見出し画像

【新刊先読み】名前のない鍋、きょうの鍋。そんな鍋があなたの家にもきっとあるはず。

10月25日発売の新刊『名前のない鍋、きょうの鍋』(白央篤司著・光文社刊)より、「はじめに」を抜粋してお届けします。


「鍋つゆの素がなかったら、鍋はしないですね」

 数年前のある日、少なからず衝撃を受けた。仕事関係の人たちと雑談をしていて「鍋だったら何が好きか」みたいな話になり、家での鍋作りの話題になったときのこと。「鍋をするならスーパーで何かしらの鍋つゆを買ってきて、パッケージに書いてあるレシピ例のとおり、野菜や具をそろえてやるのが常」とその人は言う。

 驚いた。私にとって鍋とは野菜類などが余っているとき、一度に片づけたくてやるものだったから。それだけじゃさびしいので、手頃な肉や魚介なりも買ってなんらかの出汁で煮る。あとはぽん酢があれば一食になるラクさ、気軽さもうれしい。鍋とは私にとって主に食材使い切り術のひとつだった。
「使い切るとか、あるものを適当に入れるってイメージはまったくないです。だってレシピどおりやらないと、おいしくならないと思うし」

 鍋って「レシピ」という言葉からいちばん遠いような存在に当時の私は思っていたので最初は戸惑ったが、だんだん「なるほど、そういう考え方もあるか」と新鮮に思えてくる。同時に私は鍋のありようを自分の主観だけで決めつけていたのだと気づかされ、反省した。料理に限らず「○○とはこういうもの」と自分の経験や知識だけで決めつけるのは慎むべきことと思ってきたつもりなのに、まだまだダメだなと。

 当たり前だが、鍋の形も人それぞれなのである。よく考えてみればスーパーで鍋つゆの素の棚は年々面積を増し、種類も豊富になっている。今まであまり意識してこなかったが「あるもので適当に、昆布出汁でも張って、ぽん酢で鍋派」はひょっとしたら少数派になっているのかもしれない。

 急に気になりはじめた――今、日本に暮らす人々は家でどんな鍋をしているのだろうか。ありものでやっているのか、何かレシピを参考にしているのか。東西に長い日本、地域ごとに定番の鍋もいろいろある。食材による地域色もきっと出るに違いない。年代もそうだ、若い人のやる鍋とご高齢の方たちが好む鍋には必ず差が出るだろう。いやひょっとして、今やあまり変わらないのかも?

 そもそも鍋自体はどんなものが多く使われているのか。うちはずっとスーパーの食器売り場で買ったシンプルな土鍋だったけれど、あるとき無印良品が出していたステンレスの鍋を買ってみたら軽くて実に扱いやすく、以来すっかり土鍋はほこりをかぶっている。家での鍋って、他にどんなものが使われているだろう。そして人気の味つけは。スーパーを何軒かまわれば、豆乳味噌やごま味噌風味の鍋つゆがいちばん目立つ棚によく並んでいる。韓国のチゲ風味も人気のようだ(韓国語でチゲは「鍋」という意味だから、鍋風味というのも本来はおかしい話だけれども、ここでは唐辛子のきいた味噌味的な意味で書いている)。実際これらの味つけは人気なのだろうか……と、鍋に関する疑問や興味が次々と湧いてきて止まらなくなった。

 市井の人々のリアルな鍋の姿を知りたい。現代日本に住む人たちがどんな風に鍋とつきあい、その中にどんなものを刻み入れて、味つけはどうしているのかを取材したい。思いが湧き立ったその日のうちに知り合いのネットメディアの編集者にメールを送ったら、翌日「面白い、やりましょう」とすぐ返事をもらえたのは幸運という他なかった。朝日新聞ウィズニュースの水野梓編集長にあらためて心より感謝申し上げる。

 本書では18人の「いつもの鍋」を紹介している。「なぜ、こういう鍋をされるのですか」という問いかけから、その方の育ってきた環境のこと、なじみある土地への思い、家族構成、趣味、関わっている仕事とその状況など、話は多岐にわたって想像以上に広がった。大事な人の思い出が詰まった追憶の鍋もあれば、栄養バランスや手軽さを優先した結果という人もいる。皆それぞれに、鍋から人生が垣間見えてきた。

 取材するたび、日本における「鍋」というものの良さ、面白さを再確認することも多かった。実に融通無碍(ゆうずうむげ)なものと何度も思い、あらゆるシーンに対応可能なマルチな存在であるというのが私の思いだ。そして取材中は鍋を挟んでご相伴にもあずかるわけだが、間に湯気をたたえた鍋があるだけでなんとなく胸襟が開くというのか、訊きやすくもなり、あちらも話しやすくなるようなムードが生まれてくる。そんな不思議な感覚を覚えたのは一度や二度ではなかった。これも、鍋の力と思う。

 本企画の取材はすべて「自宅に上がらせていただき」「台所と作っているところを実際に見て」「食べているところも含めて撮影させていただく」を条件にお願いしている。台所や冷蔵庫の中の感じ、家の中のちょっとしたインテリアや棚に並ぶ本や小物、壁に貼られたお子さんが描いた絵、飾られたフォトフレームの中の笑顔や風景、長年使ってきた家具から発せられる生活の匂い、その人が暮らすまちの空気感……といったものが、協力者の方々の生き様を雄弁に語ることも多々あり、それらを総合的に感じた上で文章にするというのは実にやりがいのある仕事となった。台所というプライベート極まるところに上げていただき、取材させてくださった方々に再度心よりお礼を申し上げたい。
  
白央篤司