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なぜ憎い人と結婚するのか? 〜芥川賞『おいしいごはんが食べられますように』から考える〜

高瀬隼子さんの小説『おいしいごはんが食べられますように』が第167回芥川賞を受賞しました。
書店には平積みで置かれていて、私もさっそく手に取り読んでみたら、ふんわりしたタイトルからは想像つかないほど不穏な人間模様を描いた作品で、奥が深く、とても面白かったです。
そこで今日は、この本を自分なりに考察してみようと思います。
解釈は人それぞれだと思いますし自分の解釈が必ず正しいとは思いませんが、ご興味のままに受け取っていただけると幸いです。いつも通りネタバレありますのでご注意くださいね。

まずは、あらすじを簡単に。

職場でそこそこ上手くやっている二谷(男性)。
二谷さんの一つ年上だけど、かよわくて皆から守られる存在の芦川さん(女性)。
二谷さんの後輩で、頑張り屋で仕事もできる押尾さん(女性)。

しんどそうな仕事を避け、体調不良を理由にすぐ帰ってしまい、それでも皆から「守るべき存在」と配慮されている芦川さんに対して不満を募らせる押尾さん。同じように芦川さんの仕事ぶりを軽蔑している二谷ではあるが、それと同時に二谷は彼女の弱々しさに惹かれ、やがて二人は付き合うことに。
しかし、「食べること」に疎ましさを感じている二谷は、毎週のように家に来て「ちゃんとした食事」を作ってくれる彼女の食に対する考え方に苛立ちを隠せない。
ある日、芦川さんが持ってきた手作りのスイーツが職場で好評になり、それ以降、芦川さんは頻繁に手作りスイーツを持ってくる。しかし二谷は夜な夜なそのスイーツを踏み潰して捨てるのである。
愛憎入り混じる職場の人間関係、その一つの時代が終わりを告げる時、二谷は芦川さんの作ったケーキを頬張りながら、マズさで吐き出しそうになる気持ちの中で、彼女との将来を心に決めるのである。

なぜ二谷は芦川さんと付き合い、結婚するのか?

これは、読み終えた後、誰もが抱く疑問なんじゃないかと思います。

・二谷さんって、芦川さんの仕事の出来なさを軽蔑してるんじゃないの?
・二谷さんって、生きるために食べなければならないことが腹立たしいほど、食を追求する人を憎んでるんじゃないの?
・ケーキ踏み潰しといて好きってどういう感情?
といったところです。

結論から言うと、私は、二谷の感情の中に「憎しみと愛情が混在した、自己肯定の一過程」を見ることができると考えています。
まず、彼の生き方の土台を形成している価値観について、彼の大学時代のエピソードから読み取ることができます。

<大学時代のエピソード要約>
●本当は文学部に行きたかったけど就職のことを考えて経済学部を選んだ
●当時付き合ってた彼女が、小説とか全然読まないけど文学部に入って、文学史とか文学論とかの本が増えていって、小説もそのうち増えていって、ベッドの簡易本棚で収まらなくなって床にタワーみたいに本が積まれるようになった頃、やっぱり俺は文学部に行けばよかったなって思って、そうなると彼女の事も嫌いになって別れた(今から考えるとあれは自分の事が嫌いになったんだと振り返る)
●今でも文学部出身の人が同じ会社にいたりすると心穏やかでいられない

 要するに、好きなことだけを追求するのではなく、常に周りを見てうまく生きていけるほうの選択をしてきた自分がいるのに、一方で好きなことだけで生きてきた人が身近にいるということに、彼は納得がいかない。まるで、自己否定されている気持ちになるのです。
ここから二谷には「自分の生き方を肯定したい、間違っていなかったと言いたい」と言う気持ちがトラウマのような強さで根付いていることがわかります。
そして、個人的にとても描写が秀逸だなと思ったのが、元彼女とのセックスのエピソード。ベッドの枕元にある簡易本棚の本に自分の汗が飛んで、そこに汗が付着したことを知っているのは自分だけなんだなぁと思いを馳せるところに、好きなことを追求する彼女を自分が征服するという「自己肯定」が潜んでいて、やがて本が増えてタワーのように積まれるところに「敗北」のメタファーがあるように思えます。

愛情と憎しみは本質的に同じである

次に少し話を変えて、愛情と憎しみが同質であるということに触れておきます。
20世紀のフランスの哲学者サルトルは、『存在と無』のなかで「愛とは愛されたいと望むことである」と述べています。
(ただし、無償の愛や自己犠牲の愛というものも存在すると思うので、ここでいう「愛」とは「あの人のことが好きでたまらない、人生を共にしたい」といったような、情熱的な側面の強い愛を指しているのだと個人的には思います。)
詰まるところ、サルトルは「愛とは自己愛である」と言っているのです。

そして、同じことが人を憎んでいる場合にも当てはまります。憎しみとは「相手の中の自分にとって不都合な部分を直してほしい、どうにかしてほしい」と願うことであり、それは自分にとって都合の良い状態を望むこと、すなわち自己愛なのです。
また、デカルトも「憎しみと愛は裏表であり、もともと同じものである」と言っています。相手に対して強い感情を抱くという点や相手の存在が心の大きな部分を占めているという点を見ても、愛情と憎しみは同質であるということなのかもしれません。

ここから、愛情と憎しみがいずれも自己愛(=自己肯定)を目指すものだと言えます。 

憎い芦川さんを自分のものにすること

押尾さんは芦川さんを「嫌いだ」とはっきり述べています。しかし二谷の場合は、「嫌い」と書かれている箇所はなく、嫌っているのではなく憎んでいるのだと考えることができます。
前述したとおり、愛憎がいずれも自己愛を目指すものだとしても、おそらくほとんどの人の「他者を通した自己愛」の追求の方法は、人を愛することだと思います。人を愛し、その人から愛されるというのが多くの人が経験する自己肯定の過程です。
しかし、二谷の場合は、過去のトラウマが影響していて、自分と同質の「周りを見てうまく生きてきた人」からの愛では、自己愛や自己肯定を実現できなくなっているのだと推測できます。
そのため、一度は否定し、そして敗北をしたことのある「好きなことを追求して生きてきた人」、すなわち憎むべき人からの愛を以て、現在の自己を肯定しようとしています。
一方で、憎むことで自己愛を追求しようとするなら、二谷は芦川さんに生き方を正してもらうことが二谷の自己愛に繋がるのではないかという気もします。私は、ここが二谷の感情の複雑な部分だと思っていて、二谷は「好きなことを追求して生きていた人」を憎むと同時に、憧れを抱いています。そして、その存在を否定することは自己の憧れを否定することに繋がってしまうのです。
したがって、憧れの存在と、現在の自分の生き方を肯定したいという二つの感情の間に揺れる中で、芦川さんという存在を「自分のもの」にすることで、そのバランスを取ろうとしているようにも見えるのです。
これが二谷の「愛情と憎しみの混在した、自己肯定の一過程」なのだと考えます。

以上は、二谷を視点にした自己愛の追求であるが、本作に登場する芦川さんや押尾さんの視点で、それぞれの立場から自己愛の追求の過程が見える気がして、それも面白い読み方だなと思いました。

「食べること」とは、自己でないものを自己に取り込み、自己を維持する活動であると定義することもできます。本作は「食べること」をテーマに、それぞれの自己愛の維持を書いた素晴らしい作品だと思います。

最後に

この物語に共感できるかどうか、多くの人の感想を聞いてみたいところですが、個人的には「ありそうな、人間関係のままならなさ(ままならなさ、という表現は本帯の文章から拝借しました)」を感じました。
私自身の経験に照らすとなかなか事例が浮かばないのですが、以前、評論家の岡田斗司夫さんのゼミで、とある視聴者から「非常によくしてくれて、育ててくれたはずの親がなぜか憎いです。私はおかしいんでしょうか?」という相談が寄せられていました。人間関係の中に潜む愛憎の謎に悩んでいる人は多いのではないかなと思います。

「愛憎は本質的に同じ」と昔からよく言われる言葉ですが、まだまだ腑に落ちないこの感覚を、本書は日常的なテーマの中で生き生きと表現されていると感じます。読んだ直後、思わず「面白い!」と声が出てしまいました。

本日は以上です。

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