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バターンの行進は日本軍の大救出作戦だった

「バターン死の行進」は白人による嘘


『アジアの解放、本当は日本軍のお陰だった!』高山正之

「死の行進」はどれほどの苦行だったのか。ジャーナリストの笹幸恵氏が実際にそのルートを歩いた顚末を『文藝春秋』(〇五年十二月号)に載せた。バターンを実際に歩いて、マッカーサーの言葉を検証してみたのが日本人では彼女が最初だったというのも驚きだが、彼女の語る実態にはもっと驚いた。
全行程はたった約百二十キロ。うち半分は貨車輸送で、米兵はそれを四、五日掛かりで歩かせられたことにしている。笹氏は貨車輸送の区間も含めてその道を四日間で「それもやや風邪気味だったけれど」(前掲誌)ちゃんと歩き通して見せた。
そう言えば西村知美だって日テレ24時間一〇〇キロマラソンをやってみせた。それに比べ米兵がそこまで華奢とはホントに信じられないというのが彼女のルポの読後感だった。

そうしたら、飢餓と病気に苦しむ兵士に死の行進を強制されたという米軍戦車隊兵士レスター・テニーがこの記事に抗議してきた。
抗議したテニーには〇九年五月、駐米大使の藤崎一郎が「元戦争捕虜には多大な損害と苦痛を与えたことを心からお詫びする」と謝罪、翌年の終戦記念日には彼らを政府招待で日本に招くという新聞報道があった。
繰り返すが、バターンに食糧もなしで籠ったのは米軍、とくにマッカーサーの責任だ。飢餓も病気も日本軍の責任の外側にある。おまけにこの死の行進では日本側の主張とテニーらの言い分に大きな隔たりがあり、その隙間を埋めるような検証も行われていない。笹氏はその意味で初めて検証を試みたものだが、それを頭ごなしに否定するというのも異様ではないか。
では日本の大使が謝罪したテニー氏の言う「死の行進」はどんなものだったのか。彼自身の『My hitch in hell』(我が地獄の兵役)から引用する。
彼はバターンに撤退していくとき、黄色い日本兵とフィリピン人の区別がつかないという理由で途中の「家々に銃弾を撃ち込んだ」「一つの部落を皆殺しにした」。ベトナム・ソンミ村と同じことをやった。白人のフィリピン人殺戮は全く問題はないといっている。(p165)

バターン死の行進は南京虐殺並みの茶番だった。

日本軍がアメリカ兵捕虜を無理に歩かせ死なせたと言われ戦争犯罪とされた。 この時、火野葦平さんは戦争の記録係りとして日本軍に従軍した。
火野さんは当時のことを詳しく書き残している。←焚書 そこに衝撃的なことが記されていた。

①アメリカ兵1万2千名、フィリピン兵6万4千人が投降し捕虜になった。
②マリベレスからサンフェルドまで112km歩かせた。その間2300人の米兵が死んだ。
③司令官のマッカーサーとフィリピン大統領は、部下を捨ててオーストラリアに逃げた。
④民間人(2万人以上いた)はトラックで運んだ。
⑤いよいよ投降するという段になって、フィリピン兵に縛られて連れて来られた米兵がいた。督戦隊長だった。 督戦とは兵隊の後方にいて兵隊が逃げないように見張って戦わせる役目の人だ。アメリカ軍もやったのだ。
⑥機関銃を持たされて木に縛られて戦わせられているフィリピン兵もいた。

バターンの行進について 溝口 郁夫さんの「絵具と戦争」のなかに証拠写真が何点か収録されています。 もとの写真本は焚書にあいほとんど入手困難です。 さてまずは「降伏した米兵に紅茶を出す日本兵」 黄色-米兵

米兵に紅茶を出す日本兵

降伏した米兵と日本兵が和やかに話している場面。 従軍ライターの火野さんも捕虜が多すぎて通訳も手いっぱいで「放っておかれて当惑している捕虜もいた」と書いていたが、状況は一致する。
降伏した米兵と日本兵が和やかに話している場面

日本軍の野戦病院で診察を受ける順番を待つ米兵 
バターン半島で日本軍は投降した米兵を虐待し数千人殺したと言われているが、実際にはできる限りの救済を施している。

日本軍の野戦病院で診察を受ける順番を待つ米兵 

フィリピン人の避難民に食事を渡す日本兵。
日本兵はやせ細っているが。 親切で本当に優しい。 このあと避難民たちは日本軍に車で安全な場所まで送ってもらった。

フィリピン人の避難民に食事を渡す日本兵

海水浴休憩を取る米兵捕虜
中間地点で海水浴休憩までしていたなんてびっくり!
いつでも逃げられる状況ですね。アメリカの嘘にはうんざり。

海水浴休憩を取る米兵捕虜

収容所でポーカーする米兵

収容所でポーカーする米兵

従軍ライターの火野さん 実際に日本軍に従軍して記事を書いたり写真を撮ったり絵を描いて国内に発信した。 日本国民はこれを見て我が軍は捕虜にも温情を与えて立派だと考えるし、兵隊も母国に顔向けできないことはしない。それが日本の軍隊だった。

バターンの行進
捕虜と日本軍はマリベレスからキャパスまで行進したわけですが、半分以上トラックや列車を使って移動。
歩いたのは最小で45km、最大で80km程度。 それを3日かけて歩いた。
一日15km~30kmだ。しかも各所に診療所や給水所を設けた。
マッカーサーの作戦で食料も薬品もなく篭城していた人々を餓死させないために、日本軍が行った大規模な救出作戦でした。

バターンの行進の実際の映像

40万のフィリピン人を殺害したのが米国軍

上記リンクページからの抜粋

『米国が宣伝した日本軍のフィリピン民間人虐殺は嘘であり、40万のフィリピン人を殺害したのが米国軍だという歴史の真実が掘り起こされる。
たとえば「パターン 死の行進」など、炊き出し、コーヒーブレイクを提供し、捕虜を優遇したのは日本軍だった。米国が東京大空襲という虐殺や広島・長崎を隠蔽するために、「死の行進」をでっち上げた。』

死の行進はプロパガンダ

死の行進は、アメリカのプロパガンダで実際はマッカーサーの作戦で食料も薬品もなく篭城し、熱帯ジャングルでの飢餓とマラリア、テング熱等の病気により亡くなった。また家に帰宅したフィリピン兵等、いなくなったフィリピン兵を死亡人数に含ませ、被害者数の水増しをおこなっている。

バターンへの思い

アサヒグラフに投稿された上田さんは、バターンでマラリアやデング熱にせめられたと改葬されています。

1943年(昭和18年)05月05日 通常号 1014号 アサヒグラフ

シンガポールの捕虜収容所の運営

you-tubeにあった元動画は見えなくされていましたので、保存できる方は保存して視聴してください。

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