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『フランス料理と批評の歴史 』を読む♪

八木 尚子著『フランス料理と批評の歴史 』中央公論新書(2010)は大変に興味深く、とてもスリリングな読書を体験できました・・・それでして、さらにこの書物を深読みをして、知的好奇心と熱意を沸騰させようと、補足的に関連情報を紐づけてゆくことにします。文章のほとんどはコピペですけど、すべてはフランス料理を愉しく美味しくいただくために、並べ替えの編集を施して若い方にも分かりやすい読物にしたいと思います🍷

フランス料理と批評の歴史

ルソー『社会契約論』

ルソーは、ジュネーヴ共和国に生まれ、18世紀フランスを中心に活動した哲学者。著書に『社会契約論』、『エミール』、『人間不平等起源論』などを出版している。
ルソーの思想は多くの哲学者や革命家に影響を与え、1789年のフランス革命ではルソーの思想を基盤とした「フランス人権宣言」が作られた。

ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)
1712年6月28日 - 1778年7月2日

社会契約によってすべての構成員が自由で平等な単一の国民となって、国家の一員として政治を動かしていく。だが、めいめいが自分の私利私欲を追求すれば、政治は機能せず国家も崩壊してしまう。そこで、ルソーは各構成員は共通の利益を志向する「一般意志」のもとに統合されるべきだと主張した。

ルソーの発言の一部

The Jews present us with an outstanding spectacle: the laws of (the ancient kingdoms) of Numa, Lycurgus and Solon are dead; the far more ancient ones of Moses are still alive. Athens, Sparta, and Rome have perished and all their people have vanished from the earth; though destroyed, Zion has not lost her children. They mingle with all nations but are never lost among them; they no longer have leaders, yet they are still a nation; they no longer have a country and yet they are still citizens…

ルソー思想の日本への影響


中江兆民、生田長江、大杉栄らはルソーの翻訳をし、また作家の島崎藤村は明治42年(1909年)3月に「ルウソオの『懺悔』中に見出したる自己」を発表し、ルソーの『懺悔録』、『告白』に深い影響を受けたと述べている

吉田松陰

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」
【仮説】吉田松陰の「一君万民論」は、ルソーの一般意志と同じ位相にある。
そうかもしれませんし、そうでないかもしれませんので、検証しなければならない課題と致します。

吉田 松󠄁陰〈1830年9月20日- 1859年11月21日〉

【ヒント】
ルソー『社会契約論』の「一般意志」で逆に盲点が生成されるのでは?
ロラン・バルト「中心なき空虚」と吉田松陰の「一君万民論」の関係性。
むかし柄谷行人が例えた、一コマだけ欠損させることで成立するパズルゲームのように。

中江 兆民(1847-1901)

は、日本の思想家、政治家。自由民権運動の理論的指導者であり、フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介したことから東洋のルソーと評される。
民約訳解 ルソー『社会契約論』仏学塾 1882年(漢文訳)

中江 兆民

桑原武夫

桑原武夫はフランス文学者であるが、この人は京都大学人文科学研究所にてルソー研究をやり、次にそのフランス革命思想つながりで中江兆民の研究をやっており、桑原のグループによるルソー研究ならびに中江兆民研究は相当に優れている。

桑原武夫『ルソー 』岩波新書


柄谷行人:現在のような子どもの理解や子どもの扱いが始まったのは、ルソーの『エミール』以降です。子ども扱い、というやつですね。ルソー以前には、子どもは大人と同じように扱われていて、小さな大人に過ぎなかった。

柄谷行人『日本近代文学の起源』岩波現代文庫

東浩紀

デリダ派哲学者として知られる東浩紀は、新しい政治構想として、解釈が難しく全体主義の一つの起源とまでされた一般意志を、ジークムント・フロイトの無意識論における集合的無意識と結びつけるという思想史的に見て非常に特異な解釈を示し、それをさらに情報化社会においてデータとして蓄積される集合知と結びつけることによって、現代の政治に一般意志を用いる構想を行っている・・・『一般意志2.0』

一般意志2.0


1755年 リスボン地震

11月1日はカトリックの祭日(万聖節)

1755年11月1日に発生したリスボン地震
9時40分に西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡した。推定されるマグニチュード8.5~9.0の巨大地震であったと考えられている。

この震災は近代の扉を開いたとされ、国家が直後の対応と復興に責任を持った最初の近代的災害といわれ、ヨーロッパ社会に多岐に影響を与え新しい科学や技術の数々を誕生させた。

また震災の悲報は、18世紀半ばの啓蒙時代にあった西ヨーロッパに思想的な影響を与え、啓蒙思想における理神論と崇高論の展開を強く促した。リスボン地震によって思想的に大きな変化を蒙った思想家には、ヴォルテールがいる。
『カンディード』や『リスボンの災害についての詩』は特に有名である。『カンディード』は、《慈悲深い神が監督する我々の「最善の可能世界」(le meilleur des mondes possibles)では、「すべての出来事は最善」である》という楽天主義を痛烈に攻撃し、『リスボンの災害についての詩』でも「すべては善である」というライプニッツ派の観念や、リスボンには天罰が下ったという意見に対して激しく反論する。

ジャン=ジャック・ルソーもこの地震による被害から衝撃を受けた一人であり、被害の深刻さはあまりにも多くの人々が都市の小さな一角に住んでいることから起こったものだとした。ルソーはこの地震は神罰ではなく文明のおごりが起こした人災と考え、都市に反対し、より素朴で自然な生活様式を求める議論に引用した。また神の善意を疑問視するヴォルテールの論に対して神の摂理を弁護し、この地震は被害に遭った人たちにとっては不幸でも、神にとっては全体の幸福のためのなんらかの目的があったと考えるべきであり、「すべては善」ではなくても、「全体にとっては善」とは言えると反論している。

ヴォルテールとルソーは良好な関係にあったのですが、このリスボン大地震の犠牲の受容をめぐって社会は動揺して神の全能や神の慈悲を懐疑する、キリスト教信仰擁護者への問題提起も起きたのです。その結果二人の間に亀裂が入ることになりました。

ルソーは、神の善意を疑問視するヴォルテールの論に対して神の摂理を弁護し、この地震は被害に遭った人たちにとっては不幸でも、神にとっては全体の幸福のためのなんらかの目的があったと考えるべきである。

ルソーはジュネーヴの牧師から神の摂理を弁護するよう依頼を受け、ヴォルテールに対してその主張を痛烈に批判する書簡を送っている。

ヴォルテールは論争の意志を見せず、さらにルソーからのその手紙の文学的センスを賞賛したところ、ルソーは激怒。また、ヴォルテールが著者であることをかくして旧約聖書への攻撃的批判である『サウル』を発表すると、ルソーはヴォルテールを名指しで攻撃した。


ヴォルテール(Voltaire)

本名フランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet)は、フランスの哲学者、文学者、歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物とされる。

ヴォルテール(Voltaire)
1694年11月21日 - 1778年5月30日[1])

同じく百科全書派の哲学者、ドゥニ・ディドロやジャン・ル・ロン・ダランベールなどとは長く良好な交流があったことはよく知られている。小説、詩、戯曲などの文学作品から、日記、多数の手紙(書簡)など、多くの著書を残した。なかでも『歴史哲学』、『寛容論』、『哲学辞典』、『哲学書簡』、『オイディプス』、『カンディード』などが代表作として知られている。

Eléments de la philosophie de Newton 1738年
 『哲学辞典』
The Dictionnaire philosophique is an encyclopedic dictionary published by the Enlightenment thinker Voltaire in 1764
初の翻訳:ヴォルテール:哲学辞典(春秋社版)

1778年には戯曲「イレーヌ」のパリ上演の知らせを受け、28年ぶりにパリへの帰還を決意する。パリにおいてヴォルテールは熱狂的に歓迎され、多くの人々が押し寄せた。

『イレーヌ』
Irène is a tragedy in five acts by Voltaire, and his penultimate play. It was written in 1776–1777 and premiered in Paris on March 16, 1778

ヴォルテールは、4月7日にはパリでアメリカ合衆国の駐フランス大使としてやってきたベンジャミン・フランクリンによりフランマソヌリに入会し、1778年4月7日正式 にフリーメイソンとなった。

ヴォルテールの著作

べンジャミン・フランクリン

1730年に、べンジャミン・フランクリンはフィラデルフィアのセントジョーンズ・ロッジ(St. John’s Lodge)にてフリーメイソンに入会。

アメリカ合衆国建国の父:ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)
33度グランドマスター
グレゴリオ暦1706年1月17日<ユリウス暦1705年1月6日>〜1790年4月17日

1731年、フィラデルフィアにアメリカ初の公共図書館(フィラデルフィア組合図書館)を設立するこの図書館は成功を収め、これを規範にアメリカの他の都市にも図書館が開設されるようになった。

1734年ウォーター・ストリートのタン・タヴァンのフリーメイソンリー(フリーメイソン)のロッジで、グランド・マスターに選ばれた。

1761年、ガラス製の楽器 グラス・ハーモニカ を発明

1776年、アメリカ独立宣言の起草委員となり、トーマス・ジェファーソンらと共に最初に署名した5人の政治家のうちの1人となった。

1778年4月7日 パリでヴォルテールをフリーメイソンリーに入会させる。

フリーメイソンに入会したヴォルテール

1778年、ヴォルテールは「イレーヌ」の上演をみとどけた後彼の健康は急速に悪化し、5月30日にパリにて死去。

ヴォルテールの死後、彼の蔵書と草稿はロシア帝国のエカテリーナ2世が購入し、サンクトペテルブルクにて保管されることとなった。また、彼の残した膨大な作品の版権はロッシーニ『セビリアの理髪師』やモーツァルト『フィガロの結婚』などを書いた劇作家でヴォルテールを尊敬するカロン・ド・ボーマルシェが1779年に買い取り、国外に印刷所を建設して大々的に全集刊行を開始した。1783年に刊行が開始された全集は1790年にすべて刊行が完了し、20世紀後半にいたるまでヴォルテール研究の基礎となった。

ボーマルシェ(Beaumarchais)本名ピエール=オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron, 1732年1月24日 - 1799年5月18日

1778 ボーマルシェ『フィガロの結婚』

モーツァルトフリーメイソンに加入したのは1784年の12月14日のことであり、以後亡くなるまでの7年間は会員だったことになる。モーツァルトは加入して以降フリーメイソンのための音楽を多く作曲しているが、本作は最も有名な作品として広く知られている。

1785 モーツァルト作曲『フリーメイソンのための葬送音楽』k.477

1786 モーツァルト作曲『フィガロの結婚』Le Nozze di Figaro, K.492

ベートヴェン第九「歓喜の歌」

1785年 :フリードリヒ・フォン・シラー

ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller)1759年11月10日 - 1805年5月9日

『歓喜の歌』の歌詞のもとになったフリーメイソンのシラーの詩は、シラーの親友でフリーメイソンのクリスティアン・ゴッドフリート・ケルナーの求めに応じてドイツのドレスデンにあるロッジ「三振りの剣と緑のラウテ上のアストレア」の音楽付きの儀式のために1785年に書かれたもの。フリーメイソンが腐っていった時期を特定する

1791年 モーツァルト作曲『魔笛』

台本を書いたエマヌエル・シカネーダーもフリーメイソンの会員だった

Emanuel Schikaneder
1751〜1812

1791年 モーツァルト没

ドイツ陸軍大将ヴィルヘルム・ルーデンドルフは毒殺説を主張

フランス王国パリ造幣局で1791年に発行された1/2エキュ銀貨。ルイ16世とブルボン家紋章を描いた一枚。

フリードリヒ2世


プロイセンの国王(在位1740~1786年)

啓蒙専制君主として学問と芸術に励み、父が「兵隊王」と言われたのに対し、「哲人王」と言われた。フリードリヒ2世の最大の特徴は典型的な啓蒙専制君主とされることで、不十分とはいえ社会や政治の改革を進め、農民を保護し、宗教寛容令を出し、自らを「国家第一の僕(しもべ)」と称したり、ヴォルテールを招いて交流するなど、開明的な面をもつ近代的な君主であったことである。

世界史の窓

このように、ヴォルテールとフリードリヒ大王の間に親交があったのです。


《イルミナティ》

1775年、インゴルシュタット大学の教会法教授で法学者のアダム・ヴァイスハウプトが哲学・政治理論に関して知的な議論を行う私的サークル「完全論者の教団」を結成する。

1776年5月1日に、アダム・ヴァイスハウプトによってイルミナティが創設された。

アダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)
1748年2月6日 - 1830年11月18日

ヴァイスハウプトはジャン=ジャック・ルソーやドゥニ・ディドロの思想に大きく影響を受け、自由と平等を何よりも重視した。そして、すべての人は「王」となる素質を潜在的に備えており、教皇・王侯・君主を頂点とする封建制は不要であるから、大衆の霊性を飛躍的に向上させ平等を重んじたユートピア社会を復活させようと考えたのである」

と、wikiは解説しています

なので、真の共産主義の創始者はカール・マルクスではなく、こっちです。アダム・ヴァイスハウプトでしょう。

イルミナティのエンブレム「ミネルヴァのフクロウ」

ヴァイスハウプトは、イルミナティとフリーメーソンの正式な組合を作るため、1782年7月16日にヘッセン=カッセルのウイリアム9世の城で「ウィルヘルムスバッド会議」の組織に着手した。

フリーメイソンが、腐っていった時期。

なぜ? いつから? 理想を追いつづけた秘密結社:フリーメイソンの活動は腐っていったのか?

Bavarian Illuminati


要するに、理想を追い求めたフリーメイソンは、バーバリアン・イルミナティに完全に乗っ取られてしまった、ということになるのかもしれません。

その時期を特定すると、おそらくモーツァルトの死、その直後あたりかもしれないです。そして、フランスは「愛と平和」、「人権」、「自由・平等・博愛」主義の合成されたベクトルにのって、本格的な共産主義の時代の到来を知ることになっていった訳です。


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1812年 ナポレオンがロシアに侵攻。皇帝アレクサンドル1世の立案で救世主ハリストフ大聖堂が建築されることになり、1882年に完成。同年にチャイコフスキーは『序曲1812年』を作曲した。

1812年。カール・マルクスの父=ハインリヒはフリーメーソン(イルミナティ)の会員になる。

1841年、カール・マルクスは、後の共産主義同盟の創設につながる正義同盟(The Just of the Just)のメンバーだった。1841年、モーゼス・ヘスはマルクスを「正義の同盟」と呼ばれる社会に引き入れた。正義連盟のモットーは「すべての人は兄弟」であり、その目標は「隣人愛、平等、正義の理想に基づく地球上の神の王国の設立」。

1848年 『共産主義者宣言』カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルス
1866年11月 資本論』第1巻 出版 カール・マルクス
1881年、
米国ガーフィールド大統領は暗殺の二週間前にユダヤ国際金融資本に警告。

エドガー・ドガ(Edgar Degas) : 証券取引所での肖像画
エドガー・ドガ(Edgar Degas)の彫刻作品『Little Dancer Aged Fourteen』(1881)


1890年代〜1900年代の初めに『シオンの議定書

【まとめ-1】


八木 尚子著『フランス料理と批評の歴史 』では、フリーメイソンには頁を割いているものの、イルミナティーとアダム・ヴァイスハウプトにはまったく触れていないので、フランスでの革命運動の文脈が見えてこないところが、少し残念かとは思います。

リチャード・カーライル著:『フリーメイソンのマニュアル』

Manual of Freemasonry


1929年クーデンホーフ=カレルギーはヨーロッパのシンボルとなる欧州の歌としてベートヴェン第九『歓喜の歌』を提案し、1955年には欧州評議会の広報部長に手紙で提案を打診した。

カレルギー

映画「Forces occultes」

フリーメイソンに参加した政治家の生涯を描いている映画があります🎬

Forces occultes 1943A French politician in the 1930s is drawn into a huge Masonic conspiracy.



アントナン・カレーム


Marie-Antoine(Antonin)Carême
1784年6月8日 - 1833年1月12日)

マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの五男=ジェームズ

巨匠カレームの才能を余すところなく開花させ、輝かしいキャリアの掉尾を
飾る活躍の舞台を提供したのが、王国貴族ならぬ新興大ブルジョアのロスチャイルド夫妻だったことは、時代の推移を物語って興味深い。

八木 尚子著『フランス料理と批評の歴史 』 p.42

フォアグラ

ガヴァージュ

鵞鳥を飼育し肥満させて食糧に供するのは、ユダヤ人の食習慣として彼らの起源の時代から行われていた。ダニューブ川流域を中心に村を形成したユダヤ人は、中世のころ、鵞鳥のガヴァージュを組織的にやった最初の民族の一つだった可能性がある。

宇陀川 悟『食はフランスに在り』p.30


オーギュスト・ルノワール『🍎🍐』 Auguste Renoir (1841〜1919)


つづきます。・・・ただいま、執筆中です。


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