落ちた炭酸

①ボトッという音がした。立ち止まって足元を見ると、さっきまで右手に持っていたはずのペットボトルが転がっていた。やってしまった。ペットボトルの中身は炭酸飲料である。しかも未開封。未開封の炭酸飲料を振ってから開封すると、悲惨な結果が待っている。そしてこの悲惨な結果というやつは、うっかり地面に落としたくらいの衝撃でも、十分に起こりうる。これは私の経験則である。つまり、これでしばらくこのペットボトルを開封することができなくなってしまった。あー、こんなことなら買ってすぐに、さっさと飲んでいればよかった。購入したとき、その自販機はよく冷えた食堂の中にあったため、あとで駅に着いた頃にはまた汗だくになっているだろうからそのときに飲もうと思い、右手に持って歩いていたのだった。ちなみに買ったのはキリンレモン。私の好きな曲のうちの1つに、「冷たいレモンの炭酸のやつ~」という歌詞があり、自販機の前に立ったときに鼻歌で歌っていたのが偶然その部分だったので、選んだのだ。ここに関してはC.C.レモンではないかという意見もあるかもしれないが、カネコアヤノもC.C.レモンではなくキリンレモンを選ぶであろう。特に根拠はないが。

ふうっ、と息を吐いてからかがんだ。その拍子にポトリ、と額から汗が落ちた。その生ぬるい雫で少し濡れたペットボトルを右手で掴む。キャップとラベルの間に見えるその透明な内部では、シュワーァッと聞こえてきそうなほどに膨張した白い泡たちが、その部分を埋め尽くしていた。立ち上がって、空いている左手で目の周りとおでこの汗を少し拭った。

②暑い。再び歩き出してまだものの数分だが、汗が滝のように流れる。もう一度言う、めちゃくちゃ暑い。8月初頭のこの日は、たしか最高気温が36度だった。時刻は午後4時半だったのでそこから多少は下がっているだろうが、それでも暑い。そしてその炎天下を、私はスーツ姿で歩いていた。というのも私は現在就職活動中であり、今日は説明会のついでに履歴書を買いに大学に寄ったのだった。あいにく購買部は夏休みのために営業時間を短縮しており、なんとそれに間に合わなかった。そしてその無駄足を少し後悔しながら、帰路に着いているところである。それにしても本当に暑い。ジャケットを脱いでいるとはいえ、長袖長ズボンで出歩くのは本当にぶっ倒れそうになる。カッターシャツの前も後ろもぴったりと体に張りついて気持ちが悪いが、もはやそれも気にならなくなってくるほど、暑い。

私の就職活動は、それはそれは悲惨なものである。三回生の3月に一斉に情報解禁がされて本格的に始まった就職活動だったが、民間企業への就職を希望する学生のほとんどは、5月から6月中くらいには内定をもらって就職活動を終えている。8割くらいだろうか。8月にもなってリクルートスーツで歩き回っているということは、つまりそういうことで、私は社会の厳しさというやつを大学四回生の今、目の前にドカンと突き付けられているのである。私の周りの友人たちもほぼ全員が就職活動を終えており、皆この時期は内定先の会社の話や、卒業旅行の話で盛り上がっている。私は未だそんなことを考えて過ごす余裕はないので、そういった話には全くついていけず、孤独感と疎外感に苛まれる日々を過ごしている。そんな私のことを気遣って励ましたり応援してくれる友人もいるが、こうもなればいっそのこと大笑いしてくれる方が私にとってはむしろ痛快で、却って気持ちも晴れるのではないかと思う。しかし、今の私が周りにそれを求めることほど惨めなこともないだろう。

②(Ⅱ)「自己責任」。現実の世界に限らず、SNSを見ていてもよく目にする。この言葉はズシッと心臓の奥の部分にのしかかる。「時間はたっぷりあったのに、有効的に使えなかった自分が悪い。」「遊んでばかりでなんとなく大学生活を過ごしてきた結果。」「失敗は全て自己責任。」もちろんその通りである。が、失敗者はそんなことくらい言われなくともわかっているだろう。ただでさえ辛い思いをしている人間をそれ以上いじめて何が面白いのだろうか。将来の生活の不安、自分だけが上手くいっていないという焦燥、周りの友人たちからの疎外感、社会の厳しさという壁、そして正論を振りかざし集団リンチに追い込んでくる見知らぬ人々。人生のレールから滑り落ちた私は、今にも炭酸を吹き出してしまいそうだった。


➂そんなこんなで駅に着いた。歩いたのは10分弱だったが、汗が止まらない。何はともあれ喉が渇ききっている。ホームの真ん中近くまで行き、立ち止まった。ここなら大丈夫だろう。右手に持ったペットボトルを胸の当たりまで引き上げ、中の水面を眺める。大きく息を吐き、一ミリたりとも視線をそらさぬよう細心の注意を払う。右手をその先端に添え、そしておそるおそる、少しずつ少しずつ、指先に力を加えていった。ゆっくりとキャップが反時計回りに動く。さらに力を加えてキャップが滑り始めたとき、一瞬水面の色が変わった。ハッ、と手を止めて顔を上げた。黒い服を着た女性が自分の前を通り過ぎ、ホームの奥の方へと歩いていった。危ない、危ない。万が一失敗してしまったときに近くに人がいると、被害者が増えてしまう恐れがある。それはできるだけ避けたい。そう思って、改めて周囲を確認する。再びキャップに手をかけ、少しずつ手首を捻っていく。さきほどよりさらに回転したところで、小さくカチッという音がした。うむ。いったん手を止め、時計回りの方向に少しだけ捻り戻した。今のカチッという音は、炭酸が弾け始める合図だ。密閉されたボトルの内部と外気が触れ合った瞬間、中の液体は水を得た魚のように(もともと水だが)、暴れまわり、ジャンプし、踊り狂う。つまりここからはさらに細心の注意を払いながら、作業を進めていかなくてはならない。

キャップを素早く閉められるよう、握っている手と指先に神経を集中させる。そして顔を水面にさらに近づけ、捻り始めた。キャップはさっきカチッと音のした部分を通り過ぎ、そのあたりから少しずつ、キャップがレールを滑る感触が緩くなってくるのがわかる。このままいけるか?と思いかけた瞬間、水面が上下に動き出した。危ない!あわててキャップを時計回りに戻した。危ない、危ない。あやうく手遅れになるところだった。ここで中身が噴き出してしまっては元も子もない。今までの時間が全て水の泡になる(噴き出すのも水と泡である)。

近くで同じく電車を待っている女子大生グループの一人と目が合った。彼女は一度目線を逸らしてから、友人たちと何かヒソヒソ言い合った後、次はそのうちの2、3人がこちらを見た。

それは端から見れば滑稽だろう。しかし、今私が手にしているのはただの炭酸飲料ではないのだ。油断したら最後、ボトルの中から飛び出して我々を襲う、爆弾であり、ボルデモートなのである。

8月になってもスーツで歩き回っている学生とは、つまりそういうことであり、私は、このキリンレモンをレールに戻してやる必要がある。

手元から滑り落ちた時点で一人なのだ。

さあ、再びやろう。そう思って右手をキャップにかけたとき、グオーンと大きな音がして、電車がきた。


④結局いつ飲めるんだろうか。吊り革に力を借りて、私は文字通り全身で電車に揺られていた。その右手には、ギリギリ未開封のキリンレモンがぶらぶら揺れている。ただでさえ暑くてクタクタになっていた上に、こいつに神経をすり減らしていたせいで疲労困憊。立っているのがやっとなくらいだ。しかもそれは、未だ一滴たりとも私の体には吸収されていない。喉はもう随分前に干からびた。唯一、車内はエアコンが効いており、それが救いだった。

➃(Ⅱ)ガラス越しに外を眺める。コンビニが見え、隣にはラーメン屋がある。横断歩道を挟んで、渡った先には公園がある。大きな木が数本たたずむその間にはブランコと滑り台がある。ブランコで男の子が遊んでいる。それを大木の裏にひっそりとあるベンチに座っている母親らしき人物が、少し前のめりになり足の上に肘を立て、手のひらに顎を乗っけた姿勢で見ていた。「さぞ暑かろうに。」という誰もが抱きそうな共感でさえ、涼しい車内で疲れきっている私の頭には浮かんでこないのだった。


➃(Ⅲ)ハッとして、窓越しに駅名の書いた札を慌てて探す。よかった。まだ一つ隣の駅だった。ここは最寄り駅とつくりが似ていて、いつも間違えそうになる。ドアが開くと何人かが降りて、何人かが乗ってきた。スーツのサラリーマン、制服の女子高生、缶チューハイを飲むおっさん、スマホを眺める大学生、腰の丸まったおばあさん。静かな車内ではガタンゴトンという音だけが響いており、その全員の浮かない顔に、夕日の橙色が反射して輝いていた。その瞬間なんとなく、みんな炭酸飲料なのかもな、と思った。

最寄り駅についた。歩きながら開封するのは困難だと思い、場所を探しているとトイレが目についた。まあ衛生上微妙なところだが、失敗したときのことを考えると良いチョイスだろう。個室のドアを閉め、再びペットボトルに向き合う。キャップに手を添え、ゆっくりと回す。何事もなかったかのように蓋は開き、水面は少しの揺れもなく平然としていた。一口流し込んでみる。買いたてのような爽快感とはほど遠い、ぬるい少し甘い水が喉を通った。それをそのまま一気に飲み干した。空になったペットボトルを眺める。

それを持って私は、扉を開き、一歩踏み出したのだった。

(2019.9.12 ケビン)



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