見出し画像

美に存在理由はいらない バーメルト/札幌交響楽団のブルックナー交響曲第6番

サントリーホールで、札幌交響楽団の東京定期を聴いた。

指揮:マティアス・バーメルト(首席指揮者)
テノール:イアン・ボストリッジ
ホルン:アレッシオ・アレグリーニ

ブリテン:セレナード~テノール、ホルンと弦楽のための
ブルックナー:交響曲第6番

今年から積極的に地方オケ(なんか都民が上から目線で見てるようで嫌な表現だが)を聴いていこうと思っているが、その第1弾。

下野竜也/広島交響楽団のブルックナー8番や小泉和裕/九州交響楽団の「英雄の生涯」にも行こうと思っている。

バーメルトも札響もブル6もセレナードも初めて聴く。
バーメルトとセレナードは録音ですら聴いたことがない。
こういう未知の演奏会はワクワクが止まらない。

腰を抜かすほど、凄かった。

ブル6の後、久々にスタオベしてしまった😅

他にしてる人を見かけなかったので身バレが心配だが(言いたい芳題が原因でサントリーホールで背後から刺されそうで😂)、それくらい凄かったということだ。

この演奏で立たなくていつ立つ?

今でしょ!!

って古いか😂

私は声が通らないのでブラヴォーは飛ばさないが、スタオベはときどきする。

大植英次/神奈川フィルの「幻想」のときもした。

クラオタのはしくれとして、スタオベすべきレベルの演奏会で立てない自分が許せないのだ😅

さて、具体的に何が凄かったかというと、全体のバランス。

別の席で聴いたクラオタの友人は「トロンボーンが抑制されてて物足りなかった」と言っていたが、うるさいブルックナーが苦手な私には絶妙なバランス。

金管が咆哮しないが、箱庭的な美しさではなく、音の中身がギュッと詰まっているので、音量をセーブしていても小宇宙とも言うべき爆発力がある。
がなり立てれば音楽が爆発するわけではない。

それに、優美。アダージョなんか9番の第3楽章に匹敵する深い音楽だと思った。

楽章ごとのラストの余韻を見守る聴衆の集中力も素晴らしかった。

欲を言えば、楽章間であってもあからさまにゴホゴホ咳をするのは、音楽のムードが途切れて台無しであることをもっと知るべきではないだろうか。

札響は初めて聴いたが、極めてレベルが高い。
途中コントラバス奏者の椅子のカバーがベリベリッ!と音を立てて剥がれるハプニングがあったが(コントラバス奏者が顔を見合わせて苦笑していた)、楽団員が完全にひとつになっていた。

ここまで「バーメルトの楽器」と化したにもかかわらず、退任するのはもったいない。

日本のオケはシェフを代えすぎる! このままバーメルトに振らせ続けたら「世界の札響」になっていったのではないか。

バーメルトのブル6を聴いていて、美に関するひとつの答えを得た。

今まで、美しさとは「○○だから美しい」という結果だと思っていた。

バーメルトのブルックナーはそうではなかった。

美に前提は不要。

美はその存在だけで美なのだ。存在理由はいらない。

そのレベルの演奏だった。

指揮は実直そのもので、佐渡裕みたいな雑音は一切出さない。黒子に徹している。

オレの音楽を聴け!とばかりにブレス音を響かせていた指揮者との差を痛感した。

ブリテンのときなんか最初ボストリッジばかり見てしまって、バーメルトの指揮に目が行ったのはしばらくしてからだった。
それくらい気配を感じさせない指揮だった。

スイスの名匠?

いや、紛れもない巨匠の芸。

私の中で、ヴァント/北ドイツ放送交響楽団のブルックナー9番、マリナー/N響のブラームス4番、朝比奈隆/大阪フィルの第九らに並ぶ、至高のオーケストラ体験だった。

ヴァントのブルックナーはオペラシティの壁にヒビが入るのでは?と心配するくらいの大音量で、磨きあげられた音の凝縮度が凄かった。神がかりの至芸だった。

今夜のバーメルトはそんなカリスマ性を感じさせはしなかったが、音楽の純美度ではまったく負けていない。

ただブルックナーの音楽は、第1楽章とアダージョ楽章の「天国的な美しさ」に比べると、スケルツォやフィナーレが落ちて感じる。

ブルックナーってASD(自閉スペクトラム症)だったのかな?って思っちゃうのは、しつこさやこだわりの強さをスケルツォに感じてしまうから。

その反面、アダージョの美しさの前にはブルックナー嫌いを公言する私も頭を下げざるをえない😅

ここだけ取り出して交響詩にしても、R・シュトラウスの「浄夜」やワーグナーの「ジークフリート牧歌」に匹敵する深さだろう。

地方オケにとって、年に一度のサントリーホール公演は晴れの場。

オレたちの底力を見せてやるぜ!と全員が意気込むだろうから、日頃当たり前のようにサントリーホールで演奏してる読響や日本フィルとは自ずと気合が変わってくる。

オーケストラ音楽は凄い。聴く側と弾く側の感想は必ずしも一致しないが、札響のメンバーも「ここまでの演奏はなかなかできないよね」と終演後口にしあったのではないだろうか。

前半の「セレナード」もよかった。

歌詞つきの曲でも、私は演奏中一切プログラムは触らない。両手はフリー。

音が鳴る原因は排除するのがオタのマナーと心得ている。
それだけに、開演前にパンを食べそびれ腹の虫がときどき鳴ったのがつらかった😂

こればかりは制御できない。コンサート前の腹ごしらえもオタのマナーと言えよう😅

ボストリッジはむかし内田光子とのデュオでシューベルトの「美しい水車小屋の娘」と「冬の旅」を聴いた。
学生席で1000円の安さだった。

その頃より声がスケールアップしていた。オックスフォード大の博士号も取得しているインテリだけに(音楽ではないアカデミックな分野)、あのフィッシャー=ディースカウにも似た知性の勝ちすぎる声質に以前は多少の苦手意識を感じていた。

しかし、今夜はパドモアのような柔らかさやたおやかさがパワーアップし、59歳のいまが歌手人生のピークであるかのような凄味を感じさせた。

アレグリーニのホルンも、裏返ったように聞こえた場面もあったが、総じて美しかった。

最終楽章は舞台袖に引っ込み、ホルンソロでバンダで吹いていたが、完璧な演奏だった。袖に引っ込むさいに、演奏中そろりそろりと音を出さずに歩いていくのがプロのテクニックだなと感じた😅

今夜の札響は最初から最後まで気の緩みを感じさせない凄味があった。

一期一会の演奏会とはこのようなもの。この凄まじさはどんなに高性能なオーディオ装置で聴いても体験不可だ。
会場にいた人間にしかわからない「場の空気」がある。

美は、その存在自体で美なのである、ということを私に知らしめた至高のブルックナー体験であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?