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反日テロ支援家で南京大虐殺でっち上げに加担した宣教師ジョージ・フィッチ

1942年(昭和17年)06月26日 朝日新聞に引揚米人座談会/“唯感謝あるのみとしてジョージ・フィッチ宣教師の兄の言葉が残っている。

自分は上海生まれ杭州で36年、寧波で8年牧師として過ごしてきた。私の父の在支年数と合わせると120年になる、実は自分の弟のジョージはお恥ずかしい次第ながら猛烈な反日屋で今なお重慶に頑張っており排日的な放送をやっているのを聞いたが、自分はこんな弟を持っているのに日本当局は何も特別に自分に過酷な扱いをもってしない、この寛大な日本当局の温情ほど自分を感泣させたことはなかった、日本の憲兵は我々が生活に窮している見てアメリカ赤十字社の貯蔵小麦粉を売り、その金を使用することを許してくれたのでおお助かりであった。

1942年(昭和17年)06月26日 朝日新聞

フィッチの年齢計算のための資料

フィッチの年齢
1906年23歳 ユニオン神学校に入学
1909年26歳 YMCA『上海青年会』で働く
1920年37歳 フィッチ夫人米国の女法曹として日本で講演 男女教育の平等を語る
1921年38歳 フィッチ夫人1920年秋から日本在していて再度講演
1927年44歳 宋美齢・蒋介石と結婚
1930年47歳 蒋介石キリスト教にメゾジスト教会江長川牧師から受洗
1932年49歳 虹口公園での尹奉吉のテロ支援
1937年54歳 日本軍南京侵攻。南京安全区国際委員会の一員となる
1938年55歳 アメリカ各地の教会でマギーフイルムを上映し南京で日本軍が残虐だと訴えて回った。
1940年57歳 重慶で福祉活動を指導
1941年58歳 中国工業組合の相談役に任命
1942年59歳 兄が反日屋の弟がいても温情の日本軍に感謝すると朝日新聞が掲載

1968年85歳 韓国より独立功労勲章を授与される


1932年4月29日虹口公園で行われた天皇誕生日(天長節)式で、爆弾を投擲(とうてき)して上海派遣軍司令官として出席した白川義則陸軍大将ら要人2人を殺害した「上海天長節爆弾事件」のテロ支援者をおこなったのはジョージフィッチ宣教師で、後に外相となった重光葵が右足を失う重傷を負うなど、多数の死傷者を出している。韓国はこのテロ支援に立功労勲章をだしている。国際社会は黒を白としているが、YMCAという組織は罪を気にしない組織なのか。

1938年におこなったジョージ・フィッチの反日講演旅行は次のようであった。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/121.html

この記事によるとフィッチ宣教師の反日活動はティンバリーの指示であったようです。

ハロルド・J・ティンパーリの指示により、「侵略された中国」と題して、YMCA(キリスト教青年会)による反日キャンペーン用に全米各地で上映されました。
その目的は、日本軍の蛮行を訴えることでした。

ティンパーリは、オーストラリアバンバリー出身のジャーナリストで中国国民党国際宣伝処の顧問でした。


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