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本番当日の目覚めで決まる

 前置き:
 先日、年に数回しかないパフォーマンス・アート(行為芸術)を発表する機会に恵まれました。主催は古河街角美術館、文学館、古河市民大学、企画主導者は絵本作家、アーティストの金田卓也さん。トーク、パフォーマンス、音楽の順序で、ご来場の皆さまと、画家のオシッドさん、タブラ奏者の指原一登さん、カイサドラムの村田訓吉さんと空間を共有しながらの公演。本番当日の朝からのお話を脱線しながら、徒然と書き綴って参ります。

 「本番当日の目覚めで決まる。」パフォーマンスの朝が重要です。というより目覚めた瞬間にほぼやるべきことが決まります。決めたことをやるのは私のパフォーマンスではないので、そういう意味ではなく、明確に自分と世界が繋がった自覚があるってことなんです。注意していないと、すぐにヒトは世界、自然と分離してしまいます、心が。睡眠は本来あるべき姿へ戻す行為だと思います。忘れるべきことはすっかり忘れるのも重要です。それを全自動で睡眠中にやってのける脳は天才だと思います。要は寝てる時に整理されてすこーんと開かれた目覚めってことです。今日観るべきこと、やるべきことが明瞭明快に成る。成っているの方がしっくりきます。成虫に変態する如く、なるべくようにしかなりません。何度も蝉の羽化を庭で観察した夏がありましたが、命綱一本でブリッジして成虫への準備を進める様は感動的です。中には殻を破れず、出てこられない者、ブリッジに失敗する者、大人に成ることは命懸けです。

---蛇口をひねって水を出すだけというパフォーマンス

 蝉の変態の如く、其の間ま、感じ思うままに動くだけです。それが失敗しようがそれは仕方がないことです。残酷かも知れませんが、それが自然です。パフォーマンス、表現もそうあるべきだと思います。高校生の頃画集を眺めて氣がついたことですが、駄作が多い絵描きほど本物だと思ってきましたし。それだけ挑戦した証ですからね。生のパフォーマンスの場合、生きていること、遊ぶことそのもの自体なので、練習をしたら絶対に駄目なんです。蝉の羽化に練習はありません。また、生きることを練習している人は誰もいません。ただ臨機応変にその日その場を、様々な感情の流れと、この世界の流れと調和を無意識に保とうとしながら生き生き、活き活き、生活という名の本番を私たちは毎日やっているだけなのです。経験という言葉が練習と似ているかもしれません。そんなわけで、わたしのパフォーマンスとはイコール生活です。イコール子どもの遊びです。特別なことは何もありませんし、やっていません。今までのパフォーマンスで一番単純な行為は、蛇口がついた箱に水を溜めて、蛇口をひねって水を出すだけというパフォーマンスでした。全く特別なことはしていません。皆さん毎日やっていることです。けれど、その場にいた何人かは不思議そうに見ているようでした。注意深くその行為を眺めている人々がいるのは、肌で感じながらパフォーマンスをしていました。近くまで来て一緒に観てくれたのは誰かと言えば、見ず知らずの4、5歳の子どもです。一人でパフォーマンスしてましたが、仲間が一人増えました。一人より二人の方が断然愉しいです。愉しさに広がりが齎されます。水が地面に向かって落下?地面さんからしたら、水が向かってきます。わたしはそれが、そのこと自体がとても不思議でなりません。よく分からないわけです。だからじっと観つめて眺めて観察してみるんです。分からないことは本当は分からなくても良いと気が付きます。そのことを自分自身最近ようやく分かってきました。何でも分かろうすることは何か違うという感覚です。今解明されていない宇宙のダークマターが解明された日が来ても、それが分かったうえで、さらに分からないことが無限に出現するわけですし。公演後、よく「あの行為はどんな意味があるんですか?}とパフォーマンスの後に聞かれることがあります。いつも大概は「特段の意味はありませんよ」と言っています。そんな質問をしてくれる人の顔を見ると”素”に戻った良い顔をしています。不思議そうな顔です。童心にかえっているようにも見受けられます。でもそれで良いのだと思います。そこに新しい私には分からない観た人がだけの意味が生まれるんだと思っています。パフォーマンスを観てくれた後に、そう疑問に思ってもらえたら、わたしはパフォーマンスしたかいがあったというものです。わたしのテーマは簡単で、「流れを感じ考えて、一緒に流れを作ろう」ということです。これを「感代謝」と命名しています。身近に流れは沢山あります。自分の中では血が流れています、ご存知、血流です。風が吹けば、風の流れ、それが気圧にもなります。潮の流れもあります。それも月さんの流れ、運行次第です。人はモノをあっちこっち運びます、物流です。時に、美味しいご馳走を運んでくれます。そうそう、お金や、気持ち、人の流れを総称して社会と呼んでいます。そう考えただけで、ああ、有り難いなぁと自然と湧いて来るはずです。だから感代謝なんです。

---コンセプチュアル・アートは好きではないが

 話は少し飛びますが、アート、表現にとってコンセプトは大事です。「考え」ですから。しかし、時折り、全て分かった風なコンセプチュアル・アート作品の作家の解説、説明がありますが、あんまり好きになれません。何処か、歴史などを切り取って自己の弁解を述べても、何か響かないのは何故なのでしょうか?その先に何が見えるのかと疑いたくなります。と、もうお分かりかと思いますが、これも流れが生まれています。わたしが好きかどうかなんて関係なく、新たな思考の流れが生まれるんですね。まあ、それで良いのです。あとは野となれ山となれ。次の新たな流れ、波に乗っていけば良いだけです。

 ---コンセプトの語源

 「コンセプト」の語源は、ラテン語の concepto で、「受胎」「妊娠」「着想」を意味するそうです。知りませんでした。これを知ると好きだとか嫌いだとかいう次元が阿保だということが、如何に自分がアホウなのか知れますね。いやぁ〜有り難い。感代謝。自分なりの新たなコンセプチュアル・アート作品が生まれそうです。正に啐啄同時の瞬間です。今日この文を書いたかいがありました!啐啄同時のお話は別の頁でやろうと思っています。なんせ、小学生の自由研究は「鶏の孵化」でしたから。この体験はいまだに忘れられません。

 ---メタバース、仮想現実も良いけど、、、詩的世界観が良い

 兎にも角にも、大事な本番、その日の目覚めだけはとても重要だってことです。仏教で悟るというのがあるようですが、毎朝毎朝目覚める・悟るチャンスがあるってことだと思います。もちろん、悟りの意味も何も分かりませんが、また悟ろうなどと微塵も思ったことはありませんが、目覚めないということは、つまりはあの世行きです。死です。デスメタルを聴きながらメメントモリを実践していますが、まだやるべきことがあります。死ねません。目覚めたいのです。これも欲ですね。良い欲です。自然です。

 普段全く意識せず起きてます、意識して起きれる人はいませんね、朝日を沐浴、今朝はどんな野鳥が来たのか、鳴いているか、気になって空を仰ぎます、朝の月も大好きです、詩のなかにいるような朝です、何種類もの鳥達が様々な鳴き方でワクワクしている朝です、今年は虫に葉をやられ、心配ですが、落ち葉掃きの仕事は減りました、それ自体が少し悲しいです、無駄に想起される朝の想い巡りは生きている実感が湧いてきます。

 他に何も無駄に思い悩みすぎる事は全くありません。もし生活の中で散々思い悩み、不安心配事を抱えているならば、大丈夫です。特効薬は「知る」ということです。有名過ぎますが無知の知は五重の塔でいう心柱だと私は思っています。それを知っていればバランスをとりやすくなるというものです。どんな困難や大地震が来ても持ち堪えられます。物事を知れば不安・悩みの半分は消えています。物事を適度に忘れることも大切です。何千年も人々は同じようなことで思い悩み、心配にかられていますが、知らないだけなんです。生き生き、活き活き子供のように遊ぶ感覚でその日その日を愉しく、周りの変化を感じながら、聴きたくないこと、観たくないことも時には直視して、まあ、成るようにしかならん!と素直に生きれば良いのです。と、朝からつらつらとおもったことを書きましたが、朝はそういうものです、本来。スパッと目覚めてますから素直です。メタバースも、仮想現実も良いですが、私は詩的世界観のなかで生きていきたいなぁと思っています。夢があります。成るようなるためには、日々の積み重ねなくして成らないですけどね。それが生活ですね。

 通りすがる明神池に朝日が横からさして、鯉達の姿がキラキラして気持ち良さそうです。神社の道は綺麗に掃き清められています。良い朝です。しかし、色々世界で起こることを対岸の火事にせず、当事者意識をもって生活しなければならないということは、夢見がちで、詩的世界観を大切にしながらも注視しなければなりませんね。

 お読み頂き、ありがとうございました、感代謝。

恒星
‟a ri A Ru Creationz” The Art Project
星座を歩くアートクラス

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