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犀の角のようにただ独り歩め:「研究も勉強も、“一発逆転”はないと改めて言っておく必要があるかも知れない」というお話

私たちの社会はそんなに悪くはないはず

 先ごろ、政治に関する面白いエッセーを読みました。
 なぜ「日本維新の会」が支持を得ているのかをロスジェネ的視点から考察してみた、というのがその内容なのですが、私が気になったのはロスジェネ世代以降の若者たちのリアリティへの次のような言及でした。

ロスジェネとそれより若い世代にとって、労働組合や労働運動なんかよりも、「いつか一発逆転すること」の方がずっとずっとリアリティがあるのだ。それがどれだけ夢物語だとしても。

雨宮処凛「第639回:なぜ維新なのかについてのロスジェネ的考察。の巻」https://maga9.jp/230621-2/

 私は40になったおっさんなので、「ユーチューバー」で一発当てたい(当てられる)という夢?が(いささか)過剰なほどに市民権を得ている現状をバカバカしいと思って眺めている方です。でも、「ユーチューバー」じゃなくても最近やたらとニュースで目にする「闇バイト」に向かう若者を目にすると、とにかく一発逆転、このクソつまらん現状をぶっ飛ばしてやる的な考え方が、圧倒的なリアリズムとして今の若い人たちを捉えているのかも知れません。

 このエッセーには、そのほかにも「現在40代のロスジェネから、ゆとり世代、さとり世代、ミレニアル世代、Z世代に至るまで共通することがあるとすれば、私は「経営者マインドをナチュラルに搭載している」ということだと思う」などの興味深い指摘がありました。この「経営者マインド」というところはアイロニックに捉えておく必要があることは言うまでもありません。

 若者のリアリティと言ったものの、世の中は不公平なんだから、少なくとも自分だけはそこから「ワンチャン」何としてでも抜け出さないとそのためには地道に努力するのではダメで、誰も成し遂げていないことをしでかさないと。そんなムードは若者に限らず、今の日本社会全体を覆っている傾向なのかも知れません。

 よく耳にする別の言葉で言えば、こうした21世紀的な「起業家マインド」の成れの果てが、地道な努力を無価値とするような態度なのかも知れません。ただ、喧伝される成功物語の虚飾を剥ぎ取っていけば、誰も地道な努力なしに成功している訳ではないということにはすぐに気づくはずです。その努力が清廉であるか腐敗であるかは置くとしても。
 結局のところ、何をするにも努力という泥臭さはやはり必要だ、という今では埃まみれの倫理観を引き出しの奥底から取り出してくる必要があるかも知れません。少なくとも私たちの住む社会は、まだ、そうした努力が実を結ぶ可能性を残した、そんなに悪くない社会だと思うからです。

とはいえ、それは困難な闘いに違いないということ

 そうは言っても、努力は報われないじゃないか。
 それもその通りです。報われないことも多々あるでしょう。そして私たちはそれが政治腐敗や社会構造の矛盾に起因していることもすぐわかるでしょう。問題は(これも当たりまえすぎることかも知れませんが)、そうした社会的不正に対して、誰かと声を上げて闘うのか、あるいは、自分だけがその泥沼から一発逆転しようとするのか、その辺りにある気がします。

 そして、多くの人が後者を選ぶ限りにおいて、為政者や一部の成功者にとっては都合が良いのです。一発逆転を目指して、夢を追いかけてもらう。そのために何年もフリーター生活をしたり、高い学費を払って学校に通ったり、今あるそこそこの社会的地位を守ることに腐心したり、そうしたことに手一杯になって政治に無関心になってくれたりした方が好都合なのです。

 こうした世界でコツコツと努力し続けるのは確かに困難です。大変なことです。一度、挫折や傷ついた経験があれば、なおさらそうかも知れません。自分がやりたいことを仕事にしなければ価値がないとされる社会は厳しい社会です。それなら、何のためにするのかわからない学校の勉強より、効率よく人を騙す方法や誰にでもウケる動画を作るコツを学んだ方が得ですよね。

それでも一発逆転はないと言いたい

 私自身は悪人や碌でもない人が出てくる物語が昔から大好きです。犯罪者、ギャンブラー、異常者、なんでもいいですが、そうしたアウトロー的な生き方の魅力は確かにあります。でも、そうした生き方はある程度、秩序だった社会があるから、オルタナティブな魅力を持ち得るし、だからこそ時には「まとも」とされてる社会の方の歪みを鋭く突き当てるという面もあるはずです

 ただ、昨今の一発逆転の態度は(それが本当にあるとすればですが)、よもや真っ当と思える社会(理想的な社会)が見出せないが故に、変革を促すような力を提示することもなく、ただただ、当事者たちの多くが食い物にされて終わりという結末を引き出すだけのような気がしてなりません

 そのように危惧するから、私は、自分が接する若い人(主に大学生ですが)には、研究も勉強も、そして人生も一発逆転はないと言っておきたい気持ちになっています。一発逆転のように見える人生も、おそらく、成功に至るまでに泥臭い努力(勉強でもスポーツの練習でも何でも)があるのだと思いたい。

犀の角のようにただ独り歩め

 しかし、今の大学教育はどんどん「企業家マインド」だか「経営者マインド」だか、そんな価値観に引っ張られて、学生から地道な努力の訓練を奪っている気がします。ここに生成系AIが絡んでくると、ますます、やばいなという気がしています。

 これは経験から思いますが、論文は何冊も本を読んだり、何編も論文を読んだりしないと、まともなものは書けません。たとえ一回は書けたとしても、続けて書けません。外国語は場慣れも大事ですが、単語や熟語を何度も学習し、文法を丁寧に理解しないと、使い物になるまでには上達しません。スポーツも基礎的な技術の習得を軽んじては、恒常的に勝ち続けることはできないでしょう。  
「経営者マインド」が不要だと言いたい訳ではありません。そのマインドを発揮するにしても、その前に必要な知識や技能があると言いたいだけです。

 さらに大事なのは、もしも自分が本当に努力をしたと思っているのに、望むような成功が手に入れられないのなら、そこには何かしらの社会的不正や矛盾があるはずです。そして、それを感じたなら、闘うべきです。一人で闘うのは不安です。ならば、誰かと共に闘うべきです。家族、友人、労働組合、なんでも良いです。そして、闘う方法は色々あります。投票でも、デモでも、ストライキでも。何もしないことが抵抗になることもあります。大事なことは、一発逆転を期待するだけでなく、その一発逆転が到来するのを待ちながら、地道に自らの牙を研ぐことのような気がします

 ブッダが言ったとされる言葉に「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉があります。この言葉を私はTHA BLUE HERBというヒップホップグループのその言葉の通り「サイの角のようにただ独り歩め」という曲で知りました。この「犀の角のようにただ独り歩め」は「サイの頭部にそそり立つ太い一本角のように、独りで自らの歩みを進めなさい」という意味だそうですが、この言葉が書かれた『スッタニパータ』の中では次のような韻文の一部となっているようです。

学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq000004mtbk.html

 私自身、この日本社会がそんなに悪い社会だとは思っていませんが、世の中や周りのムードがたとえどんな風であろうと、時にはそこから距離を置いて、信用できる良識ある他者と共に自分を磨き続けること、それが人生をより良くする最良の方法ではないかと思います。

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