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ロンドン遠吠え通信 Vol.4

「議論の文化について」
引き続き、「ロンドン遠吠え通信」(メールマガジン「Voidchicken nuggets」に連載。2014〜15)より、Vol.4をお楽しみください。


ロンドン留学中の著者がキュレーションにおける文化的差異について考えてみている連載です。今回は議論の文化について。中国、広州出身のクラスメート、インティンが論文の授業でこんな質問をしていました。「もし教授や偉いキュレーターにインタビューして、自分の意見と違ったとき、そのことを書いてもいいものでしょうか?」。先生方の答えは当然イエスで、クラス全体がそりゃそうよ、というムードが漂う中、私だけ「わかる、それ、その気持ち」と相づちを打ちました。日本は和を大切にするからなのか中国は検閲があるからなのか、はたまた全体的にアジアの文化なのか、その理由については検証が必要ですが・・・つまり議論の場がはっきりとは成立していなくて、精神的に反対意見が言いにくい状況があるっていうこと。ちょっと思い出してみてください、いつも「遠回しに言うテク」であるとか、「主張の強い人には別方面から言ってもらうテク」であるとか、「とりあえず黙っておくテク」(テク?)とか駆使してませんか? こちらは賛成意見と同じくらい「私は反対だな〜」「私はそれ嫌いなんだよね」「私はそうは思わない」と反対意見がさくさく出てきます。

正直私はかなりグループディスカッションに苦労しています(涙)。そもそも英語が何言ってるか意味不明という時もありますけど、実のところ私にとっては意見を述べることそのものに抵抗があるのだと思い至りました。率直な意見が活発に交わされるなかで発言するのは、弾丸が飛び交う戦場に丸腰で踊り出るような気分なんです。

まあそもそも、ディスカッションでメンバーが発言していくのを聞きながら、自分の順番が回ってくるのを待っていたんですよね、私。そんなものは永久に回ってこないと、気がつくまでにしばらくかかりました・・・。
こちらではすべての人間が自分の意見を持っていて、発言のタイミングを今か今かと待っている、というのがデフォルトなんでした。「我思うゆえに我あり」。主体性、エゴありきの文化の中で、私の日本的協調性は完全に機能不全を起こしているのです。

クラスメート達にこの窮状を訴えると、みんな口々に「コダマ、もう何でもいいから心に浮かんだことを口に出すんだ!」とアドバイスしてくれます。確かに、みんなの発言内容は心に思い浮かんだことを次々と口に出しているだけなのです。一つのトピックをさまざまな角度から検証して、その時点での答えに達する、というのが議論であって、その「さまざまな角度」は特に重要な角度でなくてもいいのです。とにかく網羅していくこと。いろいろな見方、意見が存在する、ということが大前提で、最初からただ一つの正解を求めて話すことはありません。日本では効率重視なのか、ただ一つの正解を求めて話していたなーと思うので、これも文化的差異ですね。まー、頭で分かっていてもなかなか体は(口は)追いつかないんですけどね。
こちらに長く住んでいる友人たちは、慣れるまで5〜10年かかるわ〜おほほ〜と笑いとばしてくれました。

ともあれ、キュレーションの文化的差異を知ることは大切だと思います。つまり、展覧会も実に、様々な角度からトピックを検証した、その時点での答えで、キュレーターの意見なのです。意見なので、その展覧会に関して賛否両論あるのも当たり前。議論が出れば出るほどよい展覧会です。展覧会のプレスリリースには、意見を言っている人、としてキュレーターの名前は必ず表示されます。日本での、意見のない展示(反対意見が出ないように組まれた展示)や、キュレーターの名前のない展示は、こちらの展覧会のスタンダードとかけ離れているのだなと(「そんなの展覧会じゃない!」みたいな)、改めて思ったりする今日このごろです。(2014年7月17日)



初出:メルマガ VOID Chicken Nuggets 2014年7月17日号
https://mlvoidchicken.tumblr.com/post/92048839813/void-chicken-nuggets-2014%E5%B9%B407%E6%9C%8817%E6%97%A5%E5%8F%B7


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