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朝井リョウ『正欲』を深読みする

東京、大阪、兵庫、京都に発令されている緊急事態宣言が5月31日まで延長される方針との事です。
昨年に続き、今年もどこにも行けないGWでしたが、最近すごく話題になっている朝井リョウの新刊『正欲』を読了し、面白い本だと思ったので簡単に紹介と感想程度ですが何か書きたいと思いました。
以下、ネタバレあります。

朝井リョウ作家生活10周年に放たれる本作は、朝井リョウ本人も「小説家としても一人の人間としても、明らかに大きなターニングポイントとなる作品です」と発言するほど、いわば意欲作なのだと思います。
発売当初から、そして現在も、書店の平台にはこの群青色の表紙本が文字通りおびただしい群れをなして積まれています。ダヴィンチニュースでも「絶対に外さない今月のプラチナ本(5月)」にも選ばれたそうで、大変話題になっているようですね。

まず目を引くのが『正欲』という聞いたことないけど印象的なタイトル。
これ、「性欲」と掛けている言葉ですが、実は作中には一度も使われない言葉なのです。それなのに、読後には、この「正欲」という二文字が鮮やかに心に浮かび上がり、そのまま心に深く刻まれることになります。

内容は、いわゆる「特殊性癖」を持つ複数の登場人物と、彼らを取り巻く“普通”の人々、そしてその“普通”の人々が作り上げていく社会のルールと、無邪気に掲げる“多様性の尊重”によって、歪んでいく世界と人間模様を描いたものです。
近年、LGBTQという言葉が人口に膾炙し、異性愛以外のさまざまな「性」を認めようという社会の風潮があります。さまざまな「性」を認めることが多様性を尊重に繋がる、というわけですね。
しかし、マイノリティを認めようという社会の動きはマイノリティの中のマジョリティだけを救済することにつながっており、マイノリティの中のマイノリティは常に排除されているのではないか?
この事について、本作は様々な問いを投げかけています。

「多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。既に言葉を与えられているものが世の中の全てだと考えてしまうおめでたさ。想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちが良く使う言葉です(本作からの引用を一部改編)」
“多様性”とは使い勝手のよい言葉ではなく、自分の想像力の限界を突きつけられる言葉である、と。“多様性”とは時に吐き気を催すほど想像を絶する存在が、自分のすぐ傍で呼吸をしていることを知る言葉である、と。

たとえば、作中で少しだけ触れられている特殊性癖を以下に紹介しておこうと思います。

・ペドフィリア(小児性愛):思春期以前あるいは思春期早期の子供に対して性的興奮を感じる嗜好
・バルーン・フェティシズム(風船性愛):風船の膨張や弾力、破裂等に対して性的興奮を感じる嗜好
・ボラレフィリア(丸のみ性愛):生物が他の生物に丸のみされる様子に性的興奮を感じる嗜好
・マミフィケーション:緊縛、ぐるぐる巻きの様に性的興奮を感じる嗜好
・シンフォフィリア(自然災害性愛):山火事や大震災など、大規模自然災害に性的興奮を感じる嗜好

ただし、これらも朝井リョウから言わせれば、すでに名前が与えられているものなのだと思います。本作では「水の動き」に性愛を感じる人物が主人公となっていますが、さくっとググってみただけでは、この嗜好に名前が与えられているのか、はたまた現実にこのような性的嗜好を持つ人がどのくらいいるのかという事までは分かりませんでした。すでに広く周知された性愛を本作のテーマに使いたくなかったのかもしれませんね。

私も、LGBTQという言葉が多様されるようになった頃から、この言葉を声高に使うのはなんか嫌だなぁという気持ちがしていました。
その言葉の裏には、響きの良い名前を付けることで世界のすべてを分ったかのように振る舞う人々の顔がどうしても浮かんでしまうし、さらには「マジョリティである私達がマイノリティであるあなたたちを理解してあげよう」という傲慢さのようなものを感じ取ってしまうのです。

私自身の話で恐縮ですが、私は昔から人を理解しようとせずに生きてきたし、究極のところ他人は自分の事を理解できないし、自分は他人のことを理解できないと思っています。他人に「こうしたほうがいい」と助言したこともほぼありません。なので、周りの人からは「他人に興味がない」と思われてしまっています。ちなみに、他人に興味がないわけではありませんし、むしろ興味は多いにあります。でもそれは理解するではなく、どちらかというと「知る」ということに近い気がします。そこに理解できるとか理解できないとかないなぁと思っています。
だから、逆に、勝手に人の事を理解しようとした挙句、「あなたのこの部分が今一つ理解できない」と言って説明を求めてくる人がとても苦手です。あなたが知っている公式や化学式だけが世界のすべてではない、と言いたくなります。

そして、本書は最終的に、新時代「令和」へと突入し、互いに「繋がる」事で自分達と世界をつなぎとめることができた登場人物達。それを取り巻く異性愛者達も自分達の理解を超えたところにある身近な存在に気づき始めます。人々の意識が変わり始める一方で、テクノロジーの進化によって監視体制が強化され、「ペドフィリア」という既知の枠組みによって逮捕される登場人物達、、
ハッピーエンドともバッドエンドとも取れる終わり方には、浅井リョウが敢えてこういう終わり方にしたかったのだなぁという意思を感じました。

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