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ちあきなおみ~歌姫伝説~24 中島みゆきとの邂逅

「夜へ急ぐ人」のシングル発売に向けて、ちあきなおみの意志を汲んで動いたのは郷鍈治だった。

シングル盤ジャケット


 一九七三(昭和四八)年末、兄、宍戸錠の紹介で運命的に出逢ったふたりは、お互いに魂を投げ出し合うかのように、二人三脚でステップを踏みはじめる。
 この頃、ちあきなおみは歌手として、自らを分岐点に立たせ試行錯誤を繰り返していた。

「毎日マネージャーが迎えにきて、現場から現場へ移動して歌って、帰ってきて寝て、また次の日も同じようにただ歌って・・・・。これでいいのかなあって、私はなにをしているんだろうって思ってた」

 ちあきなおみの、歌手としての自己への懐疑とその葛藤を身近で敏感に感じ取り、その後、水先案内人のように進むべき方位を指し示したのが郷鍈治だったのだ。
 郷鍈治はこれまでの俳優としての役割や経験などから常に物語全体を見渡し、いかに主役を輝かしく存在させるか、というプロデューサー感覚が身に付いていた。主に悪役として、ヒーローの怒りに火をつけ燃え上がらせ、その結果、観衆の溜飲を下げさせるためには、生半可な憎まれぶりでは作品全体が貧相なものとなってしまうのである。そのことを嫌というほど体感してきた郷鍈治は、自分の目の前にあらわれた二六歳のちあきなおみに、この歌手はまだまだこんなものではないという無限の可能性と、さらに独自の個性を打ち出すプランニングがいくつも湧き上がってきたに違いない。それを実現させるためなら、自らが犠牲となり、憎まれ役となることも厭わない。郷鍈治は、ちあきなおみという女が主役であるところのドラマの、きわめつきの男の役に挑むことを選んだのだ。そして、歌謡界という業界からは生まれ得ない発想、その小さな縄張りを突き破る鋭利な感性で、俳優をやめ、プロデューサー兼マネージャーという役どころで、ちあきなおみだけを見つめつづけてゆくのである。

 一九七五(昭和五十)年、ちあきなおみは所属事務所を、十三歳から十五年間身を置いた三芳プロから、郷鍈治が代表を務めるダストファイブへと移す。
 この年の活動を辿り直してみると、レコード会社の戦略どおり、それまでのドラマチック歌謡路線から転じて、船村徹作品を中心として演歌路線を展開し、歌手としての低力を見せつける。しかし、この美空ひばり路線の継承というレコード会社の思惑は、ちあきなおみの歌への思想、イデオロギーとは相容れないものだった。
 たしかに、ちあきなおみファンにとって、比類なく情緒豊かに歌われるちあき演歌は目を惹かれるものであったに違いない。しかし、本人の歌への本質的な所望は別として、その美空ひばりに匹敵する歌唱力から、戦略的にこの流れは大方の予想を覆すものではなく、どこか新鮮味と斬新さに欠け、まったく新しいちあきなおみ像を印象づけるには至らなかったと思われる。そして歌謡ファンは、歌謡界という景観を見馴れ、些か興ざめしていたことは疑うべくもなく、コアなちあきなおみファンもまた新しきを求め、さらにそのニーズは多様化していたのである。業界内の人間がその内側に入った瞬間にまったく見えなくなり、そして頑なに見ようとしないのはここである。
 しかし、この局面でちあきなおみのプロデューサーとなった郷鍈治は、その進路を見誤らなかった。まず問題は、ちあきなおみの歌手としてのプライドである。そのプライドが、ヒット曲だけを追ってゆくことで犠牲となるのであれば、なんとしてでも守り抜いていかなければならない。このままレコード会社が推し進める路線を見据えれば、ひとりの歌謡界枠の中の歌手として、ちあきなおみの真髄から抜き去ることのできない、ジャンルを超えた歌魂に支障をきたしかねない。本人もまた、この路線の先に、歌手としての未来予想図を描くことができなかったのである。
 こういったことはおそらく、当時のスター歌手のあいだでは、歌謡界自体が斜陽を迎え、衰退の一途を辿らない限り意識されない命題だった。たとえ意識はあったとしても、今日を乗り切るのが精一杯であり、できればこのまま歌謡界という土壌に安住し、本意ではなくとも時代に合わせて歩調をともにしたい、と考えていたのではないだろうか。
 しかし歌手には、いい歌を歌いたいという根源的な欲求があるのだ。歌はヒットすればそれでいいのか。また、歌手はその時代における使い捨てのような存在なのか。歌はもっと大衆文化の中でクオリティーを高めてゆかなければならないのではないか。このことを真剣に考え、自分を偽ることなく実際の行動としたのはちあきなおみだった。
 そこで、ちあきなおみの年譜を辿ってみると、これまでの行路とは明らかに違う色の行路へと軌跡を刻んでいるのがわかる。郷鍈治とちあきなおみの遭遇は、歌手・ちあきなおみが未知との遭遇を果たすべく、ちあきなおみ路線を生んだのである。

 一九七七(昭和五二)年、とうとうちあきなおみは、歌謡界という城郭都市の枠外へと出奔を図る。それは、歌謡曲のように企業ベースで創られる音楽ではない、歌謡界とは一線を画す、ニューミュージックの中島みゆきとの出逢いだった。
 中島みゆきは一九七五(昭和五十)年、「アザミ嬢のララバイ」(作詞・作曲・中島みゆき)でデビュー。その後の活躍は自明のことであるが、ちあきなおみと中島みゆきの邂逅のきっかけとなったのは、一九七六(昭和五一)年、中島みゆきが初めて他のアーティスト(研ナオコ)に提供した「あばよ」(作詞・作曲・中島みゆき)という曲だった。この歌を聴いたちあきなおみが、直接中島みゆきに曲の提供を依頼し、中島みゆきもまた、憧れの存在だったちあきなおみに曲を書きたいと願っていたこともあり、翌年七七年四月に、「ルージュ」(作詞・作曲・中島みゆき)がリリースされた。
 この歌はちあきなおみにとって、自身が望む歌に取り組むという道筋へと足を踏み入れ、その方向性を示す大きな手応えとなった。
 蓋しこの四十年以上も前に実現していた夢のような両アーティストの組み合わせは、現代の音楽ファンにとっても垂涎を禁じ得ないコラボであり、昨今の日本の音楽シーンの芯部を成す根元ともなる、効果的財産であると言えるだろう。
 このように七〇年代というのは、芸能界のみならず、デザイナー、イラストレーター、コピーライターなど様々な分野のクリエイターが、利得に左右されることなく、本能的かつ突発的に、仕事として本物を生みだすことができる時代だったのだと頷かされるのである。
 それはさておき、「ルージュ」によって、ちあきなおみの存在が徐々に歌謡界の枠を越え、ただならぬ可能性を秘めた歌手として、ファンの眼差しに変化をもたらしていったのは想像に難くない。またちあきなおみ本人も、郷鍈治という土壌を得て、その発想に刺激を受けながら、これまでの呪縛から解放され、過去をリセットして新しい途を歩みはじめたことであろう。
 同年七月には、中島みゆき作詞・作曲からなる楽曲を軸に、同名のアルバム「ルージュ」が発表され、現在でも人気が高い「流浪の歌」「雨が空を捨てる日は」「あばよ」などをカバー、そして提供曲である「うかれ屋」「帰っておいで」などが収められ、中島みゆき世界をちあきなおみが旅しながら再構築している。
 このアルバムでは他にも、「氷の世界」(作詞・作曲・井上陽水)、「わかってください」(作詞・作曲・因幡晃)など、当時表舞台に台頭してきたニューミュージック系のシンガーソングライターの曲がカバーされている。
 ちあきなおみはここで、これまでのちあきなおみをまったく感じさせない、新たな引き出しを開け、これらの曲を流麗に歌い上げながら、カバーの名手たる曙光を暗示させている。
 アルバム「ルージュ」は、まさに伝説の一枚として、今なお多くのファンに聴き継がれ、語り継がれている。
 ちなみに「ルージュ」は、一九七九(昭和五四)年、中島みゆきが自身のアルバム「おかえりなさい」の中でセルフカバーし、その後、一九九二(平成四)年には、この歌を原曲とした「安易受傷的女人(傷つきやすい女性)」(広東語ヴァージョン)が、テレサ・テンに代わりアジアの中国語圏で歌姫となったフェイ・ウォン(王菲)によって歌われ、アジア圏ばかりか、広東語を話す世界各国の華人社会で大ヒットしている。

 さて、この七七年、「ルージュ」の次にくるのが、「夜へ急ぐ人」という問題作である。
                つづく


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