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単独親権制を克服する

勉強してきて、共同親権制を理想とするから導入しようというのではなく、単独親権制とその運用の仕方があまりにも誤りすぎているからこそ、その克服が不可欠であるという状況で、ただ単に共同親権制をパッと導入してしまえば済む問題とも限らないねじれにねじれた闇から抜け出すための、この10年以上の歩みだったようにも肯定的に思えてきた。一筋縄ではいかなったという、そのとおりなのだと思う。

読書感想文を続ける。いつもの本。

第2章 日本における親権・監護法制の問題点と課題 第2節 実務から見た離婚後の子どもの共同監護 共同親権制度と関連して

鈴木経夫弁護士の解説のまとめだ。

離婚に際して、原則いわゆる共同親権制の方向、というより共同で子どもの監護をする、双方の親に「子育ての義務を認める」ことを、法律の条文上も明らかにすべきであると考えざるを得ない・・・。一つには紛争性が比較的低い、法律家の目には触れにくい協議離婚で、離婚をしていく例の中に、その必要性が見出される。親の子に対する責任を明確にすることが、子どもと親との離婚後のよりよい関係を構築することに資するであろう。また、離婚時の両家の気持ちにも沿うのではなかろうか。面接交渉や養育費の支払いもより円滑に行われるのではないか。もっとも、親権の共同行使について、意見の齟齬が生じて、紛争が多発するのでは、との危惧がささやかれる。他国の例を見ても、そのための紛争が、あるいは裁判所への申立てが多発するということもないようである。・・・具体的には母親が親権者となったものの、父親も子どもと密接に関わっているというような例はかなり増えているのではないか。いわゆる共同親権という名の下に想定される制度は、離婚後も子どもともっと関わりたいと考える親に対する何よりの励ましとなるのではないか。

共同親権制が包含する深い配慮にこそ価値があり、それは、親を親らしく励ますもの、それが子の利益になることが想像できる。子にとっては、より愛してくれる大人の数が多い方が単純にいって歓迎してよい話である。懸念点について脚注で補足されている。

・・・ドイツのデュセルドルフの家裁の判事が、「共同親権となると、その行使をめぐって裁判所への申立てが頻発すると危惧したが、実際にはそれは杞憂であった」と話していた・・・

日本は、遅いと非難されながらも、共同親権制の導入を慎重に待った。おかげで、諸外国におけるあらゆる試行錯誤を参考にすることができる。日本独自に、最高の離婚後子育て環境を用意することもできるはずなのだ。法曹改革を経て、弁護士の数が増えた。法テラスによって、弁護士への依頼のしやすさも整いつつある。共同親権制導入後にも例外的に不適切な親を排斥するための親権停止等の活用、制度はあっても、それを使いこなさなければ意味がないので、弁護士の養成も足りてきているといってよい。虐待等があるケースで、親権者変更等の実績を私も積んでいる。

10年以上の足踏みも決して無駄ではなかったといえよう。もはや躊躇することもない。

まとめは続く。

他方、現在裁判所の実務で、調停や裁判による離婚の場合、子どもをめぐっての争いがあるケースでは、離婚の問題そのものといったん切り離して、時間をかけて試行、調整することにより、共同親権への途が開かれるのではないか。子どもという独立の主体が絡まる三角の関係として、親権者をめぐる紛争解決の道を探ることが、子どもにとって望ましい共同親権制への移行を可能とするのではないだろうか。もっとも、児童虐待やDVの関連する事案について特別な配慮が必要・・・。

 「共同親権制度」を表立って立法化したわけではないが、家裁の現場では、知恵と時間、気配りを尽くして、どうにか、両親の離婚後も、子どもが両親との関係を築いていけるよう、心を砕いてきた努力が伝わってくる。そうはいっても、「単独親権者を指定」する以上、それがイバラの道でしかないこともある。単独親権制は共同養育を排斥しないが、共同養育を推し進めるには、もはや単独親権制では解決しえないのである。あくまでも、父母の対等性を前提としなければ、均衡が維持できない。共同養育を一般論として肯定する家庭裁判所こそ、今、共同親権制導入を最も欲しているといえよう。

条文上明確でないのに家裁の実務からはじまった面接交渉は、今や市民権を獲得したといえよう。まだ、履行の方法やその態様等について不十分な点が多いとしても。共同親権にしても、視点を子どもの立場からのそれにして、すなわち、親の義務からの視点を強調することで、現状でこれを実現することに、問題があるとは考えられない。また現在のところ、それが離婚にともなう子どもの被害をできるだけ食い止める方策なのではないか。

民法766条が改正され、面接交渉は、面会交流という言葉に名を変え、法律上明文化された。家裁における、「面会交流原則実施論」と名指しされる程?、面会交流の市民権は一層確固たるものになっているといえよう。人は、人生において子を持ち、親となるのも自然なことで、親であることを人格的利益として尊重することも憲法の個人の尊厳(憲法13条)の観点からいって当然のことであるから、憲法上の親の権利という切り口から大々的に突き進んだわけではないとしても、実務の現場から小さく生まれ、判例を通じて育ち、そして、法改正に至って、民法上の制度にと面会交流が「誕生」した経緯を想うと、やはり親の人権と一面として有するからに他ならないと考える。共同親権制も、子どもが両親に養育されるという利益に資する文脈において、もはや導入は避けられないといえよう。共同親権の4文字だけが解決されるわけではないが、共同親権制が包含している、子の利益という価値を実質的に確立するために、共同親権制という”宣言”が今必要なのである。

まとめでも、最後に付言している。

・・・現在みられる紛争性が異常に高いケースにとって、いわゆる共同親権制を採用することは、当然によりよい解決策となるわけではない。それに付随して柔軟な保全処分の制度、親権の停止もしくは喪失の制度の採用が必要であろう。・・・しかし、私は、共同親権制を採用することによって少なくとも現行の実態より、それらの問題の解決が容易となることはあっても、さらに困難となったり、その解決の内容が不当、不適切となることはない、と考えている。


現行がいかに悲惨か、が想像できる。

共同親権制が万能薬ではない。課題は尽きない。軽視せずに取り組んでいかなければならない。だが、早急に導入しなければ、息苦しく生きづらく、貧困・虐待、ひいては、自殺を選択してしまう、親や子があふれる現状を打破することはできないのだ。

病の治療に例えることができるかもしれない。

重篤な症状に直面したときの対処法には意見が分かれるだろう。

どちらの対処法だけでよいとは言い切れないではないか。

この「どちら」というのは、単独親権か共同親権か、ではない。

自己責任で共同養育を模索するか、社会において共同養育を支える仕組みを確立しておくか、という意味である。共同親権制においても、実際の当事者の悩みは尽きない。親教育やカウンセリングの利用のしやすさが必要不可欠だろう。それ以上に、仕組みの整備が急務だし、それによって救われるケースも多いということだ。一方で、例外的にエラーが起こる場合への対処も置き去りにしてはならない。どちらかだけを優先するものでも、比重を偏らせる問題でもない。一挙解決をする勇気をもって、今、共同親権の「宣言」が求められる。

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