3月26日 カチューシャをつけた……【今日のものがたり】
私は初仕事で母校の小学校に来ている。
時間は深夜2時。丑三つ時だ。学校には正式な許可を取っているので、この時間でも中に入ることができる。
小学生の頃、真夜中の学校というものに憧れがあった。普段、入ることのできない時間帯。何かが起こりそうなドキドキワクワクする空間。
夏休みに学校に泊まるというイベントがあって、みんなで夜遅くまでおしゃべりして先生に注意されたことを社会人になった今でも覚えている。
音楽室に飾ってある肖像画から音楽家が飛び出してきて夜な夜な演奏を始めたり、トイレに花子さんがいて驚かせるのを待っていたり、理科準備室の人体模型が校内をうろついていたり。
そういう、おとぎ話みたいな世界が、私の職場だ。
もちろん、現実の世界でだ。
日本空間研究所・埼玉第二支所に配属になって一週間。私は研修も兼ねた業務に取りかかっている。
小学生のときから、なにか、どこか不思議だった。たまに、クラスメイトや先生と話がかみ合わなくて、でも、そういうときもあるかと思って、納得させていた。でも、かみ合わないのはどうやら私が見えている世界にあったのだ。
今も、目の前の音楽室から音が聞こえてきている。真夜中の音楽室なのに。
このメロディは知っている。ベートーヴェンの月光だ。弾いているのは……本人かもしれない。
すぐに仕事を始めるべきなのだろう。私はこの扉を開けて、中に入り、この月光を弾いている人物と話をつけねばならない。
しかし、心臓が思った以上に早鐘をうっている。こんなに緊張するなんて思ってもいなかった。どこかで少し、心を落ち着かせたい。時間はまだある。夜明けまでに終わらせられれば大丈夫なのだから。
教室で休む、という手もあったが、緊張でなんとなくトイレにも行きたくなっていたので、トイレで休むことにした。ここから一番近いトイレへ向かう。
真夜中の学校は非常口を知らせる明かりだけで薄暗い。ただ今日は満月に近いから月の光が窓から射し込んでいるところもある。
満月に近い。これは、業務上とても大切な部分で、ベストなのは満月の夜だ。
薄暗いトイレも怖いという感情はない。暗いことを怖いと思わないのは、この仕事をする上でプラスだと――
「きゃああぁぁぁあああ」
「あら、素敵な反応」
油断していた。このところ、トイレでは姿を見ることがなかったから、完全に油断していた。驚いたときのお手本のような叫び声をあげてしまうほどに。
「久しぶりだわ。こんなに素直に驚いてくれた人間は」
「と、トイレの花子さん……!」
ど、どうしよう。めっちゃきれいな花子さんなんですけど……。
黒髪のボブ、白いブラウス、赤いスカート、カチューシャも赤で、よく見たら瞳まで赤く光っている。ように見える。これはこれで、目のやり場に困る。
「あなた、今まで出会った人間のなかで、一番素質があるわ」
花子さんはとてもとても美しい表情でにこりと微笑む。素質とはいったいどんな素質なのだろうか。
「これから仲良くしましょう。まずはこの学校の子供たちが私を見て驚く方法を一緒に考えてほしいの」
トイレの花子さんに話しかけられている私、新入社員の小川舞子(おがわまいこ)。ただいま、初仕事の真っ最中です。
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