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みんなお誕生日


先日、11月3日は誕生日だった。何も縁がないけど、ゴジラと手塚治虫と同じ誕生日だ。

いちいち誕生日があったよってことで日記なんか書いてられないけど、区切りのいい40回目の誕生日だったから少し書き残しておくことにした。
こんなの公開なんてしなくていいんだけど、自分のためだけに書く文章はどうにも気合いが入らないから、自分の決意やら気持ちやらを見てくれる人に証人になってもらうような気持ちで書く。

地元メディアジモコロや長野移住サイトSUUHAAなどを運営している柿次郎さんの本を読んだ。40歳の自分の誕生日までに4万字ほどの本をまとめあげたそうだ。
半生と思想と他者が入り混じった、まるで壮大なアルバムを聴いているかのようだったし、このグルーブをまだまだ浴びていたくなる中毒性のあるアルコールのような本だった。

「これでもか」と自分を出せる人間には、敵わないと思う。

わたしも若い時は「自分を知ってくれ!!」という気持ちが多少なりあった。ただ、どんどんと「別にもういっす。勝手に小さく生きます」みたいに少し消極的にはなっていってる気がする。まぁ、年齢を重ねて、ただ偉そうな言葉を並べるようなおっさんにはなりたくないからいいんだけど、行動さえも小さくなっていている自分に少し危機感を感じていた。

40歳にもなると、死を感じるなと思っていたのだけども柿次郎さんの本の一言目にもそう書いてあって、「あぁ、わたしだけじゃないんだ」と思った。

怒涛とぼんやりの時代を振り返る



簡単に振り返る。
10代のときは、両親の離婚や引っ越しで宮古島に移り住んだり、東京に来たり、小学校も5回ほど移るという怒涛な日々だった。両親の不安定さで与えられた子供のときの孤独は、大人になった今の自分を少なからず形成しているかもしれない。

元々小さいときから好きだった漫画を描く行為が、自分の孤独を埋めるように励ますように唯一の満たされた場所としてひたすらに漫画を描いていた。
そして、宮古島のとんでもない大自然のなか、当たり前に遊んでいたことも今の職業と繋がっているんだと思う。いつかこの話は別でまとめてみたい。

数年後、母が再婚して、父親違いの妹が生まれたら、「今までなんだったの!?」ってくらいに家庭が平和になった。
そのおかげで20代は本当にのんびり適当に生きてた。そうする合間にあれよあれよと社会人になって、両国にある中小企業に就職をし、営業事務をして
「あれ?こんなはずだったっけ?」と思う毎日を過ごすようになる。

生きるために働くというより、働くために生きているような、そんなことにとても違和感があった。

どうして心を削ってまで、たいして楽しくもない、なぁなぁな人間関係の中に身をおいて、安月給で働くのか。幸い残業が少ない会社だったので、自分のなかでは「絵を描く時間を作るため」という大義名分があったものの、こう10年後も20年後も変わらずお茶汲みをするだけの未来しか得られないことにどうにも心がおいついていなかった(体勢がとても古い会社で、女性はこしかけでお茶くんで、出世も名刺も与えられない状態だった)

その後の話はざっくり上のブログに漫画としてまとめてるので、割愛。


ノートにただなりたいを書いただけだった



20代のときに、
「10年後の自分を作るのは今の自分なんだ」
みたいな本のタイトルを見て、全くもってその通りだなと素直すぎるわたしはその日のうちに、ノートに10年後になりたい自分を書き、それまでにやるべきことを書きつらねる未来計画のようなものを作った。

そのとき思ったのは、「あ!わたし10年後にはコミック本を出せるじゃん!」と単純すぎるわたしは思ったのだ。

単純すぎて、アホかもしれないけども、つまりはその未来ノートは予想とは、また違った方向で実現する。


がむしゃらに考えずに、行動をしたことが誰かを傷つけ自分に返る


キャンプの世界に目覚めてしまったわたしは、32歳くらいから言葉の通り怒涛な毎日を送ることになる。そのとき「女子キャンプ」なんてものを掲げている人間はいなかったから、相当めづらしかったのか、あらゆるメディアに呼んでもらえていた。

とくに「マツコの知らない世界」に出たあとは、メディアの数がとんでもなかった。正直いちいちメモもとってないので、何に出たのかもよく覚えてない。ただほとんどのチャンネルには一回以上は出ていることは確かで、深夜なども含め少なくともおそらく40番組ほどには出ている。

キャンプを発信してたら、亀梨くんだけじゃなく木村拓哉さんにまで会えたのは今も自分でさえ信じてはいない。

その間に書籍も4冊くらいだしているのもよくわからない。

あの怒涛の頃は、結局全然遊びのキャンプに行けてなくて、一体わたしは何のためにキャンプを発信してるのかわからなくなってしまっていた。

ある日、緊張の糸がぷつりと切れた。

そこからあまり上手にしゃべれなくなり、働けなくなり、正直リハビリに3、4年費やした。(つまりつい先日まで)

コロナで緊急事態宣言になって、全ての社会が止まったことが、言い方はよくないがわたしにとっては救いだった。

仕事は激減したけど。

https://note.com/koishiyuka/m/m12eb37b9fd91

(緊急事態宣言のとき毎日カメラを持って散歩をして、痩せて健康的になった頃のブログ)

「何者」ってなに



「女子キャンプ」というものを作り、テレビに出て、書籍を出し、
何者かになったような自分。
それに違和感があったんだと思う。

コロナ前に、ニュージーランドの自然を目の当たりにしたとき、よくわからない衝動がわたしの中で動いた。そのとき初めてその違和感に言葉がつけれた。
「わたしは何者にもなれないし、ならなくてもいいんだ」

以前も何かにこれは書いたのだけど、なぜかその風土や暮らす人々を見て、自然に腑に落ちた言葉だ。

コロナ後、今でもそれについて思うことがあるし、答えが出た。

上述した柿次郎さんの本にもそんなことが書いてあった。
(どこに書いてあったか読み返してみたけどわからないけどたしかあったように思える。)

「何者にもならず積み重ねていく人間が一番かっこいい。」

簡単なんだけど、そんなふうに今は思う。


重ねること、続くこと、生きること

もうさすがに40年も生きてると、まだまだ青いから許してちょみたいな精神は許されないように思える。

でも待ってくれ、まだまだわたしは青いのだ。

知らないことなんて未知数あるし、まだまだ知りたいことや行きたい場所や会いたい人だってたくさんある。

だからこれからも挑戦もするし、失敗もする。でもがむしゃらで生きてた若さはいったん落ち着いて、他者を考えられる自分でありたい。

そんなふうに歳を重ねて、素敵な人間になりたい。

年齢を重ねることは、人間になるためのものでつらくも楽しいことだとわたしは勝手に思っているのだけど、その一方で1つだけこわいことがあった。
長く生きると、性というものを少し失っていくことに恐怖がある。
性を保ちながら、美しく生きるのはとても難しいとも思う。

まだ言葉にはなってないんだけども、だからこそわたしたちは次の世代に、次の自然に、何かをせざる得ないし、していかない限り、美しく生きてはいけない。素敵にはなれないのだ、と勝手に思っている。


雲一つない空の下、だらだらと

ただの独り言みたいなものをここまで読んでくれた人に、感謝と敬意を払いたい。40回目の誕生日は、朝から映画館で2本見て、家族愛と、LGTBについて考え、午後は友人らと一緒に、しこたまワインを飲んでもらって楽しい時間を過ごした。
あまりにも楽しそうなわたしたちを見て、お店の人が頼んでもないのに、ケーキを作ってくれた。そんなことある?

「誰かお誕生日なんですよね?」って言いながらもってきてくれた


50歳になるころ、40歳の自分をどう振り返るだろう。
いつ死ぬかわからないけれども、とりあえずラッキーにも生きれたら10年また積み重ねることができるのだ。
これから何を積み重ねようかな、といいつつもう少し決まっている。

漫画しか書いていなかったから、また少しずつ絵を完成させて枚数を増やすこと。森に通うこと、名前を知ること、自然の本をたくさん読むこと、これから出会う素敵な人たちと積み重ねること、なるべく新しい土地で。

2月に個展を開こうと思ってます。
そのお話はまた今度。




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