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再帰性(4):樋口(2010)の感想

今回の記事では,樋口(2010)を読んだ感想をまとめておきます。

読んだ論文はこちら:
樋口直人(2010):第5章あなたも当事者である—再帰的当事者論の方へ, 〈当事者〉をめぐる社会学—調査での出会いを通して—, 87-103, 北大路書房. 

『〈当事者〉をめぐる社会学—調査での出会いを通して—』は,少し前にオートエスノグラフィー研究を進めていたときに目を通した本でした。
そのときはまだまだ不完全にしか消化できなかったものを,今回はもう少しだけ理解できるのではないかと思って読みます。
タイトルからもわかるように,今回の論文の内容は,再帰性に関わっています。しかし,今回の論文を読んでいくうちに,研究者とはどのような存在なのかということにもかかわってくるように思いました。
これまで再帰性や研究者のアイデンティティに関する記事をいくつか書いてきましたが,その交差点がぼんやりと見えてきた気がします。

概要

この論文は以下の4節から構成されている。

  1. 当事者論をめぐる違和感―問題の所在
    この論文は,従来の当事者論が,「研究者も当事者であり,研究者としての当事者性を引き受けねばならないという,いってみれば当たり前の前提」(p. 87)を覆い隠すことに加担していると指摘するところから始まる。
    研究者-当事者の二分法を採用してきたこれまでの当事者論では,研究者を当事者とは考えていなかったというのである。そこでこの論文では,研究者-対象者という区分と,当事者-非当事者という区分を設定して論を展開していく。

  2. 当事者論をめぐる疑問
    研究者-当事者の区分は,研究者と当事者の非対称性を覆い隠すのだという。その非対称性とは,研究者が自らの関心にしたがってテーマをえらび,研究することができ,さらには,研究をやめることができる一方で,当事者は当人が好むと好まざるとに関わらず当事者であり続けることである。しかし,研究者は,一度研究するという行為に手を染めてしまうと,研究する自己や自己を取り巻く環境から逃げだすことはできない。これはまさに研究対象者が置かれているのと同じ状況に研究者も置かれていることを意味する。「研究者が当事者になる第一歩は,自らが対象者に向けていたのと同じまなざしを,自らが属する世界にも再帰的に向けることから始まる」(p. 89)。
    続いて,研究者-当事者の区分は,研究者の無微性(自らは普遍的基準を体現しており,存在を問われなくてもよいという前提)に帰結すると指摘される。当事者としての研究者は,研究者の有微性にこそ目を向けねばならないというのである。その有微性とは,現在の職業的研究者が飼いならされた新中間層的なハビトゥスを有していることである。
    さらに,再帰性を内側に向けるだけでなく,外側に向けていくことで研究者の当事者性に伴う責任を担うことができると指摘される。すなわち,相手に対する誠実さという心情倫理と,公をふりかざすものとしての責任倫理の両方を引き受けることが研究者として求められることが指摘される。このように,研究者が当事者たる条件として,①研究者の有微性を前提とすること,②(特に)責任倫理を引き受けることの2つが挙げられる。

  3. 日常のフィールド化とフィールドの日常化
    筆者は上記①,②の条件をそれぞれ「日常のフィールド化」と「フィールドの日常化」と表現している。
    ここで「日常のフィールド化」は,グルドナーのいう再帰的社会学に近い意味合いで用いられている。つまり,研究者が退出できない自らの日常をフィールドとし,対象者にするのと同様に分析のメスを入れることを指す。だが,筆者によれば,研究者の日常を批判的にフィールドにするというグルドナーの発想は,学問の再帰性を高めることには意味があるだろうが,有意味な成果の発表という調査本来の目的を発展させる方向を向いておらず,公的な期待に応えるものとはなりにくいのだという。
    そこで必要となるのが「フィールドの日常化」である。これは,「フィールドワークによって獲得した視座によって日常を意識的に見直すこと」(p.93)を指す。対象者の日常を研究者の持つ理論に取り入れることで,そこに存在しながら見えていなかった問題を見出そうとすることになるのだという。
    「日常のフィールド化の例」として,社会学における社会調査士の問題が批判的に取り上げられている。(門外漢の私には,字面を追うのでやっとであったが,教育学における教職大学院への全面的な改編という社会調査士と類似した問題をそこに見た。)そして続けて,社会調査士等の問題に対するささやかな抵抗の技法として,「フィールドの日常化」が挙げられる。ここでは,新宿西口の清掃員についてまったくの視野の外にあった経験が紹介される(ここが結構面白いけど,割愛)。そして,樋口曰く,「フィールドの日常化」を徹底することで,何気ない日常に研究テーマがあふれていることを見出せるのだという。
    (第4項を省略)。

  4. 当事者と出会って当事者になる
    本章で処方箋として提示されたのは,日常のフィールド化とフィールドの日常化という当たり前の実践だった。
    本章の末尾を少し長いが引用する。
    「自己反省と当時に責任倫理を果たすような実践を通してしか,研究者は研究する当事者たりえない。研究という営みは,どのような形であれ世界を対象化し論理的に操作して提示する運命からは逃れられないのである。これは量的調査だろうと質的調査だろうと,研究そのものに不可避的につきまとう。そうした営為に手を染める物として果たすべきは,「ノイズ」の多いフィールドワークを忌避して量的調査の牙城に立てこもることではない。対象者との関係で悩み続け,研究を止めてしまうことでもない。自らを常に対象化し検証に付すことで,当事者性を貫徹させていくしかないのである。」

感想

1.めちゃくちゃ好きなタイトル~

いきなり幼稚な感想ですみません。
実は,樋口(2010)の掲載されている『〈当事者〉をめぐる社会学—調査での出会いを通して—』は,質的心理学研究の書籍である『あなたは当事者ではない』がもとになっているようです。
この経緯を踏まえると,「あなたは当事者ではない」に対する一つのアンサー(皮肉?)として「あなたも当事者である」と喝破する樋口(2010)のタイトルの意味が少し理解できます。

2.私も当事者である

樋口(2010)が指摘していることは,科学教育研究に携わる私にも当てはまることです。すなわち,私も科学教育の当事者なのです。
本論文では,研究者が当事者たる条件として,①研究者の有微性を前提とすること,②(特に)責任倫理を引き受けることの2つが挙げられていましたが,これらを私自身に当てはめなければなりません。

3.日常のフィールド化とフィールド化の日常化

「日常のフィールド化」とは,研究者が退出できない自らの日常をフィールドとし,対象者にするのと同様に分析のメスを入れることを指す言葉でした。
私はここまで再帰性に関する論文を数本読んできましたが,それらはこちらの立場であるように思いました。反省です。
つまり,学問の再帰性を高めることには意味があるだろうが,有意味な成果の発表という調査本来の目的を発展させる方向を向いておらず,公的な期待に応えるものとはなりにくい,ものだということです。
再帰性に関する議論を内側に向いた「みんな,気をつけようね~」の話で終わらせないために,外側に向いた議論について勉強しないといけませんね。

そこで,「フィールドの日常化」,「フィールドワークによって獲得した視座によって日常を意識的に見直すこと」(p.93)を私も考えて実践していきたいと考えます。樋口は「現実には,ほとんどの研究者はフィールドに出続けることによってしか再帰的にはなれない」(p. 98)と言っています。
しかし,私の専門が科学教育だからといって,学校現場に行くことだけがフィールドに赴くことではないと思います。
科学教育と考えれば,その教育事象は学校の内外を問わず広く社会一般で見られると考えるからです。
日常をフィールド化すること,そして,そこで学んだことを日常に返すこと。これらの二つを意識的にやってきたいものです。

4.研究者としてどうありたいのか

本論文を読んで,当事者論を勉強できた!というよりも,研究者としてどのようにありたいのかを別の角度から考えることができました。
(私が質的調査を好む理由について説明する言葉をまたもう一個手に入れた感じでもあります。)

現在,研究者のアイデンティティに関する研究を進めていることもあり,研究者として,どうありたいのか,どう生きていくのかを考える時間が前よりも長くなった気がします。

今のところの私の拙い考えをまとめておくと次のようになるでしょうか。
一人の有微性をもつ科学教育研究者として,
研究対象について問うなかで,それを問う自分や自分を取り巻く環境についても同時に問い続け,それらを責任もって書き続けていきたい。


今回の記事は以上です。恥ずかしい一文で終わる回があってもよいでしょう。この一文をどんどんと更新できるように精進します。
こうして,だらだら,つらつらと書いているnoteにも読者がいるようで嬉しい限りです。ありがとうございます。





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