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人生の後悔と世界線。『30年目の待ち合わせ』を深読みする

今回は、人はなぜ後悔という感情を持つのか?後悔に対してどのように向き合えばいいのか?そんなことを考えてみたいと思います。

先日、早川書房の2021年新刊、フランス作家エリオット・アベカシスの『30年目の待ち合わせ』(訳:齋藤可津子)を読了しました。
いやぁ、これは・・。切なすぎて心が締め付けられるストーリーでした。以下、ネタバレあります。まずは本の公式紹介文を引用。

1980年代末、パリ、カルティエ・ラタン。
アメリとヴァンサンは20歳。
本の趣味が合って、ずっと話していられた。
当然、恋に落ちた。
だが、待ち合わせの日、2人はすれ違ってしまう。
再会は10年後、ヴァンサンは結婚していた。
やがてアメリも家庭を築くが、
人生を間違えたのではないかという思いは消えず、
20歳の記憶は輝きを増していく。
そんな彼女のまえにまた彼が現れるが――。
エッフェル塔、セーヌ河、シャンゼリゼ……
パリのあちこちで描かれる、離別と再会。
世界的ベストセラー作家による
大人のラブストーリー。

もう紹介文だけで切なさが込み上げてきますねぇ。
パリを舞台とするフランス文学特有の、“もうそこにはない人や空間に対する寂寥感”が余すところなく表現された良作だと思いました。移ろいゆく人々の運命と対比し、パリという町があくまで冷淡で客観的な視点として描かれているのも面白いです。

アメリとヴァンサンは、互いに惹かれながらもすれ違い、結果的に結ばれることはなく、10年後に再会したときには2人は既に別々の道を歩んでいます。しかしお互いを想う気持ちは薄れず、そこで2人は「人生の後悔」を知ることになります。

本書でも書かれているとおり、人生は時として出会いや愛とは関係なく、ままならない宿命によってどうしようもなく押し流されてゆくものなのかもしれません。ちょっとした遠慮、不運、不注意によって簡単にすれ違い、そのちょっとした人生の分岐点はその先の20年、30年と続く長い廊下への扉のようなものなので、一度進んでしまったらもう別の扉を開くことはできないでしょう。そして、本当は愛していない人と結婚したり、子供を作ったりして「後悔」をそっと心の中にしまって生きていく。恋愛に限らず人生はかくも冷淡なものなのだと思います。

人は誰しも多かれ少なかれ、人生における後悔というものを持っているのではないでしょうか。人がなぜ後悔という感情を持つのか?後悔に対してどのように向き合えばいいのか?という問いは非常に難しい問題だと思います。

ところで、後悔とは、
「もしもあの時○○だったら(○○していたら)」
あるいは
「もしもあの時○○じゃなかったら(○○していなかったら)」
といった、特定の事象や行動の欠如あるいは、特定の事象や行動の実行に対する悔いなのですが、そこには、
「今頃は○○なはずだった」
という現実とは異なる世界線(最近、世界線という言葉が巷でよく使われるようになりましたね。余談です。)が内的に存在していて、その世界線に対する羨望のような感情が存在していると思います。これが後悔の本質なのかもしれませんね。

もちろんそのような世界線を想像することは決して建設的な発想だとは言えないのですが、一方で物理学の世界では「パラレルワールド」といって、世界が常に分岐を繰り返してすべての世界は平等に存在するという考え方もあります。自分の後悔の原因となっている分岐点において、自分がいま見ている世界線とは異なる分岐をした世界線がどこかに存在していて、そっちの世界では別の自分が楽しく暮らしている、という考え方がある種の心の安寧をもたらし得ることもあるでしょう。私自身、パラレルワールドを信じてはいませんが、ある種の信仰的な発想でそのような気持ちを持つことがあるからです。

さて、もう少し突き詰めて考えてみたいです。
後悔を感じる分岐点となりえるのは、
「起こりそう(起こせそう)だったが、起こらなかったこと(起こさなかったこと)」
または、「起こらないこともできたが(起こさなくてもよかったが)、起きてしまったこと」
だと考えることができ、それらはいずれも現実とは逆のパターンが容易に想定できた場合です。一方で、まったく起こる気配もなかったし起こせそうもなかったことや、まったく起こさない事なんてできなかったし当然のように起きたことに対して後悔をする人はあまりいません。

しかし、現実には予想もしなかったことが起こったり、予想していたことが起こらなかったりという事はよくあります。
特に前者に対しては、それが起こらなかった場合には人は気づくことすら出来ません。
たとえば、あなたは過去のどこかで、今は知らない(そしてこれからも永久に知り合うことのない)人と知り合いになっていたかもしれません。あなたは過去のどこかで、街を歩いている時に芸能事務所にスカウトされ芸能人になっていたかもしれません。
このような事はどうやっても起こらなかったかもしれないし、起こったかもしれません。いずれにしても、これらの事は後悔のしようすらないと思います。

このように考えると、私達の人生は計り知れない無数の可能性の中からたった一つの人生を歩んでいて、そのほとんどの可能性は想像すらもできないという事が分かります。今いる世界に存在しているものは別の世界線(また、この言葉を使います、笑)では、存在すらしなかったかもしれません。なんとなく、いま自分を取り巻く人や環境に感謝したくなってきます。
後悔を感じることのできる対象はほんのわずかな部分だけで、それよりもはるかに巨大で膨大な可能性が私達を包んでいて、それらがもっと大きな範囲で私達の人生を決めていると考えることができます。

可能性の宇宙空間の中で、現実が位置するたった一つの点は、もはや絶対的な座標軸を持たず、どの点であれ宇宙空間の中心と言えるのです。したがって、現実に今いる世界をゼロ地点とみなし、未来へと進んでいくという考え方は、後悔との一つの向き合い方ではないかと思っています。実際、私自身はこのような考え方をたまにします。かと言って、後悔の感情的な部分を常に完全にコントロールできているわけではありません。小さな後悔も常にしています。
※やや概念的な話になったのと、私の文章の拙さでわかりづらくなりすみませんでした。

『30年目の待ち合わせ』の訳者である齋藤可津子さんのあとがきに、古ギリシャの時間概念をあらわす「クロノス」と「カイロス」の話が出てきます。
クロノスが客観的な時間軸をあらわすのに対してカイロスは時機(機会、チャンス)を意味します。ギリシャ神話では時機を神格化した男性神カイロスとして存在していますが、前髪しかなく高速でやってきて去っていくものだそうです。自分のところに来たと思ったときには既に去ろうとしているところで、捕まえようとしても前髪しかないから捕まえられない、まさに時機の本質だと言えます。

『30年目の待ち合わせ』のアメリとヴァンサンは、さらに30年後、もう一度再会をし、そのあとどうなるかは書かれていません。30年前とは違うそれぞれの立場で、到来する「時機」も30年前のそれとは様相が異なっていることでしょう。結ばれるかもしれないし結ばれないかもしれない。さらには、どちらに転べば「時機を捉えた」と言えるのかすらも、今の2人には分からない。時機とはそういうものなのだなと思います。

「人間万事 塞翁(さいおう)が馬(うま)」という言葉があります。どんなに悪いことも将来的に見れば良いことに繋がるきっかけかもしれない、という中国の古事から来ている言葉です。時機を逃したと思っても、その世界線の先に、また別の形で時機がやってくるかもしれない。
そう考えるとやはり今がゼロ地点という考え方を持ち、未来の時機を捕まえることに専念したいなと思いました。

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