自分史 01_デザイナー期

自分の小学校に書いた夢は「デザイナー」

小学2年の時から少年ジャンプにハマり、ドラゴンボール、スラムダンク、ろくでなしブルースの漫画を描きまくっていた。オリジナルキャラもよく作ってて教科書は白い箇所が無いくらい絵で埋め尽くされ、ノートは完全に自由帳。通常科目は普通かそれ以下だけど、美術と体育で5で稼ぐような男子。

大学は有名な美大のみを受験し見事に落ちて浪人をしたが、縁あってトヨタの車体のデザインをしている方と出会い、その方から「デザイナーになりたければ現場での経験を早く積んだ方が良い。大学4年は勿体無い」と言われ、2001年 デザインの専門学校へ入る事にした。

自分の親は「高校以降は金を出さない。生活費も納めろ」という教育方針だったので、バイトやパチスロで稼ぎながら、デザインの専門学校も学生ローンを組んで入学した。※ちなみに全盛期はパチスロで年間600万円稼いでいた※事実、高校卒業後に親からもらったお金は、結構式の祝儀と自分が単身NYへ行く前にもらった5万円のみ

入学した同期の99%が親から学費を出してもらってる中、自分名義でローンを組んでいるので当事者意識が違っていた。学校ではCGやグラフィックデザインを学び、Tシャツなどのシルクスクリーンを作る機材もあったので、それを使わせてもらい、オリジナルTシャツを作り売りまくった。仲間4人でチームを組み、それぞれデザイントーンの違うTシャツをアートフリーマーケットなどで売った(出展は学校にしてもらい)1日10万以上の売上があったので、学生時代としては結構大きかった。また、この時にマーケティングを理論も分からず原体験から粗々で体感した。売れるTシャツ作る為に、街中で歩く人の着ているTシャツみて、男女、年齢、ファッション系統 などで1日中メモしたり、その分析から女性をターゲットにデザインしたり…

学生時代最後の「卒業制作」という卒論のようなものがあり、その卒業制作を飾る卒制展という場で最も優秀な作品を飾る入口入って直ぐの場所に自分の作品が置かれた。老若男女全てのターゲットにしたイベントを企画しプロモーションツールまで全て作り上げたものだ。その作品展を見た 現たきコーポレーションのアートディレクターが自分と会いたい と連絡が来て面談した結果、入社が決まった。実は、自分は他の同期と異なり夏に就職活動を何もしていなかった。自分で学費を払ってるのに学びより就活に時間を割く意味が理解出来ず、Tシャツやフライヤーのデザインなどに没頭した。卒業後に仕事を探そうくらいに思っていたが、結局誰よりもデザインを追求し学び、卒業制作を見たご縁に結びついたので、本質的には親の教育方針に感謝している。

晴れて、デザイン業界では大きな会社の「デザイナー」という肩書きを頂き社会人がスタートしたが、想像を超える凄まじい労働環境だった。
まず、自分の上長にあたるAD(アートディレクター)は自分をスカウトして頂いた方だが、鬼のように厳しい方だった。持っていくアイデアは怒号と共に何百枚と破られ、プレゼンの前夜に全てやり直しで徹夜は日常茶飯事。大企業の案件が多く、金曜に修正が入り月曜までに提出という鬼のスケジュールが普通だったので土日も無く、最長記録で3日間連続徹夜した。流石に4日目に寝落ちしたが…。ただ、量と質という観点においては短期間で相当学ばせて頂いた。

その後も会社で一番のADとのペアになり、大きな案件や面白い案件を沢山デザインさせて頂いた。たきの中でも中堅っぽい位置になったし、このまたディレクターを目指すキャリアもあるが、ずっと気になっていた事があった。

「もっと、川上から携わりたい」という欲求だ。

デザイン依頼のオリエンを聞く時「なんで新聞広告になったのか?この商材だとOOHなど他に有効な手段があるのに。この商材のコンセプトを何故こうしたのか?」という本質的な疑問が増えるようになった。

当時、たきグループは大企業の案件が多く「電通」が全ての川上を握っていた。頂く受注の中でもクリエイティブ案件という電通のCD、ADがディレクションする案件はデザインのみ。営業直案件というのは電通の営業から直接依頼が来て企画から携われるが、案件の規模は小さい事が多い。しかも当時の電通は社会の憧れの的のような会社で、下請けのデザイン会社が前に出る事は難しかった。

その後も激務は続き、血便など体調にも出てきたという動機もあったが、「一旦デザインから距離を置こう」と決め、退職をした。

その当時は本当に疲弊していた…。退職後謎の蕁麻疹が1ヶ月続いたり。今では想像出来ない労働環境でデザイナーは仕事をしていた。

その後の進路は何も決めていなかったが、一つだけ決めた事があった。

「川上へ登ろう」という事。

(続く)


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