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父の日に、22年間離れて再会した父について想ったこと

要するに私が2歳の時に両親が離婚し、父を知らずに22年間育って24歳の時に念願叶って再会した父がいる。
別々に暮らしているけど父がいる。
いないと思っていた父がいた。ついでに書くと腹違いの弟と妹がいた。
その父について思った話である。

再会してから26年も経ち、離れていた期間を追い越した現在。
離れていた時間を引け目に感じて謝る父。再会してからの期間の方がもう長いんだよと慰める娘。
先日の父の日に贈り物を送った。一緒に手紙も添えて。

実はこのnoteの冒頭に、22年ぶりの再会で感涙に咽ぶ父と、父との思い出どころか記憶が皆無な私との温度差や出来事についてつらつらと書きなぐったが、それが今更何になるだろうと思い、全部削除した。
「困惑」とか「近親憎悪」とかミソの足りない若いころに感じた自分の思いを今更ながら垂れ流して父を侮辱してなんとすると思った。
今までの私なら、感じた事に間違いはないので吐露するのみと威張ってアップしてしまったのだろう。
しかしながら躊躇し、削除した気持ちに私の成長があり、どうしていいかわからなかった父との距離感をやっと測ることができた事を嬉しく思った。それが私の「父の日」だった。

離婚した両親の親権を持っていない方との関係性

両親の離婚により、色んな想いをたくさん抱えた人は私以外にもたくさんいる。
いるだろうけど私が育ってきた昭和50~60年代は、まだほんの一握りで少数だったように思う。
親が離婚していると告白すると、驚かれた事が多かったし偏見もあった。
わざわざ書くことでもないけれど、わざわざ書きたくなるようなことでもある。その場合はちゃんとオチをつけて最後は笑いにしておかないと自分が惨めになったりする時もあるので、処理の仕方はちゃんと習得した。

父は再婚したので新しい家族が存在した。私は当時母と暮らしていて、私の家族と父の家族が交わる訳はなく、血の繋がりはあってもそれぞれに別々の暮らしがあり、生活があり、並行して続いていくこれからにどんな関係が生まれると言うのだ、そんなもの、無意味だよねと何度も思ったものだ。
そんな結論を出していたので、自分から疎遠に持っていった時期もあった。

「なんでも言ってくれ」「相談してくれ」と言われてもどうする術もなく、どうしたものかなと思っていたけれど、
別にどうすることもなくただそのままの言葉として受け取れば良かったんだと、今更ながら後悔する。

「わかったよ、ありがとう」ただそう答えれば良かっただけの話しだ。

いつも何かにつけ、「でも」「だって」と己の言い分を主張して理屈をこねた。
理屈をこねるのは父譲りだったが、その父が黙って私の言い分を聞いていた。
私はきっと甘えたかったんだろうし、どんな無理難題な我儘も聞いてほしいという理想の父親像というものがあった。
父は父で、何もしてやれなかった22年間をとにかくできる限り埋めてやりたいと思ってくれたのだろうと、勝手に推測する。

年を経て、親が老い、母への接し方が変わってきた最近になって、ようやく父への接し方も変わってきた。私は結婚しお互いに別々の生活圏があるスタイルは相変わらずだけれども、血の繋がりも不変であり、「父」と「娘」の関係性は変わらないのだ。

再会してから色んな出来事があり、それに対してわだかまりのようなものがあったが、そんなものはいつしか消えていた。
とるに足らないくだらないわだかまりだ。吹けば飛ぶような塵みたいなものだ。
どんなに重大な事であっても時間とともにそんなものは劣化して風化していくんだと悟った。

たまに電話、たまにLINE

最近は、色んな話に耳を傾けざっくばらんに話せることが多くなってきた。自分も尖ったところが無くなってきたせいもあるのだろうが、実は「あと何年こんなふうに元気に話していられるんだろう」と思う事が多くなったせいだ。
それは母親に対しても思う気持ちであり、確実に期限が迫ってきているような気がして苦しくなる現象だ。
些細なことで喧嘩などしている時間が勿体ないと思うようになってから、少しずつ優しくなれた。父に対しても、そう、なれた。

贈り物に添えた手紙には、こう記した。
誕生日に送られた父からの手紙に返信するような形で。

「・・・私の事は『犠牲にした』とか、そんな昔のことは忘れて、話し易いのならいくらでも何でも相談してください。多分おそらく私が1番父のDNAを色濃く受け継いでいると思うので笑。気持ちがわかる部分も多いです。・・・その他の愚痴やわがままは私が聞きます。説教などはしないので安心してください。」

次の日に連絡があり、久々に長電話をした。私はずっとうなづいて父の話を聞いていた。

こんな不明瞭な形でも父娘なのだ。そう思った。



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