実家の居心地の良さを縄文視点で考えてみた。
「あんた年末年始やからって寝すぎとちゃうん」
母親の関西弁が頭に響き、横目で時計をみれば13時。
さすがに寝すぎた。
なぜだが毎年、帰省すると尋常じゃないくらいの眠気に襲われる。
夜更かししているわけでもなく、お酒を飲みすぎているわけでもない。
実家特有の催眠効果がわたしの人体に間違いなく影響している。
縄文時代にハマる前は
「たまたま実家で1年の疲れがでてるだけだ」
「掃除・洗濯・料理しなくていいから怠けているだけだ」
と、何となく理由を自分でつくって納得していた。
しかし、昨年の年末年始は諸事情があり旅館で過ごしたところ全く眠たくなかったのだ。何ならすごく元気だった。旅館の人より先に荷物を部屋へ運んだり、頼まれてもないのに先にご飯をよそったりした。とにかくよく働いた。
年末年始で掃除・洗濯・料理はしなくてよい条件は同じというのに、どうやらわたしの身体は「年末年始」気分ではないようだった。
今年は実家に帰省したのだが、案の定眠くなった。
いつものように和室でゴロゴロしていると目線を感じて見上げた。
曽祖父母、祖父、そして仏、七福神などいまは話せない面々がわたしを見つめていた。
「もしかすると、眠くなるのはこの方々のおかげか……」
旅館になくて実家にあるもの、それは仏壇や神棚。
わたしの敏感なセンサーが「見守られている」ことを感じ、心から安心して寝られているかもしれない。
ちなみに故人を屈葬(くっそう)と呼ばれる方法で埋葬していたとされているのだが、そこもなかなか興味深い。
なぜ生活圏内、しかも道に故人を埋葬していたのか。
「姿かたちがなくなっても魂は見守ってくれている」という死生観があったという1つの説がある。
帰省してまず一番に習慣で仏壇や神棚に挨拶していた。
「目に見えない、存在しないものに挨拶をする」
現代のベクトルに合わせて考えるとおかしな話だ。
幼き頃からの習慣になっているわたしは、恐らく潜在的に「魂」というものを信じている。
魂うんぬんの話をするとスピリチュアだの言われることが多いが、「魂」を信じ、見守ってもらえていることを身体で感じ、熟睡できているのだからプラスしかない。
「見守る」という言葉を使うとき、しばしば親など実在する者を指すことが多いが、必ずしもそうではないかもしれない。
「自分を見守っている人なんていない」と思っている人は、目に見えないものの存在を少し信じてはいかがだろうか。いるかいないかなんて本当のところはわからない。でも、いると思うことで心が軽やかになるんだったら信じてみるのもいいじゃない。
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