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36. 小沢健二 春空虹之書(circa 2018) ドアノック•ミュージック

モダニズム文学とは何かをよく知らない。丸谷才一さんが吉田健一について語るとき、話はいつもモダニズムのことになるが、そこに描かれているモダニズム文学という言葉に対しては、ぼんやりとしたイメージしか浮かんでこない。作家や作品をそれぞれモダニズム文学であるかそうでないかは答えられそうな気がするが、じゃあその定義は何なのかははっきりとは言えない。それでも丸谷さんがその言葉に触れるたびに喚起させようとするものや、もしくは自身の作品であらわそうとしていたこと、または吉田健一の多くの著作での論点を踏まえて考えてみると、それは人生讃歌の文学であり、そしてその讃えるべき人生は、過去や現在すべての多くの人々の、それぞれの人生に支えられているというような、根源的な不思議さや喜びを描くものではないかと感じる。
自分にとってそのように訴えかけるものは何だったかと考えると、すぐに小沢健二「LIFE」が浮かんできた。サニーデイサービスから遡ってはっぴいえんど周辺を聴くうちに、ガロ系の漫画も読み出し、それらの作風が自分の生活にも雪崩れ込み、大学生の一時期はずいぶんと暗い雰囲気で過ごしていた。それが細野さんとティンパンアレー、大瀧さんとナイアガラから山下達郎と順に聴くにつれて次第に明るくなっていき、その頂点になったのが「LIFE」という作品だった。
TOKYO FMでの土曜日11時からの番組、スカート澤部渡の「シティポップレイディオ」では、澤部さんやリスナーが思うシティポップをかけていて、その解釈がまちまちで面白い。澤部さん自身もシティポップとは何かという問いに迷いつつ、時にはシティポップとは林哲司であるという暴論を挟みながら、なるほどと感じる選曲をしていく。この番組を聴きながら、自分なりにシティポップとは何だろうかと考えると、それは16ビートの跳ねる音楽に日本語歌詞を乗せて歌う曲ではないかと簡単に考えてしまう。それでも先のモダニズム文学と合わせて考えると、シティポップも人生讃歌の音楽と言っていいかも知れず、それははっぴいえんどから始まり「LIFE」を分水嶺にしてゆっくりと下っていき、それからは自己模倣となっていったように思える。
一時期、「LIFE」から「ある光」までの過程について考えていて、雑誌ロッキンオンのインタビューなども読みながらそうかも知れないと思ったことがあって、それは、96年5月の岡崎京子の事故のことだった。「アルペジオ」でも歌われたように、

電話がかかってくる
それはとてもとても長い夜

というように、小沢健二はその夜を境にすっかり変わってしまったのではないかと思う。だからこそ「LIFE」に続くアルバムを出すと言っていたのにも関わらずシングル曲はアルバムにまとめられず、その代わりに「球体の奏でる音楽」が出て、その後は数枚のシングルを出して、「春にして君を想う」を最後に「Eclectic」まで沈黙し、人前に出るのは2010年5月からのひふみよツアーを待つことになる。そのツアーの会場である中野サンプラザに岡崎京子が車椅子で来場し、「岡崎京子が来ています」とオザケンが声を詰まらせたのは有名な話だが、それから世田谷文学館でのライブ、映画「リバース・エッジ」の主題歌「アルペジオ」、そしてその歌詞に繋がっていき、

春の空気に虹をかけ

と、2018年の5月にツアータイトルとして掲げたことはとても感慨深い。そのときに販売された本がこの「春空虹之書」だ。

思えば、シティポップが日本経済の発展していくなかで、同じように洗練されていき、その期待値を反映するような性格を持ち、また、モダニズム文学も世界経済と連動しながら展開して、そしてそのどちらもが経済破綻や戦争などの暗い影に飲まれていった。丸谷さんが新古今和歌集はモダニズム文学であると言うのには似たような理由があり、それは平安時代の長い繁栄のなかで頂点を極め、そして平家や鎌倉幕府と同じく崩れ去っていったように思える。
つまり、王朝和歌も、モダニズム文学も、シティポップも、社会との間で成り立ち、精神的にも技術的にも迎えた成熟の文化であり、それはある夜を境に散っていったものなのかも知れない。それでもその文化を愛好する人々はいつの時代にもいて、いつか陽の目を見るときが来る。
長く延期になっていた、春の空気に虹をかけの次となるツアーも今年の6月に開催されることになり、最終日にチケットを取ることができた。そのときには96年の5月から二十六年もの月日が経つことになる。ひふみよツアー以来、いつまた人前に姿を見せなくなるのかと思っていたけれど、もう大丈夫そうだと思えてとても嬉しい。

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