【掌編小説】「通勤・通学中に電車の中でつぶやくだけ」の仕事

「通勤・通学中に電車の中でつぶやくだけ」

と書かれていたので、SNSなどで何か情報を書き込んで発信する仕事なのかと思っていたら、まるで違っていた。その逆だと言ってもよかった。

雇用主は初老の男で、自分はもうすぐ病気で死ぬのだと言っていた。

その仕事が簡単なのか難しいのかは今でもわからないし、割に合っているのかどうかもわからない。

ともかく僕はその男に言われた通り、電車の窓から外を眺めて「ああ、今日は空がきれいだ」とか「今日は満月だね」とか、とにかく見えた景色について声に出してつぶやいた。男は完全に僕を信用しているのか、実際に僕が仕事をしているかどうかチェックしたりはしなかった。だから、つぶやかない日もあったが、それでもその日の分までちゃんとお金が振り込まれていたので、なんだかサボっては悪い気がしてきて、それからは毎日何かつぶやくことにしていた。

電車の中ではイヤホンをしている人も多く、僕の声がどのくらいの人の耳に届いているのかはわからなかった。それでも「ツツジが綺麗に咲いているねえ」などと誰にともなく言ってみると顔をあげて外を見る人も少しはいた。それが年を召した人ではなく、スマホに夢中になっている学生なんかだったりすると、一層仕事をしたような気になった。

雇用主の男がそれを自分でやらず、どうしてわざわざお金を払って人に頼んだのかはよくわからないが、そんなことはどうだって良いような気もした。そのうち男が病気で死んだのか、お金は振り込まれなくなったがそれでも構わないように思えてきて、僕は今でも毎日窓の外を眺めては何かつぶやくことにしている。そして僕がもう少し歳をとったらやはり誰かを雇って同じ仕事を頼もうと密かに考えている。

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