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11月22日 夫婦パンは幸せを運んで【今日のものがたり】

 引きずっている。空想の物語なのに、フィクションなのに、私は昨夜読み終えた物語の顛末に打ちのめされて泣きながら寝た。朝起きてもまだ気持ちが残っていてそれに苦笑すらできないくらい引きずっている。それでも今日は出勤日で私はいつものように出社して、パソコンを立ち上げてメールをチェックしている。

 小説は上下巻だった。上巻を読んでいるとき、とある登場人物の行く末に一抹の不安がよぎり、何とか生き延びてほしい、主人公と再び笑い会える日が来ますようにと願った。下巻を読んだ。私の願いは無惨に散った。そうとわかる一文を読んだとき、胸にどんと衝撃がきた。文字だけで吹っ飛ばされるなんて久しぶりだった。

 私を泣かせるため? 彼女が生きていても私は泣いたよ。様々な困難を乗り越えたふたりが再び手を取り合って笑顔で暮らしていく。そういう未来でも私は泣いたし、むしろより良い物語だったって思ったよ。感情移入しすぎたのかな、そうだね、うん、私はこの子が好きだった。思えばだいたい、こういう人物を好きになる。憧れる、と言ってもいいかもしれない。そういう人が物語からいなくなるのが本当につらい。 

 バカだな、フィクションだよ、なにをそこまで落ち込んでいる。どうしようもないことなんだよ。次の物語にいこうよ。現実の世界だってどうしようもないことがたくさんあるのだから。でも……

「ねぇねぇさめさん、今日っていい夫婦の日でね、いい夫婦が作っているパンを食べると幸せになるんだよ」

 ふわっとパンの香ばしいかおりが漂ってきた。いつのまにか所長の伊出いでさんが目の前にいた。

「え、どうしたの、鮫さん。目薬でもさしたの?」
「え? あ……」

 恥ずかしい。あろうことか職場で泣いていた。物語を、あの子の運命を思い出してまた泣いていた。

「な、なんでもないです。で、デトックスです」

 嘘がバレバレなのはわかっていたけど、真実を話すともっと苦しくて悲しくなりそうだったので言えなかった。

「戸村ベーカリーのホワイトチョコクロワッサン! 鮫さんの分も買ったから、はいどうぞ」

 伊出さんはそんな私の嘘を吹き飛ばさん勢いの声とともに笑顔を向けてくれた。

「ありがとうございます」 

 差し出されたのはクロワッサンの表面にホワイトチョコがコーディングされているかわいらしいパンだった。白い色が心を少し浄化させてくれたような気がした。伊出さんが袋から同じパンを取り出して頬張る。おいしそうにもぐもぐしている。

「どうしようもないことってどうしようもないんだけど、こうやっておいしいパンを食べたらちょこっとだけでも気分がやわらぐよね」

 飲もうとしていたお茶をこぼしそうになってしまった。伊出さん、今、どうしようもないことって……。

「鮫さん、読み終えたんでしょ、休憩時間に読んでいた小説」
「は、はい……」
「実は僕も読んだことあるんだよね。そして、今の鮫さんと同じ気持ちになった」
「そう、なんですか……」
「だから、そこから抜け出す方法のひとつを」
「それがこのクロワッサン……」
「戸村ベーカリーの夫婦って見てるとこっちまで幸せになってくるんだよね。そういうふたりが作ったパンを食べるイコール幸せになる。ということで僕たちも幸せ気分になろうじゃないか。そうして次の物語へゴーだ」

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