。

8月22日(火)11時半、集まったのは60代、70代の男女メンバー10人。神戸市兵庫区の新開地本通りにある喜楽館前である。
客席に入ると、落語家の桂三ノ助さんから、喜楽館の舞台や落語で使われる道具、裏方の役回りなどの説明を受けた。

三ノ助さんは地元神戸出身。喜楽館館長補佐

館内には、舞台から見て左右に同じ時刻を刻んでいる時計がかけられている。一見すると奇妙であるが、落語家は右を見てしゃべる人物と、左を見てしゃべる人物は別の人物という前提で話が進むので、演者が左右どちらからでも時計を見ることができる。

寄席文字は、独特の太い筆致である。寄席の看板や高座のめくりに用いられる。これは多くの客が寄席に集まるように字を詰まり気味にして、隙間が最小限になるよう(空席が少なくなるよう)に縁起をかついでいるのだという。

演目の合間に落語家が座る座布団や見台などの道具を運んだり、落語家の名ビラをめくったりするお茶子ちゃこさんの舞台を整える役割についての説明もあった。
座布団を「縁の切れ目にならないように」縫い目のない辺が客席に向くように置き、座布団の色についても演者の着物の色と合うように選ぶこともあるそうだ。
桂三ノ助さんの説明後は、楽屋など館内の一部も案内してもらった。

12時過ぎに喜楽館前にある「グリル一平」の洋食に舌鼓を打った後、再び喜楽館に戻って14時からは昼席の落語を存分に楽しんだ。

あまりにも有名なグリル一平の名物・オムライス

各落語家さんの熱演で会場も大いに沸いた。
夏休み期間だったので、「親子も楽しい落語会」ということで、「ラクゴニンジャの落語解説」もあって子どもの笑い声も館内に響いていた。

私の隣にいた友人は、桂米紫さんの「宗論」(親子間のキリスト教と浄土真宗との宗教論争の噺)で大笑いしていた。

また私たちと同年代の笑福亭鶴笑師匠が、人形などの小道具を手足にはめて汗をかきかき演じるパペット落語「ゴジラ対モスラ」に大人も子どもも大喜び。
その一生懸命さに一同心を動かされた。

この日の出番表

参加したメンバーは、生の落語を聞くのが初めての人ばかり。舞台や裏方の役回り等の説明、バックヤードの見学ももちろん初体験なので大変喜んでくれた。
私自身も、一人で落語を鑑賞するよりもメンバーと一緒だとさらに楽しくなることを実感した。
10人以上集まれば、この喜楽館の体験バックツアーを企画することができる。

湊川温泉劇場の心地よさ

その後は、新開地商店街、湊川公園、かつての遊郭街の福原、湊川神社を私の拙い説明付きで一緒にぶらり歩きとなった。

喜楽館を少し北にあがった道路の向かい側に、かつては神戸松竹座があった。
1976年に閉館した頃は閑古鳥が鳴いていたが、1960年代は「演芸の松竹座」として活況を呈していた。

喜楽館とは違って、かしまし娘、横山ホットブラザーズ、宮川左近ショー、暁伸・ミスハワイなどの音曲漫才や、海原お浜・小浜、若井はんじ・けんじなどのしゃべくり漫才を中心に、落語や手品や腹話術などの諸芸も入った番組構成だった。

かつての松竹座

神戸松竹座の裏にあった銭湯の花月湯で、レツゴー三匹のじゅんさんと出会った話をfacebookにアップすると、「松竹座の前で笑福亭松鶴師匠が、我々高校生に『お兄ちゃんごめん前開けて』って言われた」「レツゴー三匹の長作さんとぶつかって、『あ、兄ちゃんごめんな』とつぶやかれた」等のコメントも入る。

本通りは、当時の人通りや賑わいのあった頃の面影はない。演芸場や映画館がパチンコ店に変貌しているのを見ると侘しさも募る。
さらに北に歩いていくと左手の路地の先には大きなマンションが立っている。ここにはかつて湊川温泉劇場があった。

あらためてネットに挙がっている当時の写真を見ると、1階は大浴場とサウンと家族風呂、2階は食堂やマッサージ、美容室、3階が映画館になっていた。地下は別に温泉地下劇場があって成人映画を上映していた。
直木賞作家の陳舜臣は、著書の中で「ひよっとするとヘルス・センターの元祖かも知れない」と述べている。

小学生の頃は、「湯船につかりながら、男湯と女湯から同時に映画のスクリーンを観ることなんてできるのか? 間の仕切りが邪魔になるのではないか?」と完全に誤解した疑問に取りつかれていた。

映画好きは沢山いても、風呂上がりの映画鑑賞の心地よさを知らない人は多い。残念ながらこの劇場は83年に閉館している。

この湊川温泉劇場の写真にある「家族風呂」という形態は、新開地界隈にいくつかあった。普段は銭湯に通うが、たまに家族だけで1時間とか入れるプライベートの風呂があった。私も家族と一緒に行った記憶がある。

そういう意味では、福原に数多くあった入浴料の高い「浮世風呂」(後のトルコ、ソープランド)といい、温泉劇場、サウナ、家族風呂、銭湯など、新開地界隈は、お風呂と相性が良いのかもしれない。
今もJR神戸駅前にある「万葉の湯」内のイベントホールでは毎日映画が上映されている。私がよく通っているのは、子どもの頃の湊川温泉劇場の影響かもしれない。

面白いオジサンもいた湊川公園周辺

さらに少し北に歩くと、楠木正成公の騎馬像が鎮座している湊川公園(神戸市兵庫区荒田町1)にぶつかる。この銅像は「大楠公殉節600年祭」があった1935(昭和10)年、神戸新聞社が募金活動し、計15万人以上の賛同を得て寄贈した。

この湊川公園のある場所も新開地本通りも、元は湊川の川床だった。川底が高い天井川だったので、神戸の街の発展とともに東西交通の障害になり問題視されていた。

明治29年(1896)に大規模な水害が起こったことをきっかけに、湊川公園の北側で川を付け替える大規模な工事が行われた。
その結果、湊川公園、新開地本通りが誕生したのである。

この湊川公園は、私が小学生の頃は小さな遊園地があって、鬼のおなかにボールを当てると、ガォーと唸る遊具などがあった。
また1924年に建てられた神戸タワーが立っていた。高さが90mあって、浅草の凌雲閣、大阪の通天閣とならんで、「日本の三大望楼」と呼ばれていた。
昭和43年(1968)に撤去されたのちは、空き地も広がったので私が中学生の頃には、野球の練習などをして楽しんだ。

当時は、まだ人通りも多く、湊川公園に隣接した交差点では、1968年の参議院議員選挙に作家から立候補した石原慎太郎と、彼の弟の石原裕次郎が選挙カーの上に並んで選挙演説をしていた記憶がある。
二人とも神戸生まれだったからだろう。

この交差点では、黄信号で横断歩道を渡ると、「ピッ―、ピッ―」と笛を吹いて注意する太ったおじさんがいた。私たち中学生は、笛を吹いてほしくて、わざと黄信号のタイミングで渡って楽しんでいた。
近くで行われていた工事のために交通整理をしていたと思っていたが、後に聞いた話では、彼は工事関係者ではなく、自分で木箱の上に乗って勝手に笛を吹いていたらしい。
真偽は不明だが、さもありなんという感じだ。子どもから見て面白いオジサンは当時あちこちにいた。

また、この交差点に面しているパークタウンや湊川商店街などが、歳末の大感謝祭で、「現金つかみどり!」をやっていたのを思い出す。札が空中で飛んでいるのを手でつかみ取るイベントだった。ネットで調べてみると、最近まで行われていたことに驚いた。

高校時代の友人は両親から「この湊川公園より南(新開地本通り、福原)に行ってはいけない」と釘を刺されていたそうだ。
怖い街という受け止めだったのかもしれない。ただ私は20年以上住んでいて恐ろしい目にあった記憶は全くない。

余談だが、拙著『定年後』を取り上げたNHKテレビの『関西熱視線』という番組で、新開地本通りを歩きながら撮影するロケがあった。
私が「子どもの頃の自分を取り戻すことが大切だ」と語った後で、「あっちの世界からこの新開地に来たので、あっちに行く時もここから旅立たないといけない」と話したが、後半の部分はカットされて放映されなかった。

しかし私は後半のフレーズを強調したかった。イギリスの社会保障の説明で、「ゆりかごから墓場まで」というフレーズがあるが、私はゆりかごの前と、墓場の後が気になるタイプなのだ。

福原の桜筋、柳筋へ

その後、湊川公園から下った坂の途中にあるミナエンタウンの前を通る。
映画館「パルシネマしんこうえん」がある。昭和46年(1971)に開館したこの映画館は、名画を昔ながらの二本立てで上映している。
新開地界隈には、かつて数多くの映画館があったが、現在は数館のみだ。

「名画をあなたに」という文句と昭和な書体が泣かせる

坂を下り切った道路が新開地と福原町の境界になる。福原の街中に入る角に居酒屋の名店「丸萬」がある。ご主人は、私と同じ橘小学校、楠中学の卒業生だ。

平日の夕刻の街は全く静かだった。私の小学生の頃は、歓楽街の中にも子どもの声が飛び交っていた。今は通った小学校は近くの2校と統合されている。 

福原遊郭ができたのは明治の初め。元町の外国人居留地と「兵庫の津」として昔から栄えた街との中間地点である現在のJR神戸駅の東側に遊郭がおかれた。
明治4年(1871)に鉄道開通で神戸駅ができることになり、現在の福原町に移転した。
荒涼とした土地に忽然と色街が出現して大いに繁栄したという。当時は桜や柳が街路樹として植えられた。それが現在も残る「桜筋」「柳筋」の起源であり、福原のメインストリートになっている。

桜の頃の「桜筋」

昭和33年(1958)4月の売春防止法の完全実施の後は、「浮世風呂」という形態が生まれ、「(ニュー)トルコ」という名称を経て、ソープランドに変遷していく。
実際には、福原地区内には、これ以外の様々な形態の遊びの店も数多くあった。

当時の浮世風呂の老舗「いろは」は、コンパニオンの源氏名が、王、長嶋、広岡などのプロ野球選手だったという話を聞いていた。これは俳優など多方面で活躍した小沢昭一さんの本にも紹介されている。
またある人の個人ブログに「衣笠とか安仁屋とか川藤」と書かれていたので、有名選手だけでなく個性的な選手名もあったのかもしれない。

「いろは」の看板が見える

店の前で「兄さん、寄ってらっしゃいよ」と呼び込む「ひっこのおばさん」は、川上や鶴岡といった監督の名前が付けられていた。
ちなみに、今はどの店も玄関での案内はすべて男性になっている。

私の小・中学校時代の友人のM君は、神戸市内で中学校の教師をしていたが、同じ同級生のF君と久しぶりに会おうということになって、F君の親が経営する浮世風呂の店の前で、彼が出てくるのを待っていた。

その時に運悪く、M君が教壇に立つ中学校のPTAのお母さん、お父さん数人がたまたま近くを通りかかった。
「いやっ、先生こんなところで」
「違う違う、昔の友人と会うためにここで待っているんだ」
そう答えたものの、「先生分かっているから。大丈夫、大丈夫。誰にも言わないから」と信じてくれなかったそうだ。

色街の中で育つと、こういう面白い話を持っている人が多い。ちなみに父兄は「誰にも言わないから」と言いながら、絶対誰彼となく面白おかしいネタにしていたに違いない。

私自身は小学校の高学年の時に、浮世風呂に薬の配達に行ったことがある。

裏口で、しばらく待たされている間、白い光沢のある長襦袢を羽織った女性が忙しそうに行き来するのを眺めていた。
私が薬を渡した女性は、小柄で丸顔の少しぽっちゃりした女性だった。

「お兄さん、かわいいわね」というような声をかけてくれた。白粉と香水が混じったような匂いは今でも記憶に残っている。家に帰ると、父が母に「あそこに配達に行かせたんか」と批判めいて話していた。

私は高校生くらいまでは、丸顔の少しぽっちゃりとした女性がタイプだった。
高校一年生の時のクラスメートや、今も活躍している紙ふうせんの平山泰代さんや、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのメンバーだった三原綱木の元妻の田代みどりさん。キャンディーズでいえば、文句なしにスーちゃんだった。

タイプが似通っているのは、あの時の小柄な丸顔のお姉さんの影響ではないかと勝手に思い込んでいた。
けれども山口百恵が出現して以降は、その呪縛から解放された。

色街にもヒエラルキーがあった

立花隆の『ぼくはこんな本を読んできた』 (文春文庫)の「私の読書日記」の中で、ジャック ロシオ の『中世娼婦の社会史』(阿部謹也・土浪博訳, 筑摩書房)が紹介されている。
フランスの15世紀のローヌ河流域の諸都市に残されていた公文書や裁判記録を基に、売春の歴史が描かれている本である。

当時は、どこの都市にも公営の売春宿があった。公衆浴場(蒸し風呂)が公然の売春センターとなっていて、「風呂に行く」という表現は特殊な意味を持っていた。
立花隆は、「ソープランドは昔からあったのである」と読書日記に書いている。 

この本では、売春宿には、ヒエラルキーが存在していて、公衆浴場は最上位の場所だった。安い宿を使う場合や路上で客をひいて外でことをすますケースもあったそうだ。

翻訳者は、ヨーロッパ中世史研究者で、元一橋大学学長の阿部謹也なので、やや硬い本であるが売買春から社会構造を見ようとしている点が興味深い。

この本を読んで、活況を呈していた当時の福原にもヒエラルキーが存在したことを思い出した。浮世風呂が一番上位だとすれば、和風サロンやお座敷サロンをうたう場所や、怪しげな小さな旅館などもあった。

私も子どもだったので、どんなサービスをしているのかは分からなかったが、業態不明の店も多かった。路上でお客さんに声をかけて自宅に引き入れている人もいた。

しかし今日では街全体の勢いが感じられず、かつてのような色々な業態の店もほとんど消失しているのではないだろうか。個人が跋扈している姿も見られない。
福原も「ソープ街」という名称でも違和感がなくなっている。

三宮や元町も戦前からの繁華街であるが、都会的な雰囲気があって新たな風俗の店舗もある。一方で、新開地、福原は同じ歓楽街でも庶民的な風情が強く、神戸が持つ「異国情緒」や「おしゃれな港町」といったイメージとは重なりにくいエリアである。東京でいえば、浅草や吉原に近いものを感じる。

余談であるが、昭和40年代くらいまでは、地域の薬局が健康相談にのることもあったので、胃腸薬、頭痛薬や栄養ドリンクなどを買いに来たお客さんが店内で父母と長く話すこともあった。

とくに「飲まないと頭痛が収まらない」と、ノーシン錠やセデス錠を買い求める女性が多かった。青白っぽい顔色の人が多く、クセになっているのではないかと思っていた。顔の印象を左右する一つは顔色だという感じがその頃から私にはある。

またある時に、覚せい剤による幻覚で、「部屋の天井の角に、非常に多くの黒い虫がブワ~っと群れになって動いているように見える」というリアルな話を店の奥で聞いていて怖くなったことを覚えている。

またまた余談になるが、近所の遊び人のオジサンから、「覚せい剤をやっているかどうかの見分け方」を指南(?)されたことがある。
喫茶店やレストランに入ったときにテーブルの上にある小さなホコリを指で捕ろうと繰り返す人がそうだというのだ。真偽は不明だが、神経が相当過敏になるというのは店で話を聞いていて感じていた。

海外旅行よりも地元の街歩き

新開地・福原ツアーの話に戻ると、福原を後にして湊川神社に立ち寄った後に、最後は神戸駅前の居酒屋で怪気炎を上げて終了という流れだった。
大正14年(1925)から新開地で愛されてきた「春陽軒」の豚まんを手土産としてメンバーに持って帰ってもらった。

湊川神社のことは次回にあらためて書いてみたい。

新型コロナウイルス感染症の位置付けが、5類に移行されて海外旅行も復活している。
海外旅行も良いだろうが、一方で地元を歩きながら足許にあるものを仲間と一緒に楽しむことも大切ではないだろうか。
とくに60代半ばを越えると、体力面からも海外旅行も大変になってくる。過去の思い出やノスタルジーなどの面からも地元が自分の居場所の一つになってくる人は少なくない。

神戸・新開地ツアーをまた企画してみたいと思っている。





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