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noteの片隅に

子供の頃から今でも苦手なことが生き物、特に食べるために殺される生き物の死を想像することだ。
だからといってベジタリアンでもない私がそんなことを言うのは矛盾していて、相当面倒くさい人間であるのは自分でよくわかっている。

生きたまま貝を茹でるのもできない。生簀のある寿司屋も命を選ぶようで気が滅入る。一度飲み会でイカや伊勢海老の活き造りを出されてゾッとした。
などと誰にも言えない。だからnoteの片隅にそっと書く。

本県には『命に感謝する食育』として、生きた鶏をグループごとに一羽ずつ与え、生徒達に捌いて料理させる中学校がある。両側で暴れる鶏を押さえつける者、包丁で首を切る者、中には泣いて嫌がる女子もいると聞く。私がその中学生なら食育の前に間違いなく心に傷を負う。むしろ食べられなくなるのではないか。そんなの甘いと言われても嫌なものは嫌、できないものはできないのだ。

先日はニュースで、釣った魚の口から鉄串を刺して焼く指導をしている年配の男性と自然教室に参加した子供達の様子が映し出された。
「可哀想だから生きているうちは嫌だ」と言う小学生を叱りつけ、男の子は涙を浮かべて魚に「ごめんねごめんね」と謝りながらその口に鉄串を突き入れた。見ていてこれが命に感謝する食育になるのかと複雑な思いに胸が痛んだ。

生きるためにはしかたがないことだ。自然界でも生き物達は食物連鎖の中で残酷なまでに生を維持している。

わかっている。そんなことを言っていられるのは、平和の中で何不自由なく生活できているからだということも。

でも食育などという名目を振りかざして、子供の心につけなくてもよい傷を残さないようにしてあげて欲しい。私のように、食に生き物の痛みを重ねて罪悪感を感じる拗れた大人にならないためにも。


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