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「表現の不自由展」にふさわしい展示物とは

金井米穀店への自称「カウンター」と「表現の不自由展」に対する抗議の違い

 「表現の不自由展」に対する抗議についてよくわからないツイートをなさっている方がいらっしゃいました。

金井米穀店へのカウンターにキレてた方々はなぜ黙ってるの?

 私の「表現の不自由展」に対する認識は一貫して「芸術性が足りない」に尽きます。「表現の不自由展」が問題となった「あいちトリエンナーレ」は次のような目的で開催されている国際芸術祭でした。

あいちトリエンナーレは、2010年から3年ごとに開催されている国内最大規模の国際芸術祭です。国際現代美術展のほか、映像プログラム、パフォーミングアーツ、音楽プログラムなど、様々な表現を横断する、最先端の芸術作品を紹介します。また、まちなかでの作品展示や幅広い層を対象としたラーニングプログラムがあることも大きな特色です。

開催目的
新たな芸術の創造・発信により、世界の文化芸術の発展に貢献します。
現代芸術等の普及・教育により、文化芸術の日常生活への浸透を図ります。
文化芸術活動の活発化により、地域の魅力の向上を図ります。

 私は、このような「あいちトリエンナーレ」に展示された作品だけに限らず、「表現の不自由展」に展示された作品に高いレベルの芸術性があればどのような「表現の不自由」を味わった作品であるかは関係がないと考えていました。
 しかしながら、「あいちトリエンナーレ」に展示された作品は、新聞紙で作ったかまくらという小学校の自由研究レベルの作品、もらった土産を展示した芸術性皆無の作品、慰安婦像というせいぜい工芸品レベルの作品であり、とても芸術作品と呼ぶにふさわしいものとは言えませんでした。その後各地で展示を繰り返しましたが、それらに展示された作品は政治的なメッセージなくして注目すら集めることができないものだけだと認識しています。
 したがって、「表現の不自由展」の開催とそれに抗議する者のいずれも政治的な対立が表に出ているわけですから、表現の自由とそれに対する弾圧とい視点ではなく、自称「反差別カウンター」と彼らから「ヘイトデモ」とレッテルを貼られているデモなどと同視する視点から私は見ています。つまり、勝手に対立でも何でもしていればよく、私は深く関心を持つことはありません。
 それと比較して金井米穀店に対する自称「反差別カウンター」の抗議は、すでに彼らが問題であると指摘するツイートが削除されているにもかかわらず、ほとんど政治的な影響力のない米穀店に執拗に抗議をしたヤクザの因縁とまったく変わらないような抗議活動であるから多くの者が関心を持って批判したのであると思います。

「表現の不自由展」に展示すべき作品

 私が「表現の不自由展」に展示すべき作品として考えているのは、角川書店発行の「高校国語Ⅰ」に収録されていることで日本てんかん協会から削除要求を受けた筒井康隆さんの「無人警察」の原稿や、右翼からの抗議を恐れて当時連載されていた週刊SPA!への掲載を断られた小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言」の「カバ焼きの日」の原稿です。いずれも高い芸術性のある作品ですし、「あいちトリエンナーレ」に展示されるレベルであるとも言えるでしょう。
 また、「表現の不自由展」が訴えたい思想の方向性の作品として選ぶなら、松江市内の小中学校で閲覧制限がかかってその後に撤回されたというかなり自由な「表現の不自由」ではあるものの、「はだしのゲン」の原稿などがふさわしいと思います。

松江市教育委員会が、原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」を子供が自由に閲覧できない「閉架」の措置を取るよう市内の全市立小中学校に求めていたことが18日までに分かった。
市教委によると、首をはねたり、女性に乱暴したりする場面があることから、昨年12月に学校側に口頭で要請。これを受け、各学校は閲覧に教員の許可が必要として、貸し出しは禁止する措置を取った。

 松江市教育委員会(清水伸夫教育長)が広島の原爆被害を描いた漫画「はだしのゲン」を市内の小中学校の児童、生徒に見せないよう閲覧制限していた問題は、幅広い批判の声の広がりのなか、26日の教育委員会議で市教委の要請は撤回されました。経過を見ると市民の良識が見えてきました。

 「表現の不自由展」を企画する方々に申し上げたいのですが、非常に厳しい芸術の競争の世界で浮き上がることすらできない自称「芸術家」の方の救済は止めて、もっと金をかけて高いレベルの芸術作品を展示するならばもっといい形で関心を集めるように努められてはいかがでしょうか。