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『革命について』 第二章 社会問題

フランス革命

歴史過程の必然性は、もともと天体の合法則的・必然的運動のイメージのなかで考えられていたが、それに対応するものが、人間の生命が従属している必然性のなかに(革命によって)転換したとき、肉体維持の必要に駆られた貧民たちは、フランス革命の舞台になだれこんだ。
この出来事以来、革命の天文学的な比喩はその意味を失い、生物学的イメージに変わり、群衆(社会の事実上の多数)を一つの超人間的な抵抗しがたい「一般意志」によって突き動かす超自然的肉体のイメージに理論化された。
この近代的イメージにぴったりするリアリティは、十九世紀以来われわれが「社会問題」と呼ぶようになっているもの、もっと端的に貧困の存在と呼んでいるものである。
群衆がフランス革命の援助に殺到し、それを鼓舞し、前進させ、そして最後にはそれを滅亡に追いこんだのも、この必然性〔貧窮〕が彼らを支配したからであった。
彼らが政治の舞台にあらわれたとき、必然性〔貧窮〕は彼らとともにあらわれた。そして、その結果、旧制度の権力は無力となり、新しい共和国は死産したのである。
自由は必然性〔貧窮〕に身を委ねなければならず、必然性〔貧窮〕はテロを解き放った。
ロベスピエールは最後の演説のなかで、予言のかたちで定式化し、何が起こったのかはっきりと気づいた。彼はこう述べたのである。「人類史のなかでわれわれが自由を創設する瞬間を逃してしまった以上、われわれは滅びるだろう。」革命は必然性〔貧窮〕によりその方向性を変え、もはや自由が革命の目的ではなく、革命はその目的を人民の幸福におくようになった。
この転換に与って、カール・マルクスが政治よりも歴史にいっそう関心を払い、自由の創設をほとんど完全に無視し、その注意をもっぱら外見上の革命的事件の経過(自由が退き必然性〔貧窮〕が命令するようになった過程)に集中し、その著作のなかで理論化をおこなったとき、近代革命の歴史はもはや戻ることのできない地点にまで到達しているように思われる。
青年マルクスがフランス革命から学んだのは、貧困は第一級の政治力になりうるということであり、マルクスは「搾取」という用語で社会問題を政治的力に変形させ、経済学という新しい科学に政治学の要素を取り入れ、それを政治経済学(ポリティカルエコノミー)と称するものにつくりかえたのは、革命を生み出すためであり、マルクスは経済状態を政治的要因に翻訳し、それを政治的用語で説明しなければならなかったのである。

アメリカ革命

アメリカの舞台に見られなかったのは、貧困というよりはむしろ不幸(ミゼリー)と欠乏であり、アメリカでは勤勉な人も貧しかったが、みじめ(ミゼラブル)ではなかった。
アメリカ人が提出した問題は社会問題ではなく、政治問題であり、それは社会の秩序ではなく、統治の形態と関連していた。
彼らの問題は、大多数の国民が自分たちの代表を選び、その人に代表になってもらうことはできるにしても、自分が積極的に統治に参加することから自動的に排除されることになりはしないかという点にあった。
代表制は、たんに「自己保存」あるいは「自己利益」の問題にすぎず、勤労者の生活を守り、それを政府の側からの侵害にたいして保護するのに必要なものであるにすぎない。
この本質的にネガティブな防衛は、政治的領域を多くの人たちに開放するものではけしてない。それはジョン・アダムスによれば「自己保存についで永遠に人間的活動の偉大な源泉である卓越への情熱」-「同等になりたい、あるいは、似たものになりたいというだけでなく人より抜きんでたいという欲求」-を人びとのうちにかきたてるものでもない。
105〜106頁ジョン・アダムス…、欠乏より暗黒のほうが貧困の呪い…、卓越の光輝く公的領域から排除された無名状態(オブスキユリテイ)等…。
そしてアメリカに社会問題が存在しないというのは、結局のところまったくの欺瞞であり、貧困と人を堕落させるような不幸は奴隷制と黒人労働のかたちで遍在していたのである。
同情の情熱はあらゆる革命の最良の人びとの心につきまとい、彼らを突き動かしたが、同情が主役たちの行動の同期としてなんの役割も果たさなかった唯一の革命がアメリカ革命であった。
もしアメリカの舞台に黒人奴隷が姿をあらわしていなかったとしたら、この驚くべき側面を、ジェファーソンの「愛すべき平等」のようなアメリカの繁栄によって説明したくなるだろう。
しかし実際は、貧しき白人の国の強みが、他方でかなりの程度まで黒人労働と黒人の不幸(ミゼリー)に依存していなかったかどうか自問してみたくなるのである。
奴隷制度は、貧困の場合以上に、無名状態をいっそう暗くし、「完全に無視された」のは貧しき人ではなく、奴隷であった。
ジェファーソンがアメリカ社会の構造が依存している原罪に気がつき、「神は正義なりと考えたとき身震いした」のなら、それは彼が、奴隷制度が自由の創設と合致しないことを確信していたからである。
アメリカでは奴隷制が社会問題の一部でなく、「暗闇のなかに隠されていたから」社会問題はすべての実際的目的としては存在せず、それとともに、革命家たちを突き動かすもっとも強力でもっとも破壊的な同情の情熱は存在しなかった。
われわれの文脈のなかで問題の核心となるのは、貧困の苦境だけが同情をひき起すことができるということであるため、次にアメリカ革命以外のすべての革命における同情の役割を取り扱わなければならない。

同情の原理

フランス革命において、見逃すことのできないのは、専制からの解放が少数者にとってのみ自由を意味し、依然として悲惨な状態の中でうちひしがれていた多数の人びとには、解放は感じられなかったという事実である。
これらの人たちはもう一度解放されなければならなかった。この必然性〔貧窮〕の軛からの解放にくらべれば、最初の専制からの解放は子供の遊びのように見えたにちがいない。
そのうえ今度の解放の場合、代表者たちにはロベスピエールが徳と呼んだ連帯化への努力が必要であったが、この徳はローマのものでなく、公的なものを目指しておらず、自由とは関係がなかった。
この徳は、人民の福祉を考えること、自分の意志を人民の意志に合致させること、そのために「ただ一つの意志」が必要であることを意味した。
この努力は、何よりもまず多数者の幸福にむけられた。
ジロンド党の敗北後、「ヨーロッパの新しい理念」(サン=ジュスト)になったのは、もはや「自由」ではなく「幸福」であった。
フランス革命のすべてを理解するうえで基本的な人民という言葉は、市民ではなく下層人民を意味し、この言葉の定義そのものは同情から生まれ、不運や不幸の同義語になった。
それは、ロベスピエールがよくいっていたように「人民、私を声援する不幸な人たち」であり、もっとも感傷的でなく冷静な革命の人、シェイエスですらのべているように、いつも不幸な人民であった。
人民を代表していた人びとの人格的正当性は、ただこの同情の熱意にのみ、また「われわれを弱き人びとに引きつけるかの重々しい衝動」にのみ、つまり、同情を最高の政治的熱情と最高の政治的徳の位置にまで引きあげる意志を持ちつつ「広大無辺な貧民の階級」とともに苦悩する能力にのみ存在することができた。
歴史的にいえば、同情が革命家たちの推進力になったのは、ジロンド派が憲法制定と共和政府の樹立に失敗し、ロベスピエールの指導のもとジャコバン派が権力を握ったとき、革命は転換点を迎えたのである。
共和政よりも人民を信頼し、制度や憲法より一階級の自然的長所にその信を置いたジャコバンは主張した、「新しい憲法のもとでは、諸法は『フランス共和国』ではなく『フランス人民の名において』公布されなければならない」と。
ルソーの理論でもっとも重要な点は、慎重な選択や意見にたいする配慮に重点を置く「同意」という言葉自体が、意見交換のあらゆる過程と最終的な意見の一致を本質的に排除する「意志」という言葉に置き換えられたということであり、意志は、もしそれが機能するとすれば「分裂した意志など考えることもできない」実際に一つでなければならないし、一般意志という人民の意思の顕著な特質はその完全一致にあり、ロベスピエールが絶えず「世論」について語ったとき、その意味は一般意志のこの完全一致だったのである。
ルソーは国民を、一個人のように、一つの意志によって動かされる一つの肉体と考えていたし、ロベスピエールが「ただ一つの意志が必要だ、ただ一つの…それが共和主義者のものであれ、王党派のものであれ」と述べたのはこの意味であり、一般意志というのは、多かれ少なかれ、多数者を一つに結びつけるもの以外の何ものでもなかったのである。
ルソーが同情を政治理論に取り入れたとすれば、それを偉大な革命的雄弁の激情をもって市場に持ちこんだのはロベスピエールであった。

テロルの心理

十九世紀の偉大な心理学者であったキルケゴール、ドストエフスキー、ニーチェ以前に、モンテーニュからパスカルにいたるフランスの偉大なモラリストたちがよく知っていたように、心は、その暗闇のなかでつづけられる絶えまのない闘争によって、またその暗闇ゆえに、その源泉を生きたものにする。
〜146頁、ロベスピエールの内面分析…、テロルの心理学…
※ロベスピエールについて
処刑後に私有財産を差し押さえに行ったが、彼には家すらなかったらしい。借家住まいで家賃も払っておらず、食べ物は黒パンとコーヒーだけ(革命の役者でミラボーのような人物はもちろんのこと、ダントンのような人物ですら、相当に私有財産は肥やしていたらしい)
ロベスピエールは純粋無垢にルソーの理想がそのまま現れたような人物だった。
ある意味、ヒットラーもスターリンも、経済問題を公的領域に捧げた人物だったのかもしれない。
ロベスピエールの人物像についてはアナトール・フランス『神々は渇く』に詳しい

フランス革命は、自由の創設から、苦悩からの人間の解放へとその方向を変えたとき、忍耐の障壁を打ち壊し、そのかわり、いわば不運と悲惨の破壊力を解放したのであった。
太古の昔から人間の生活は貧困にうちのめされてきた。
そして人類は、今なお西半球以外の全ての国で、この呪いの下で労働をつづけている。
これまでの革命で「社会問題」を解決し、欠乏の苦境から人びとを解放した革命はなかった。過去の革命の記録全体が、疑問の余地がないほどはっきりと示しているように、社会問題を政治的手段で解決しようとする試みはいずれもテロルを導き、ひるがえってそのテロルこそ革命を破滅に追いやるのである。
「胃袋の反乱は最悪のものである。」疑いもなく、ヴェルサイユへ行進した女たちは「自分の子供がみじめな家で飢え死にしてゆく母親の本当の役割」を演じたのであり、サン=ジュストがこのような経験から「不幸な人びとは大地の力である」と叫んだとき、実際、大地のさまざまな力が、慈悲深い陰謀によってこの蜂起に同盟を結んだかのようである。
しかし、その蜂起の結末は無力であり、その原理は怒りであり、その意識された目的は自由ではなく生活と幸福であった。
伝統的な権威の失墜によって地上の貧民が行進をはじめ、彼らがその不運の暗闇から脱けだして市場へ流れこんで行ったとき、その熱狂は天体の運動のように不可抗力と思われ、一つの濁流が自然の根本的な力をもって突進し、全世界を飲み込んでしまうように見えた。
あらゆる支配の根源的でもっとも正統的な源泉は、自分自身の生命を必然性から解放したいという人間の欲求にあり、人間はこのような解放を、暴力によって、すなわち自分のために他人に生命の重荷を背負わせることによって成し遂げてきたのである。

これが奴隷制の核心であった。そして他人にたいする支配と暴力だけが一定の人びとを自由にすることができるという古くからある恐るべき真実が覆されたのは、ただ技術革新が起こってきてから後のことである。
今日、政治的手段によって人類を貧困から解放しようとすること以上に時代遅れなものはないし、政治的手段によって人類を貧困から解放しようとすることの結末は、人びとが本当に自由でありうる唯一の領域、すなわち政治的領域に、必然性〔貧窮〕が侵入したことであった。

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