見出し画像

ロンドン遠吠え通信 Vol.7

「”アーティスト・キュレーター”について」
引き続き、「ロンドン遠吠え通信」(メールマガジン「Voidchicken nuggets」に連載。2014〜15)より、Vol.7です。


ロンドン留学中の筆者がキュレーティングにおける文化的差異など考える本連載ですが、筆者はめでたくロイヤル・カレッジ・オブ・アートを卒業しました! というわけで、この連載もラスト2回となりました。

今回は「アーティスト・キュレーター」について。

こちらではキュレーティングにおいて、作る人(作家)と集める人/見せる人(キュレーター)の区別を見直す試みがしばしば行われます。ヘイワード・ギャラリーが主催する巡回展事業として2013年に行われた、イギリス人作家マーク・リッキーの展覧会はその一つの例です。(The Universal Addressability of Dumb Things, Bluecoat, Liverpool, etc., 2013 *参考 Nottingham Contemporary のWebページ)。

彼はインターネットで画像検索し、その琴線に触れた多様なアイテムを購入し、会場に並置して様々な領域の混交した博物館のような展示を作り上げました。またヘイワードでは最近7人の作家がイギリスの歴史を語るために自身の作品や他人の作品、オブジェクトを使ってインスタレーションする、という実験的な試みが行われています(History Is Now: 7 Artists Take On Britain, Hayward Gallery, 2015 *参考 Southbank Centreの動画)。

バービカン・センターで開催された「コレクターとしてのアーティスト」展もその系譜に連なるものかもしれません(Magnificent Obsessions: The Artist as Collector, Barbican Centre, 2015)。作家たちの多彩なコレクションから彼らの芸術世界や、もっと大きく広がるインスピレーションの源泉が見えてきます。集めることを方法とする作家はたくさんいて、そういう作家の個展はキュレーティングとは違うはずなので数えませんが、この14人の作家のコレクションを集めて見せる試みはちょうどヘイワードの7人展と時期が同じで、共振する心性を感じたものです。

さて、こういった作家側からのキュレーティングへ対するアプローチとは逆に、キュレーターがアーティストとして振る舞う事例があります。私が学んだコースにもそういう活動をしている先生がいました。教授陣がそれぞれの活動を紹介するセッションでのことでした。その先生は、つかつかと前に出てきて、バンっとプラスチックのバケツをテーブルに置き、つい最近行った台北での自身のパフォーマンスについて説明しはじめました。

ある出版イベントでのパフォーマンスだったそうですが、台湾の近代美術が西洋から輸入されたものを展開させていることのメタファーとして、バケツに唾を吐き、蓋をして発酵させる、というものだったそうです。(このシニカルさ、イギリス人らしー、と私は思った。。。)

彼は様々な展覧会やイベントに時にはキュレーターとして、時にはアーティストとして参加しているそうで、「共にアートの現場を作る者として、役割を固定する必要はないと思うな」と言います。

私たちの卒展でも、あるグループでは展示に関連した物語を創作し、朗読パフォーマンスを行っていました。その「資源が枯渇した未来におけるアートのレジスタンス活動についての物語」はなかなか面白かったです。この時ちょっと自分自身を振り返りました。自分で物語を書いて、それを朗読するか?・・・というか、それをする勇気があるか? とか言っていたら最近私のところにも、ある友人の作家から「今度本を作るから、コダマも詩とドローイングを提供してくれる?」と依頼が来ました。ひえ〜(忙しくて参加できなかったけど・・・)。

まあ、日本ではオーディエンスからしてもキュレーターが創作とか「キモっ」という感じかもしれませんが、業界に関わる者としてはアートの現場を作る、見せるということについて頭を柔らかくしておく必要があるかもしれません。

追記
でもそういえば@KCUAで建畠晢退官記念展を見たなあ。日本でキュレーターと作家が分離しているのってむしろ近年の現象なのかもしれませんね。
(2015年8月12日)

初出:メルマガ VOID Chicken Nuggets 2015年8月12日号
https://mlvoidchicken.tumblr.com/post/126660438143/void-chicken-nuggets-2015%E5%B9%B48%E6%9C%8812%E6%97%A5%E5%8F%B7

-----

【追記】

ここに書いたことは、実は思いのほか私自身に影響を及ぼした。

最終パラグラフで、「キュレーターが創作とか「キモっ」という感じかもしれませんが」と私は書いているが、まだ雇われ美術館学芸員だった頃の肌感覚だなと思う。フリーランスのキュレーターは、アーティスト達と似た立場だ。私も独立後、少しずつ、キュレーターとしてというより、ほかの誰でもない「わたし」がアートシーンに対して何をできるか、ということを考えて実行していくことになった。

藤浩志さんと共著した小説『嶋タケシ』や、展覧会「アジテイション:攪拌のポートレイト」で発表したテキストは、わかりやすい例かもしれない。でもたぶん、仕事の端々に、そういう態度は反映されているだろう。

急いで補足しなければならないのは、主役はアーティストだということ。ただどんなに優れたアーティストも一人の人間であり、完全な視野と能力を持っているわけではない。周囲の人々の力を組み合わせて推進力にすることを、有能な人であればあるほど知ってもいる。

そういうアートシーンの生な現場で、私は特異な視野と弾力を持ち合わせた、ひとりの協力者でありたいと願う。(2022年5月3日)

【さらに追記】
ここ数年の間に、私より若い世代で創作とキュレーティングの両方を手掛ける人たちが複数出てきていて、それはとてもよいことだと感じる。建畠氏の世代のあと、しばらく両者が離れていたのは、日本での美術館制度の拡充プロセスと関係があるのかもしれない。芸術祭、アート&観光、アート&地域、そしてアーティストラン・スペースやオルタナティブスペース拡充の時代が始まったのち、ふたたび状況は豊かに複雑化しているのかもしれない。(2022年5月3日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?