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ロンドン遠吠え通信 Vol.1

「オーディエンスの違いについて」
「ロンドン遠吠え通信」(メールマガジン「Voidchicken nuggets」に連載。2014〜15)より、Vol.1

「ロンドン遠吠え通信」は、拓殖響(さぼ)さんと坂口千秋(さかぐ)さんの、日本アート業界におけるセルフメディアの草分け的メールマガジン「Voidchicken nuggets」に、2014年から翌15年にかけて連載された、私のロンドン留学記である。
 日本の公立美術館に12年勤めた後、2013年秋からRoyal College of Art、Curating Contemporary Artコースの修士過程で二年間学んだ。そこではイギリスを中心に、世界各国から集まった人たちが持ち寄る文化的差異を、時に困惑しながらも、面白がり、興味を持って受け取り、キュレーターとして血肉化していくことになった。最近振り返る機会があって再読したら、8年が経とうとしている今でも面白いところがあるなぁと思ったので、拓殖さんと坂口さんに許可を得て転載させてもらうことにした。
 このメルマガに原稿料はなく(坂口さんが最初にパブでビール1杯おごってくれたけど)、セルフメディアらしい、持ち寄り原稿の魅力にあふれている。自分の書きたいことを書きたいように書かせてもらえる機会はたぶんこの時が初めてで、「キャッホー」っと楽しんで書いているのがわかる。それでいて、少しずつ、ずっと取り組んでいる社会政治的テーマが顔を出してくる。自分自身の声を意識しはじめたきっかけにもなったシリーズだ。



ロンドン遠吠え通信 Vol.1 



はじめまして、金澤韻(こだま)と申します。
日本でしばらく学芸員をやっていましたが、昨年仕事をやめて、秋からロンドンの大学院でキュレーティングを学んでいます。先日、こちらに来られた坂口さんとパブで飲んでいた際、メルマガへの連載が決まりました。
勝手に全12回!?などと考えています(ダメだったら言ってください>坂口さん)

さて、ロンドンに来てから、それはそれは様々なことにカルチャーショックを受けてきました。この連載ではせっかくなのでキュレーションにおける文化的差異について書いてみようと思います。

記念すべき第一回は、現在取り組んでいるスクリーニングの実習で起こったこと。先生、カレン・アレキサンダー(1)は、最初から「自分の見せたいものを見せるプログラムを。観客のことは考えなくていい」と言っていました。日本の地方自治体がやっている美術館で働いている間は、いつも「市民」が念頭にありました(市役所の方々の仰る「市民」と私の思う「市民」に違いがあったりはしましたが、ともあれ)。それが完全にフリーだそうですから、常々「金澤さんの言うことは難しい」と言われ続けていた私にとっては朗報に違いありません。

ところで、いよいよプログラムを組もうとすると、頭が真っ白です。一瞬「自分て何もない人なの?」と思いましたが、やっぱり自分がどこに立っているのか知ることは、キュレーションに不可欠と気を取り直しました。
それである日、「どんな人が見に来るのか、知りたいんですが」と聞いてみたのです。

カレンは、「だから、観客のことは考えるなって言ったでしょう」。そして、深いため息をついて「それで私BFI(2)を辞めたのよね…。マーケティングは意味がないわ、同じプログラムを繰り返し生産するだけ」。どうもこの件に関しては辛い思い出があるようです。それ以上彼女に聞くのはやめることにしました。

さて、次に聞くのはクラスメート達です。世界中から集まった15人、みんなものすごく頭がよく、性格も優しく面白く、素晴らしい若者達です。悩みを打ち明けると、快く相談に乗ってくれました。「私たちのような人間が見に来るって考えればいいのよ」とロンドン生活の長い、上海出身のジョニが教えてくれます。「コダマは日本で、特にアートが好きってわけでもない、たくさんの普通の人たちを相手に仕事してきたんでしょう?Hackney Picturehouse(3)に来るような人はみんな、私たちみたいにアートをよく見ていつも考えている人たちよ」。

確かに、今までいくつか訪れた現代美術のイベントで、閑散としたものは一つもありませんでした。どんなハイブロウなトークだろうが、スクリーニングだろうが、満席なのです。アジアと(もしかしたら欧米以外の場所と)は決定的に異なる、アートとの親和性について、いくらか見聞きしてはいましたが…これかー、という思いです。

このオーディエンスの違いは、もちろんキュレーションに大きく影響しますし、もしかしたらもっと大きな話かもしれません。面白いのは、この大きな違いがカレンやヨーロッパの学生には結局ピンと来ていなかったこと。
カレンはマーケティングの是非をめぐる話、つまりビジネスとしてスクリーニングを考えることの是非の話として、私の質問を受け取りました。アートファンがたくさんいる状況が当たり前すぎるのかも。グローバリゼーションの時代、このギャップは、別の意味でキュレーションに少なからず関わってくるはずなので、今後も要チェック。

私たちのHackney Picturehouse でのスクリーニングは5月です。どうなるでしょうね。よかったら5月頃に上記映画館のサイトを見てみてください。
ではまた来月!(2014年2月15日)




(1) Karen Alexander インディペンデント・フィルム・キュレーター、ライター、コンサルタント。1998~2006、BFI(British Film Institute)にアーカイブとディストリビューションの担当者として勤務。フェスティバル、スクリーニングを多数企画している。


(2) British Film Institute英国映画協会。上映、アーカイブ、配給、教育、研究などさまざまな役割を持つ、たいへん伝統と権威のある組織。


(3) Hackney Picturehouse 映画館。イギリス国内だけでなく、ヨーロッパ中のアートファンの注目を浴びている(カレン談)。ここで私たちのプログラムが5月に上映されます。http://www.picturehouses.co.uk/cinema/Hackney_Picturehouse/



初出:メルマガ VOID Chicken Nuggets 2014.Feb.14号
https://mlvoidchicken.tumblr.com/post/83613899374/2014-2-15-0-58


【追記】
後日談。授業はまず学生7人がそれぞれスクリーニングのプログラムを組まされた。私は「歌が遺すもの」みたいなテーマで、言葉の壁を乗り越えて伝わる繊細なコミュニケーションについてのアンソロジーを作った。荒削りではあるけど、それなりに時間をかけて考えたので、自分なりに自信も愛着もあった。
ところがカレンは学生が組んできた7つのプログラムをみんなで鑑賞した後、こう宣言したのだった。「これからみんなのプログラムを切って貼って4つのプログラムに編成しなおします。パッチワークを作るみたいに」。
私はプログラムをひとまとまりで完成されたものと考えていたので面食らったし、他の学生も少なからずショックを受けていた。最終的に4夜のプログラムに落とし込まないといけないのはわかっているけど、このやり方は雑すぎる。ていうか、パッチワークって……私はこらえきれず立ち上がり、トイレに駆け込んで号泣した。
しかし授業は授業、意に染まぬこともやれば後でなにかの肥やしになるのだろう、と、その後、みんなモヤモヤしながらも4つのグループに分かれてそれなりに4つのプログラムを作った。各人がテイストもテーマもそれぞれバラバラだったし、当時の私としてはいったい何を頑張ればいいのか、よくわからなかった。
で、こういう、何を頑張ればいいのかわかっていない学生たちのーーそれこそ”学芸会”的なーープログラムを、見に来る人がいるんかい、と疑問に思っていた。しかもこのスクリーニングプログラムは、学校のカリキュラムであるにもかかわらず、有料だったのである。7ポンド、日本円にして千円くらいだったけれど、学生のプログラムに千円払うかね? 家族ならともかく。と、私は完全に斜にかまえていた。

ところが、4日間のプログラムは見事に売り切れたのである。
スクリーニング後の質疑応答でも活発にディスカッションが繰り広げられた。少なくともその意見交換に観客はみんな満足して帰っていった。日本で生まれ育った私には信じられない現実だった。

エンターテイメントではないこと、チャレンジングなこと、「こういうの、やってみたんだけど、どう?」と提示されるもの、それを人々は楽しみ、「僕はこれは無いと思うけど」「そこはもっと議論の余地あるよね」「これは思ったことのない視点だった」と率直に口にしあう土壌。こういう場所で仕事を続けているキュレーターは、どんなにか思考と意見交換の訓練を積んでいることだろうか。アジアに戻ってきた私は、たまにそういうことを思い出しては、「あいつらにはかなわね〜」と絶望しかける。(2022年4月19日)


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