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自分を見つめた結果、絶望する私のこと

そして、それでも愛おしい私のこと。

こんにちは、天野こだちです。
今回は、教訓も何もない記事です。
単なる「私のこと」を綴っています。
一言も大げさではないし、全部が私の事実で現実です。

口に出したところで、大半の人が「そんな大げさな」「流石にそれはない」「嘘でしょ」と返ってくるだけの、でも私にとって事実で現実でしかない話。
自虐で自罰で、見えない自傷行為を繰り返す私の、単なる事実で現実。
残念ながら、メンヘラの「私可哀想でしょ見て見て」な語りではないところまで、事実で現実でしかない。

嫌な気持ちになると思います。
嫌だなと思ったら、そこで読むのをやめて下さい。
あなたはあなたを守る権利がある。
私は私を表現する権利があるから、それを行使します。

生きてることがストレス

と言うと、「みんなそうだよ」と返ってくる。
それを聞いて、私はこう考える。
「そうか、『みんな』毎日毎時間毎分毎秒、体が痛い苦しい辛いを抱えているのか。自分の体が大っ嫌いで、自分の体が一番要らなくて、『この体じゃなければもっと生きていたいと思えるのに』って、思ってるんだな」
本当は『みんな』はそうじゃないのに。
そうじゃない人には共感出来ないし、想像すら出来ない。
理解出来る人に会ったことがないし、それぞれ程度が違うから、共感出来ることは一部でしかない。
それでもこの気持ちが「分かる!」って言える人がいるのなら、固い握手を交わし、ハグで労い合いましょう。
あなたが生きていることが、私が生きていることが、これ以上なく「自分を頑張っている」証だから。
辛くても、苦しくても、痛くても、生きてる。

痛くて苦しくて辛くて、悲しくて。
でも生きているしかないから、死ねないから、生きている。
私の根本はここにしかなくて、「死ねないから生きてる」を、毎日繰り返している。
生きてることそのものが、ストレスなんです。
精神科医にも理解してもらえないけど。

生きてることは自虐

私にとって、生きてることが苦痛だから、ストレスだから、せめて楽しくしていたい。
気持ちは楽しいことをしてる、いつも。
でも今は、半寝たきり⇔半日程度起きていられるを、行ったり来たり。
原因については割愛しますが、およそ40代女性の体力でも筋力でも食生活でもないことが、ものすごく苦痛です。
昼間は倒れないように横になっていて、夜に体を起こしているのは、寝てしまわないため。
なるべく朝目を覚ましてインコちゃんと遊ぶために、夜にまとめて寝ておきたい。
けれど、全ては「自虐」でしかない。
「死ねないから生きてる」から。
自分の体がこうでなければ、もっとあれもこれも出来たのに。
生まれてからずっと、そう思って生きてる。
運動も勉強も、寝ることすら、「この体でなければもっと」、あれもこれも出来たのに。
痛くて苦しくて、辛くて、悲しい。
でも私の体はこれしかなくて、これ以上にはならない。
だからストレス。
あれもこれもしたいのに、体がついてこないストレス。

生きてることが自罰

死ねないから生きてる。
本当は40歳になる前にがんで死んでいたはずの体が、生きながらえたから。
生きながらえたこと自体は、ありがたいと思う。
私が治療を望んだ訳ではないけど、結果的に、生きてるから出会えた人、もの、ことがたくさんあって、今の私を支えてくれている。
死ねないから生きてる私の、「楽しみ」を提供してくれる人、もの、ことは、私を支えてくれる。
ありがたい。
乳がんと告知を受けた時、自動的に治療が始まったから受けたけど、止める選択も出来たはずだったから。
受動的でも、「した」私はえらかった。
gjだった。
今もそう思う。
生きてることは辛いけど、悲しいけど、それでも尚。

でもだからって、死ねないこと、生きてることの痛い苦しい辛いが軽くなるかと言えば、そうではない。
本当は死んでしまいたい。
死ぬようなことをしても、死ねないことを知っているから、無駄なことをしないだけ。
事故で半身不随になるとか、ODをして胃洗浄されるとか、そういった情報は思春期の頃からずっと仕入れていて、今になって枷になるように「されていた」し、「していた」ことを知る。
嬉しくもなんともないけど、今よりも確実に悪くなることを「しない」選択が出来るようにしてくれた、過去の私には、感謝しかない。
最低でも、自分が「楽しい」と思うことを自分で出来るのは、「生きていよう」と思える寄る辺になるから。

生きてることが自傷

これは本当に、「何言ってんの?」と言われる最たる部分だろうな。
繰り返すけど、私には事実で現実でしかないので、1ミリも大げさではない。

サイキックアタックを受けやすい私は、喉をやられて声が出ないとか、右脚が酷く浮腫んで座っていられないとか、頻繁に起こる。
かつては子宮を握られてたとか、そういうこともあった。
ただ、「ない」と思えばないはずのそれらを、「何故繰り返すのか?」と自分に問えば、答えは明白だった。

「そうして自分に苦痛を与えることが出来るから」

私、どМじゃないはずなんだけど。
ただでさえ痛い苦しい辛いを常時抱えているのに、更に自分で自分に苦痛を与えることが、私にとって自虐であり自罰であり、そのもの自傷行為に他ならなかった。
ああ、そこまでして、私は「私が生きてることを拒否したい」んだな、と思った。
自分で自分に苦痛を与え続けることで、やりたいことが出来ないジレンマが発生する。
同時に、出来ないのが嫌だということを知っていて、させないようにジレンマを与える自分に、また苦痛を感じてる。
繰り返すセルフネグレクト。
単なる自傷行為。

セルフネグレクト

セルフネグレクト=自己放任。
自分の世話を放棄(ネグレクト行為)すること。
寝ることも食べることも、体を清潔に保つこと、身なりを整えること、鏡を見ることすら、ある意味では「自分の世話」。
私はそれを、様々放棄している。
放棄するべきでないと知りながら、「しない」を選択する。
病的かどうかは定かではないし、精神科医に話したこともない。
最低限、外出する時、人に会う時に整えることはする、けど。

私は、覚えている限りでは、セルフネグレクトを中学一年生から繰り返している。
歯を磨かないとか、お風呂に入らないとか。
18歳で進学して以降は、10数年で100人を超す異性と肉体関係を持ち、自分を傷つけた。
恋愛したかった訳でも、性的なことを楽しんでいた訳でもなく、「どうでもいい相手に好きにさせることで、自分を傷つけていた」。
現実が辛いとかじゃなく、自分の体が現実にそぐわないことが、いつでも辛かった。
体がもう少し言うことを聞いたら。
もう少しだけ無理の利く体だったら。
せめて私が思う、「楽しい」を存分に楽しめるだけの体力があったら。
……けど、私の体は、私の期待に応えられるものではなかった。
到底、叶わない私の希望。

運動が好きだった。
思いっきり駆け回って、クタクタになって、でも「楽しかったね!」って大笑いしたかった。
でも現実は残酷で、思いっきり駆け回る前に私の体は悲鳴を上げた。
小学校入学と同時に出来た、ほぼ初めての同い年の友達、みんなが走って行くのについて行けず、毎日泣いた。
初めての長距離走大会、私一人だけ養護教諭に止められて、完走出来なかった。
選手に望まれたスイミングスクール、小学校5年生の時、週4回の練習には耐えられるはずがなくて断った。
苦い思い出。
泳ぎたかった、楽しかった、「でも」私の体はいつでも及ばない。
その後も、たくさんたくさん。
身長が高くて骨格がしっかりしてるから、運動部に誘われるけど、中学校に入る頃には自分が及ばないことを知っていた。
落胆と絶望。
いつでも、私の「楽しい」にブレーキをかけるのが、私の体だった。
今も、昔から、生まれた時からずっと。

それでも愛おしい、が、辛い

でも生きなきゃならない。
どんなに逃げたくても、捨てたくても、嫌いでも、死ねないのだから生きなくては。
同時に、私は私が愛おしい。
ここまで生きてきた。
泣きながら、歯を食いしばって、時には血も反吐も怨嗟も吐いて、でも生きてきた。
大っ嫌いな体と、大好きな心を抱えて、それでも生きてきた私が、たまらなく愛おしい。
愛おしいからこそ、辛い。
私のこの体を、愛してあげられない自分が辛い。
苦しい。
誰かと比べて劣るから「ではない」。
私は、私が楽しいことをするための体が欲しい。

……きっといつまでも、そんなものはないと、そんなことは叶わないと知りながら、切に切に願って生きて、死んでいくんだろう。

だから早く歳をとって、早く死にたい。
せめて年齢の分だけ期待する自分を、早く葬りたい。
50になれば60になれば。
きっとその先に、きっと。
諦めるではなく「受け入れる」ように、なるんだろうか。
ままならない私の体を。

20代の頃から、「何でそんなに生き急ぐの?」と言われ続けた答えは、「死に急いでる」が正しかった。

2024.3.26
天野こだち


絶望と矛盾を抱えている私が、ご依頼者様の矛盾をひも解いています。
本当は愛している「自分の中の自分」に、あなた自身で目を向け、抱きしめ、労い、労わって、「あなたが生きてきた分ずっと伴奏してくれたあなた」を、お互いに癒し合い、仲良しに戻るまでを、天野こだちがアシストします。

その他、霊感セッションやオラクルカードリーディングもあります。

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