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演技を学問し実践する短期コミュニティ「ソマティック映像演技研究コモンズ」第二期 参加者募集

 この度、「ソマティック映像演技研究コモンズ」第二期の参加者を募集します。役者だけでなく演出家・プロデューサー・脚本家・その他技術職の方など、映画制作やコモンズに関心のある方は是非ご検討ください。
 週一回のワークショップを活動の中心としながら集まったメンバーの特性を元に映画制作の新しい可能性について考え実践していきます。
 以下、「ソマティック映像演技研究コモンズ」について説明していきます。
※去年の活動の様子はXのアカウント(https://twitter.com/S_A_Commons)からご覧いただけます。


第一期ワークショップより

〈“ソマティック映像演技”とは〉
 「ソマティック」とは“身体の”という意味です。演技は、人間の心を扱う芸術ですが、長い間、身体と心のつながりは見落とされてきました。現代の快適な生活様式は人間の身体が本来持つ能力を潜在化させる傾向にありますが、あらゆる感覚は身体を通して行われるものですから、必然的に感覚までが鈍くなっていくことになります。特に都市の生活環境は人間の感受性を担う脳の部位に負の影響があることがわかっており、自然の少ない都市で暮らす私たちの感受性は昔の人のものと比べると劣化していると言わざるを得ません。そのことは、ネット空間がコミュニケーションの場の中心となりつつある現代、他者との共感がますます難しくなってきているという事実からもわかります。
 共感とはまず身体レベルで起こるものであり、身体性を無視したところに真の共感や友好関係を期待するのは難しいのではないでしょうか。これらのことから、今身体性の復権というのが非常に今日的なテーマとして重要性を帯びていると考えております。日常の中で身体性が軽視される一方、科学の目覚ましい発達により、身体と心の関係については以前よりもわかることはずっと多くなってきました。

 特に21世紀になってからは、内臓感覚が感情に及ぼす影響の大きさや、自律神経の心理学的な働きがはっきりとしてきました。このワークショップでは特に、内臓感覚に焦点を当てることで言語を介さずに感情にアプローチする方法を実践します。また、現存する世界最古の芸能の一つである能の身体技法を参照することで、日本の演技の独自性に迫っていきます。能の大成者・世阿弥の残した演技理論は今日的な観点から見ても非常に合理性があり、それを現代の映像演技にアレンジして適用することができます。650年以上かけて磨き上げられてきた能の身体技法の中には観る者を深い感覚に誘う仕掛けがあります。
 それを理論的に裏付けることを通して、各自の持つ感覚を各自が技術化できるようにしていきます。
 具体的には下記のリンク先の「演技と身体」の記事にある演技論を実践していきますので、是非少しだけでも読んでみてください。
 演技と身体 https://note.com/koheitakayama/m/m0a4e7cd5ea61

〈“コモンズ”とは〉
 ここでは「知識や技能を提供し合う場」くらいの意味で使っています。具体的には、人々が金銭的なやり取りなしにゆるく繋がるプロジェクトベースの短期(6ヶ月くらい)コミュニティを構想しています。元々は人々が共同で所有・管理する土地を指す言葉ですが、近年はより広い意味で使われるようになりました。
 東京は、隅々まで資本主義が行き渡っていて、お金を払わなければ教育やサービスがほとんど受けられないばかりか、クリエイティブな活動でさえ続けていくのにとてもお金がかかります。そんな貨幣経済で埋め尽くされた空間に少し穴があってもいいんじゃないか、と僕は思いました。資本主義というのはよくできたシステムではあるものの、肥大化を止めることができず成長し続けなければシステムを維持できないという欠陥もあります。そして現代はその肥大し切ったシステムを維持することだけが目的化し、芸術やエンタメもまたいかにお金を作り出すかという点に存在意義が矮小化してしまっている面があります。そのような流れの中では、失敗が許されず、失敗が許されなければ遊び心は萎縮していきます。
 しかし芸術は遊びとは決して切り離せないものなのです。新しいものは遊びや失敗の中からしか生まれません。なぜなら“新しい”とはすでに認められている価値観の外にあることを意味するからです。くだらないことや無駄なことや難しいことやちょっとした思いつきを試せる場が芸術には必要であり、それに当たって資本主義的な貨幣経済のシステムを介する必要はないのです。
 また、技術や知識はただ持っていても意味がなく、使わなければ仕方ありません。僕は演技について自分で体系化した方法論があり、演出の経験値もありますが、他方で苦手なこともたくさんあります。そうやって集まった人で何ができるか、それを遊ぶ場としてのコモンズを提案したいと思います。
 したがって、どのようなコミュニティになるかは、集まった参加者の特性によって変わります。製作費をマネタイズすることもできるかもしれないし、あるいはほとんどお金をかけずに製作ができるかもしれないし、広く活動を発信できるかもしれないし、ひっそり黙々と修練に励むかもしれないし。
 ただし全く方向性がなければ集まりようもないので、方針として「贈与・ゆるい繋がり・身体論・公開性」の4つを挙げておきます。



①交換から贈与へ
 従来の市場原理では物・技能・知識・お金などあらゆるものが交換されますが、ここではそれぞれが技能や知識を贈与し合う仕組みを採用します。それぞれが提供できるものを提供できる範囲内で持ち寄ることで、サスティナブルなコミュニティ運営を目指します。(即座に持ち寄れるものがなくても参加できます。)
 贈与には通常返礼が伴うため、結局は等価交換に堕したり、相手に負債感覚を与えてしまったりしがちですが、ここではみんなで同じ畑を耕すようなイメージで、つまり「場」に対して贈与をするのであり、相手に返礼を期待するものではありません。返礼もペイバックに限らずペイフォワードや時間差を置いたものなど多様であって良いと思います。交換原理では、必要なものを必要な分しか用意しない(さもなければ在庫になってします)ですが、贈与とは相手への振舞ですから、初めから余剰で無駄なものなのです。そして豊かさとは本来そうした無駄や余剰を指すものなのです。貨幣経済によらずに贈与の中にある豊かさを発見することがコモンズの目的の一つなのです。手始めに僕が持っている知識・技能を演技ワークショップという形で提供する所から始め、映画製作から作品の発信までを見通しています。

②組織からネットワークへ
 強固な組織ではなく、ゆるい繋がりによるコミュニティを形成していきたいです。できるだけ強制をせず、関わり方も距離感も人それぞれで良いと思っています。コミュニティとしての明確な境界線にこだわり過ぎず、派生的な繋がりを大切にし、「開き過ぎず閉じ過ぎない」コミュニティになればいいなと思います。
 ところがこの“ゆるさ”を維持するのはとても難しいのです。なぜならゆるい相互の繋がりというのは実はすごく複雑だからです。組織体系というのは上からのトップダウンが下まで直線的に行き届く単純なシステムです。私たちはこうした組織体系的なものに慣れ切ってしまっています。単純な力関係に依存した振る舞いはパターン化するのでとてもわかりやすいのです。しかしゆるく相互に発信し合うためには都度相手のことを考慮しなければいけないですし、工夫や想像力、時に勇気が求められます。
 ですが、こうした複雑で相互的な主体は常に予想外へと開かれています。感動はいつだって思ってもみなかったところからやってくるのです。そのために従来的な組織のあり方を脱構築し、組織からネットワークへ、因果から縁起へとシフトしていく必要があるのではないかと思います。

③精神論から身体論へ
 とはいえ、でたらめに集まっても仕方がないので、「ソマティック映像演技」を一つの柱としてその下にわらわらと集まりたいと思います。「ソマティック」という語は“身体の”という意味です。
 20世紀の演技論は、人間の精神的な部分に比重を置いたものでしたが、そこには精神と身体を分離して考えてきた近代の誤謬があります。今となっては心を身体抜きで考えることはできず、長い間見落とされてきた身体と心の繋がりを見つめ直すことから21世紀の演技論は始まると思っています。解剖学や哲学の知見を背景に、能の身体技法なども参照しながら、一つの“学”として演技を実践していきます。

④独占から公開へ
 今日のような競争社会では、知識や技能を独占することが成功のための基本的な条件となってしまっています。しかし、世阿弥が『風姿花伝』で“稽古は強かれ、諍識はなかれ”と書いているようにやたらな競争心や独占心は芸を阻害するものです。このコモンズでは、可能な限り内容や活動をオープンにして、より多くの人との“ゆるい繋がり”に発展する余地を担保しようと思います。また、ここで発見された知見や技術を出し惜しみせずに公開することで、芸術全体に貢献し、より多くの人に学びの機会を提供できることを望みます。


第一期ワークショップより

〈ステートメント〉
 2023年の初め、時代の流れの潮目に私たちはいるのだと感じ、コモンズというものを実践してみようと思ってこのコミュニティを立ち上げました。2023年は国内のニュースだけを見ても古い価値観に支えられていた権威が次々と失墜していった一年だったと思います。今、私たちは時代の流れの潮目にいるという想いはますます強くなります。しかし、時代が変わるというのは私たちが想像するほど簡単なものではなく、古い時代と新しい時代の間には血生臭い混乱や混沌があります。世界に目を向ければ、目も当てられないような非人道的な虐殺行為や戦争行為が日々行われており、収束の見通しは見えません。2024年も元日から災害や事故に見舞われ、このような世界の中で自分は一体何をすべきなのか、何ができるのかと思い悩むこともあります。
 私たちは世界に働きかけて世界を動かすにはあまりに小さく無力です。だからといって、自分の生活にばかり眼目を置いて暮らしていて良いのでしょうか。結論から言えば、良いのです。というか見方によってはそれが唯一世界を変えていくための手段とも言えます。(もちろん答えのない問いですから「見方によっては」という部分は強調しておきます。)
 例えば曹洞宗の開祖・道元の言葉によれば、自分一人の坐禅というものが意識せずともあらゆる存在を仏化せしめるのだといいます。だから坐禅とは「自己を習う」ことなのだと。この言葉に則れば、私たちはただ自己の修練を自分自身のために続けるほかないのだということになります。そしてそれが世界のためになるのだということになります。
 こうした言い方はややもすれば自己中心的な詭弁にも聞こえます。しかし、道元は続けて「自己を習う」とは「自己を忘れる」ことだと言います。この言葉の奥深さは簡単に説明することができませんが、自己を極めるということは偏狭な自己に対する執着を捨てるということです。そもそも一体どこからどこまでを「私」とするのか、明確に決定することはできません。私の体内には無数の細菌が住んでおり、私の考えだと思っていることのほとんどは他者から教えられ刷り込まれたものです。ですから、「自己」というものを必ずしも自分の体一個分、自分の部屋一個分と小さく狭く捉える必要もないのです。むしろ、こうした矮小な自己同士の関わりが競争へと方向づけられた時に、奪い合いや騙し合い、暴力が起こるのだと思います。
 繰り返しになりますが、自己と他者の境界は思っているよりも曖昧です。矮小な自己へのこだわりを捨てて他者や世界との共感的な自己を確立する過程において、自己のための修練は自然と他者へと浸透し、自分を超えたあらゆる存在に利益します。
 そのように他者との相互浸透を通じて自己のための修練が世界中に浸透していくことになります。それは途方もない時間のかかることかもしれませんが、それでも私たち一人ひとりが確実に世界を変える力を持っているのだということでもあります。
 去年、コモンズでの活動を通して実感したのはそのような相互浸透の力でした。みんなが自分の主張へのこだわりを捨てて集まることで、自分も変わっていくし相手も変化していく。このコモンズの活動の持つポテンシャルは僕自身全く予測ができないものです。なぜなら、まず僕自身がどのように変化するかがわからないし、参加した人たちがどう変わっていくかも予測ができないからです。それでも何かが起こっていくのは確かな気がします。長い時間がかかるかもしれませんが、世界を変えていくのは確かな気がします。ここには新しい豊かさ、あるいは現代人が失ってしまった豊かさがあると感じます。
 単にワークショップというより、コモンズと名乗るのは、現代においてこうした、人が集まる場の重要性を強調したいからでもあります。コロナ禍を経てリモート化が進み、人がわざわざ集まることの非効率性が浮き彫りになりました。ですが、僕は逆に非効率性にこだわりたいと思っています。無駄で非効率的な場、それが僕の目標とする場です。新しいものは無駄なもののブリコラージュから生まれるのです。
 生成A Iが発達する今日、芸術の立場も変わっていかざるを得ないでしょう。俳優の仕事や演出家・脚本家の仕事がA Iに取って代わられるというそれこそ映画のような話が現実味を帯び始めています。そうなれば、俳優の仕事は不要なものとなるのでしょうか。映画というものが、単なるエンターテインメントとして消費対象でしかないのであれば、役者はA Iで十分かもしれません。しかし、A Iに心からの感動を引き出すような演技を再現できるのかは大いに疑問です。世阿弥は芸位の最高位を“妙花風”と名づけ、言葉にできない感動と説明しています。最高の感動というのは論理や因果を超えるのです。ですが、だからといってデタラメというわけでもありません。そこには構造化された無意識の働きがあるのです。ではA Iに人間の無意識が再現できるでしょうか。
 演技は人間の無意識の領域のダイナミズムを最もよく表現できる芸術の一つだと思います。なぜなら演技は設計された言葉や動きを基にしつつも、そこから漏れ出るものが必ずあるからです。A Iの発達に伴い、「人間とは何か」という問いに人類一人ひとりが向き合わなければ自分の存在意義を支えられなくなる時がくるかもしれません。演技は人間の無意識や心の学として、これまで以上にその重要性を増していくと考えられます。そして、無意識のような複雑で不可解なものを学ぶには非効率性が欠かせないのです。
 演技を単なる自己表現、売れるための方便と考えるのは非常に狭い考えです。演技は人間を学ぶ学問として捉え直されるべきだと思います。
 そして、そのような学問の場として、資本主義の論理とはできるだけ距離を置くべく、コモンズという形を採りました。(もちろん、映画はお金がなければ作れませんが、お金を特別視せずに贈与物の一つと見做し、絶対視しないという意味で資本主義の原理とは異なります。)コモンズについてはすでに説明しているので繰り返しませんが、資本主義の原理が至る所に浸透している現代において、人が集まって無駄なことや予定外のことを経由しながら非効率的に時間をかけて何かをやるというのはこの上なく貴重で贅沢なものになりつつあります。しかし、本来そのようなことをするのにお金をかける必要はないのです。
 ワークショップの内容はいくらか難しいものを含みます。「わからなさ」を抱え続けられる力が求められると思います。ご応募お待ちしております。

                           主宰・高山康平

【昨年のカリキュラム例】
〈内的な感覚を養う〉
・感情と内臓
  感情と内臓感覚を結びつけ、身体的な実感やニュアンスを研究します。
・演技の身体基礎
  エネルギーと重力に対して骨や肉がどう機能するべきか考え、表現のための基礎的な身体所作や原理を学びます。
・呼吸と間
  基礎的な呼吸とそれを応用した間合いの取り方を研究します。
〈関係的に演じる〉
・自律神経のレンズを通した世界との関わり
  ポリヴェーガル理論を土台に自律神経の働きを理解し、演技に応用します。
・応答的演技
  アニミズムや能の思想を参照し、自我を透脱した所の存在論から演技を実践します。
〈表現をする〉
・声の文
  日本語の特性を学び、声の表現領域について研究します。
・声と無意識
  声が無意識に対してどのように機能しているかを研究・実践します。
・演技のドラマ性
  世阿弥の理論や能の動きを参照し、動作の一つひとつの劇的な効果や感情的な効果を持たせる方法や、それらを組み合わせて演技の序破急を実践します。
・表情
  表情筋について、また表情筋と内臓の関係について考察しさまざまな表現の仕方を実践します。
・役の基本三体
  世阿弥の三体論をアレンジし、身体的に役にアプローチします。
・成り入る
  これまでの内容をまとめて、身体的な役作りを実践します。
・離見の見

  人に見られるということがどういうことなのか考え、世阿弥の説く離見の見にいかにして到達するか研究します。

【第一期の参加者からの感想】
・芸術は爆発ですが、「どのようにして爆発するか」を理屈で考えられる人、考えてみたい人に向いているワークショップだと思います。 様々なワークを行った際に、「よく分からなかった」よりは、何となくでもいいので「○○を感じた」という感想を持てると他の参加者との違いや共通点を見出せると思います。

・演技とは身体感覚であり、内臓感覚であり、声と身体と呼吸の一致であり、そして最後は爆発です。ともかく頭ではありません。 そこを細かく分析して掘り下げて、能の要素を絡めていく高山メソッドに、ワクワクと興奮を覚えた日々でした。演技探求が好きで好きでたまらないボクにとっては最高の場所でした。

・この人は、わたしが実際に対面で出会ったことのある人の中で一番頭が良いです。それは学歴とかそういう意味の頭の良さではなく。(高学歴がデフォルトの世界で育ってきたので、頭の悪い高学歴の人なんていっぱい見てきました)もともとの知的好奇心の深さと幅の広さ、そこから集め得た点在する一見関係のない知識たちを自分のものとして思考に取り入れ繋げ組み直す力、そこから自分の視点を確立する力、それらを自分の芸術を創り出すうえで、また生きていくうえで実践できる理論として形づくる力、そういった意味での頭の良さです。一旦自分の身体の中に取り入れ咀嚼し紡ぎ直した思考だからこそ、一本筋が通っていて、かつ本質的。本質というのは不思議なもので、個の中で深く掘り下げ確立されたものこそが結局のところ普遍なのではないか、と思います。 でも、その咀嚼する作業、思考する作業、繋げる作業は正直時間がかかるし、効率的ではないし、疲れるんですよね。だからしない人が多い。 現代社会の中で疲弊しながら生きていたら、そんな贅沢する余裕がないのかもしれない。 でもこの人は、それが好きな、ある種変な人なのです。 そんな彼の中で育まれた宝を惜しげも無く分け与えてくれるので、ものごとを掘り下げて考えることの好きな人にとってはこの上なく贅沢な時間だと思います。 わたしは、自分の中に確かに存在していたけれども言語化されていなかったせいで輪郭がはっきりしていなかった感覚が、WSの中で出会った言葉によって明確に浮き出た経験が何度もありました。そして、それはとても大きなギフトでした。 考えたり、試したり、失敗したり それらを一緒に楽しめる人に入って頂けたら嬉しいです。


2023年に撮影した短編映画(編集中)より

【応募詳細】
ワークショップ期間:2024年2月〜(半年くらい) 毎週月曜日17時〜22時
 ※初回は2/5です。
 ※毎週参加できなくても大丈夫ですが、半分くらいは参加できるのが望ましいです。
 ※会場の都合などによって開催されない週もあります。
場所:東京都練馬区江古田 ワンズスタジオ
参加費:無料
〆切:2024年1月15日
募集人数:10名くらい(ワークショップは15~20名くらいで行います。)
応募フォーム: https://forms.gle/HUt7Q6WFA7oxY4KP7

 ※応募者が多数の場合は選考しますが、経歴・技能よりは多様性を重視しますので、未経験者の方でもどうぞご応募ください。
 ※参加が決まった方は、一度オンラインで面接させていただきます。

【注意事項】
1.最終的には短編映画の制作を目指しますが、出演を確約するものではありません。作品の規模や内容、また演技の水準によっては出演できないこともありますのでご了承ください。また、映画の制作に至らない場合もありますのでご了承ください。
2.ご出演いただくに当たって、ギャラの支払いは原則ありません。しかし、集まったメンバーの特性によってはマネタイズできる可能性もあり、資金が集まった場合には適正に割り振っていきます。また、映画製作に当たって、参加者から制作費を徴収することはありません。
3.ワークショップの期間は大体半年を目安としておりますが、変動する場合があります。
4.ワークショップの様子やそこでの演技など適宜、映像に記録し、SNS上に公開する予定です。公開を希望しない場合は予めお知らせください。
5.事務所などに所属されている方は、必ず所属先の了承を得てご参加ください。
6.身体性を主たるテーマに据えたワークショップですので、ワークの中で多少の身体接触などが想定されます。あらかじめ、ご了承いただくか、ご自身の許容範囲内でご参加ください。
7.「芸に厳しく、人にやさしく」をモットーに、ハラスメント・暴言・暴力などがないよう、最大限ご注意ください。また、会場の使用に当たって最低限のマナーはお守りください。
8.その他、質問や相談があればお気軽にご連絡ください。個人的な事情がある方にはできるだけ配慮したいと思います。

【主宰プロフィール】
高山康平
1987年生。早稲田大学社会科学部卒。
大学卒業後より、自主映画を中心に映像制作を行い、これまでスキップシティ国際D
シネマ映画祭や大阪アジアン映画祭、映文連アワードなど多数の映画祭で入選・受賞してきた。長編作『アイニ向カッテ』は2019年に全国で劇場公開された。
2022年より独自の演技論に基づいた演技ワークショップを主催。初の舞台演出作品となった『相対性家族』(2022)では、身体論や能の技法を演出に取り入れ、その独特の世界観が好評を得る。
作品作りにおいては人類学のパースペクティヴィズムの立場から「他者を真剣に受け取る」をテーマにしている。また、表現主義的な手法も取り入れながら、幻想的リアリズムを志向している。
高山康平デモリール https://youtu.be/IVU6WwhpiZM
舞台『相対性家族』配信ティザー https://youtu.be/4Gb8-i-94E8

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