見出し画像

ちあきなおみ~歌姫伝説~30 ただ歌のために

 一九八一(昭和五六)年、ちあきなおみはレコード会社をビクターインビテーションに移し、これまでとははっきりと方向性を変え、伝説を積み上げてゆく。
 真摯にじっくりと好きな歌に取り組み、アルバム歌手として、アーティストとしての趣を見せながら、ちあきなおみ路線を劇的に繋いでゆくのである。そして一九八八(昭和六一)年、レコード会社をテイチクに移籍させるまで、ビクターから四枚のアルバムを発表している。
 恐縮ながら、私に言わせれば、歌手・ちあきなおみとはこの四枚の中にこそ在り、である。

 一九八一(昭和五六)年、二年半ぶりのニューアルバムとして発表された「それぞれのテーブル」では、大人の恋を歌ったシャンソン楽曲をカバー。様々な女性の感情の移ろいを、後藤次利安川ひろしによる現代的な編曲で軽やかな旋律に乗せ、まったく新しいちあきなおみ世界を感じさせる妙味を発揮。

アルバムジャケット


 一九八二(昭和五七)年発表の「THREE HUNDREⅮS CULB」では、アメリカのスタンダード・ジャズを全曲日本語詞でカバー。日本人の持つジャズへの先入観を払拭するかのような自由で解き放たれた歌唱は、独自の色に染め上げられながらも、懐かしきアメリカの香しいジャズの醍醐味を喪失させない歌手としての力量を見せつけている。

アルバムジャケット


 そして一九八三(昭和五八)年には、ポルトガルの叙情歌であるファドを歌った「待夢」を発表。「歌は、自分が心から歌いたいと思い、身体から出てくるもの」というちあきなおみの言葉のように、自らの歌魂を点火することによって、"魂の歌"と称されるファドという歌の原点へと連鎖してゆく、ちあきなおみ路線の宿命たる道筋。

アルバムジャケット


 なお、この年の一月には、夏目雅子主演・映画「時代屋の女房」(森崎東監督)の主題歌となる、ビクターから唯一発売されたシングル「Again」(作詞・大津あきら 作曲・木森敏之)を発表。

シングル盤ジャケット


 さらに一九八五(昭和六十)年、日本の良き歌を見直すためにも挑んだ、前三作品からの集大成として回帰した、日本の戦前・戦後の流行歌を歌った「港が見える丘」を発表(「星影の小径」とタイトルを改題して、一九九三・二〇〇六年再発売。二〇〇七年原題のまま再発売)。当時としてはまだ斬新だったコンピュータ―を駆使し、楽曲アレンジを現代風にお色直しさせ、古き良き昭和歌謡への郷愁と同時に、後世へと名歌を継ぎ渡すかのような、新しい香りが情緒豊かに立ち昇る結びの一枚。倉田信雄とムーンライダーズの武川雅寛による実験精神溢れるアレンジは、歌の可能性を広げ、躍動感を伝えてくる。中でも、一九五〇(昭和二五)年、小畑実の歌唱で発表された「星影の小径」(作詞・矢野亮 作曲・利根一郎)のカバーは人気が高く、ライブやディナーショーでは、セットリストの一曲目に位置することが多かった。またこの歌は、AGF「マキシム・レギュラーコーヒー」(一九八五年)、「アウディ」(一九九二年)、キリンビバレッジ「実感」(二〇〇六年)のCM曲に使用され、ビクターより一九九二年にシングル盤として発売、二〇〇六年にはマキシシングルとして再発売されている。またその後も多くのアーティストによって歌い継がれ、今や日本のスタンダードソングとなっている名曲である。ちあきなおみの歌唱は、潤いと懐かしみが同居し、フランスのシャンソンを聴いているかのような心地を起こさせる。

アルバムジャケット


 以上、この四枚のアルバムには、文字どおり「起・承・転・結」として、真のちあきなおみストーリーを伝説とたらしめる「真価・凄み・本質・人生」が随所に散りばめられている。

 私は、「歌手としては地味な活動」とちあきなおみが言うこの期間を、この後、表舞台へと復帰するちあきなおみ最終章への助走・充電期間であった、とする解釈を採らない。その理由は、「歌手としては地味な活動」を余儀なくされた、もっともちあきなおみらしい歌への姿勢が、歌うことの"幸せ"というキーワードを纏って、この期間にこそあると思えるからである。   それは、売れるために歌う土壌から、好きな歌に取り組むという土壌へと、ちあきなおみという歌手を守り還した、プロデューサーであり夫でもある郷鍈治とともに戦い抜いた、濃密にして大いなる時であったと感じられるからである。

 だが、この期間の一九八四(昭和五九)年一月十八日、ちあきなおみ最愛の母であるヨシ子が逝去。幼い頃より一心同体に生きてきた母の死は、ちあきなおみにとって歌う気力さへ失くしてしまうほどの、計り知れない悲しみだったことと思われる。しかし、ちあきなおみには郷鍈治がいたのだ。この存在を差し引いてしまえば、ちあきなおみストーリーはここで終焉を迎えていたのかもしれない。母との別れは、ひとつの人生の節目たる出来事であったが、その節目の後も歌手人生が継続されたのは、ちあきなおみにとって唯一残された、歌うことの根拠である郷鍈治の存在があったからに他ならない。

 ちあきなおみはこの当時、高倉健主演・映画「居酒屋兆治」(降旗康男監督・八三年公開)、夏目雅子主演・映画「瀬戸内少年野球団」(篠田正浩監督・八四年公開)や数多くのテレビドラマに出演し、女優としての活動も目立っていた。その後テレビCMでも「タンスにゴン」(市川準演出)がシリーズ化されるなど、その多才ぶりは世間の注目を集めるところとなった。

 私は一度、女優としての活動についてちあきなおみに聞いたことがある。

「お芝居は、相手があるものだから難しい。でも、役を創ってゆく過程なんかが歌と共通している部分もあって。女優業はあくまでも、ただ歌のために、なにかプラスになると思ってやってました」

「ただ歌のために」は心に響く言葉だった。私はこう語るちあきなおみに、「ああ、この人は根っからの歌手なんだなあ」と思ったものである。この言葉を振り返っていつも脳裏をよぎるのは、あの、伝説のライブステージである。
 そのステージとは、一九八五(昭和六十)年四月に草月ホールで開催された、「待夢Ⅱ」というコンサートである。私はこのライブを生で観たわけではないのだが、記録用として事務所に保管されていたビデオを幾度となく、テープが擦り切れるほど観賞した。このステージでのちあきなおみからは、前記した四枚のアルバムからの楽曲を中心として、力みなく、声を張ることもなく、語るように、自然体に、自由に歌を遊んでいるかのような印象を受け、また、歌手としてこれからの姿勢を示しているように窺われる。そこには、「喝采」「夜へ急ぐ人」「矢切の渡し」もない、素顔の歌手・ちあきなおみが在るのだ。

 まるで、一篇の映画を観るように、カラーでありながら白黒であるかのように、忘れることのできないライブフィルムが、静寂の中、ゆっくりと回りはじめる。
 私はちあきなおみの「ただ歌のために」という言葉を胸に、今日もよみがえってくるステージを、幾千の星を仰ぐように夜空に投影してみるのだった。
               つづく

よろしければサポートお願いいたします。