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[連載5]アペリチッタの弟子たち~存在論的英文法序説②~There is構文について/物主語について/他殺について/孤独と自殺について

毎晩夢にでてくるようになった魔法使いアペリチッタの書いた本、という体裁で語られるこの連載は、ことば、こころ、からだ、よのなか、などに関するエッセーになっています。

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There is構文について
 
 存在とは何か?
 このような非生産的な命題が気になる時期があるとすれば、それは若い頃でしょう。そして、たいていは、年月を重ね、実際に生きていくことで、ほとんどの人が、この問いについての言葉にならない回答を手にいれます。このような問いが気にならなくなることがその証拠です。
 只、強いてもうひとつ、そんな時期をあげるとすれば、死を間近にひかえた時に。この問いがまた舞い戻ってくるのかもしれません。
 
 「存在」という言葉の使い方自体がすでにやっかいです。
 ある人は「be(とhave)は存在詞」であるといいます。しかし、よく聞いてみれば、単に、be動詞が主語の状態や場所をしめすことがあるという事実を指摘しているだけで、そのことを「存在」という言葉をつかって大げさにいう必要があるかという問題が残ります。
 すなわち、存在詞としてのbe動詞の例として、
 
I am in the room.
I am late for school.
 
があげられているのですが、これは第二文型のS+V+XのXに、名詞や形容詞がくるだけでなく、副詞がくる場合があるということです。これを、めずらしいと思うかどうかは、確かに構文の理解度にかかわってくると思います。しかし、このめずらしさを、存在詞と表現するか、主語の状態や場所を示すと表現するかは、その人の好みです。
 
 存在するというのは、具体的な場所や状態とかかわるものではなく、抽象的な現実ばなれしたものだと僕は考えます。
 存在するというのは、主語のある属性でもないと考えます。りんごにも人間にも机にも共通する属性として「存在する」という属性がある、という考えには僕は抵抗があります。存在とは、むしろ、数字に近いものではないかと考えます。
 
 いずれにせよ、
 
There is X.
 
という表現には主語がありません。主語としてXが現れる原初の形とでもいったらいいのでしょうか?
 There is X.で、Xは世界にその姿をみせますが、まだ歩きだしていません。主語にはまだなっていない状態です。一方、第一から第五文型というのは、主語が前提になっています。その文にでてくる名詞たちがそこに「ある」ということは、暗黙の了解になっているのです。
 
 要するに、このThere is X.というのは、第一から第五文型のいずれにも分類できません。
 しかし、この特殊な表現は、英語以外の言語にも一般的に存在しています。面白いのは、どの言語がどの動詞をえらんでいるかというところです。
 
英語 There is X. (be)
仏語 Il y a X. (have)
独語 Es gibt X. (give)
西語 (El) Hay X. (make)
 
 Xを(have)(give)(make)するのは非人称主語(it)なのですが、この(it) は、神かあるいはそれに相当するようなものともとらえられましょう。
 存在X に対し、それは神が(have)するものか(give)するものか(make)するのか、各国語で微妙に違うのは、お国柄とかかわっているのでしょうか?興味深いところです。
 そして、こう比較すると、英語のThere is X.という表現は、神を連想させる (it)がない、単純な表現ともいえます。僕自身は、その単純さに、英語の魅力のひとつがみられると思っています。
 この「神」が、「~にある」にでてこないのは、英語だけでなく、日本語(ある)、韓国語(イッソヨ)、中国語(有)も一緒です。
 この神に対する扱いで連想されること。それは、ヨーロッパの神話では神が自然を創ったが、日本の神話では、自然が神を創った、という指摘です(田中英道「ユダヤ人埴輪があった」扶桑社)(巻末 補1~補4、も参照)。
 
 物主語について

 物主語というのは、英語独特の表現で日本語にはなじまないといわれています。
 
His attitude toward my mother made me sad.
(私は、彼の、母へ示した態度に、悲しくなった)
 
 もし、この文章を、テストで「彼の、母へしめした態度は、私を悲しくさせた。」と訳したとすれば、それは減点の対象になるといわれます。訳が日本語らしくないという理由からです。
 その採点法自体、僕には疑問なのですが、ここでは、その(減点の対象となる)『日本語らしくない表現』を、むしろ積極的に普段からとりいれていくことを提唱しようと思います。
 『物主語という発想は英語に独特』という中性的な表現は僕には物足りなく感じられます。一歩すすんで、物主語という発想は、思考する際にとても大切なことで、もし日本人が苦手とする発想であるなら、訓練によってすすんで身につけていくべきだと考えます。
 
 しばしば我々は、悲しくなった『私』に目がいき、悲しくなった原因を『私』の行動や内面に求めようとしがちです。そのような方法で問題が解決できる場合もあるでしょう。しかし、それはしばしば、問題の解決ではなく、現状に対する追認、『解釈』に終わってはいないでしょうか?
 本当に追いつめられたとき、自分の中で勝手に処理するだけではまにあわなくなったとき、我々は闘わなくてはなりません。そのとき、追いつめられた自分の感情を表現するだけで勝てるでしょうか?闘いに勝つには、相手をみつめ、分析し、戦略をたてねばなりません。その第一歩は、悲しくなった自分ではなく、悲しくさせた原因を『物主語』として意識することなのではないでしょうか?
 悲しんでいる自分しかみてないうちは、物事は止まったままです。また、その悲しみが、いよいよ現状を冷静に分析する目を曇らせてしまうかもしれない。悲しんでいる自分ではなく彼の態度が問題なのだと自覚することが、今のおかれている状況を打開する第一歩なのです。
 また、この自覚は、『自分』から一時離れることで、時に、重くすさんだ自分の心を軽くする『癒やし』の効果をもつ場合もあります。
 おそらく、外国人は、逆に我々とは正反対の極端にはしりがちです。自分は一切かえりみず、His attitude toward my motherをもっぱら攻撃する。まずなによりも・・・私のせいではない。あなたが悪いのだ。周囲が悪いのだ。それはそれで問題なのですが、とかく自らをふりかえりたがる日本人にとっては、この物主語に責任をおしつけ攻撃するということは、大切な発想なのです。
 
This world sickenes me.
 
 「むかつく」というのは、一時的な感情です。それは時とともに去り、this worldも meも、反省されることなく、現状のまま続いていきます。
 (I am) Sickened.・・・むかつく、だけでは不十分なのです。
 This world sickenes me.こういってはじめて、This world そして meも思考の対象にのぼってくるのです。This world とは何か?親か?先生か?政治家か?むかついているmeとはなにものか?・・・そしてはじめて現状打破の一歩がはじまるのです。
 
 今までの話には、一つの抽象的な前提が暗黙のうちにあります。あたりまえすぎて、普通の人には問題にならないことなのですが、世の中には、考えすぎて普通に考えられない人が少数います。そのような人と話すときは、基本的な前提を再確認しなければならないという手間がかかります。
 それは、言語の外、自分の外の現実があるということを認める、ということです。そして、単なる記号のようにもみえる言語も、手で触ることのできない感情も、なにかしら外部の現実の反映である、ということを認めることです。
 
他殺について
 
 物主語という発想が、殺人という行為につながるという批判を心配するのは、筆者の杞憂かもしれません。
 一般に、殺人の時、殺される人は、殺す人にとって『物』にほかなりません。
 だが、他人を、冷静にみることと、『物』としてみることとは相異なります。
 その動機がたとえ「恨み」であれ「絶望」であれ「戦争状態」であれ「ゲーム感覚」であれ、
 殺人のときは、「人を殺している」のではなく「物を壊している」にすぎません。
 この意味で、殺「人」は不可能なのです。
 
 別の角度から殺人について考えてみましょう。
 殺人(あるいは傷害)というのは、『他殺』の方法としては幼稚で単純なものです。だから17才の少年でも思いつくのです。殺人者は、どんなにその計画性が巧みであっても、本人自身は幼稚なのです。
 『他殺』の方法は、殺人や傷害以外に様々な方法があります。恨み、そして復讐の物語は、時に我々の共感をよびます。『他殺』について、善悪の尺度のみをもってすますことはできません。そして、他人に苦痛を最も与える方法が、殺人や傷害であるとは、僕には思えません。
 幼稚で単純な方法だけあって、殺人を試みても、(様々な報道や教本とは裏腹に)人は容易には死にません。病魔におかされた人の生命力には胸うたれるものがあります。大量の睡眠薬服用後でも、ほとんどの場合、長い昏睡のあと何事もなかったかのように目覚めます。手首の動脈を切っても、血圧の低下とともに、ふきだす血の勢いはゆるまり、自然に止血されてしまいます。要するに、殺人をするためには、それなりの専門知識を要します。特に日本では、非力な人でもてっとりばやく殺人を成功させる道具である、銃や毒物の入手は困難で、実際にはなかなか使えません。
 ただ、容易でなくても、時に、この幼稚な『他殺』の方法が成立してしまうことがあるということが問題です。
 
孤独と自殺について
 
 孤独には二種類あると考えられます。
 一つは、精神的苦痛に伴う孤独です。これは例えば「無に対する不安」(と、時に表現される)のような、内面からうまれる喜劇的な孤独です。もう一つは、肉体的苦痛に伴う孤独です。これは、病気、疲労、飢えなどの悲劇的な孤独です。
 前者に対しては、もったいぶった態度をとることもできれば、笑ってすますこともできます。いわば、個人の感受性にまかされた、自由な孤独です。一方、後者は、そこから離脱することが不可能な孤独といえます。
 そして、今回のテーマの『孤独』とは、前者であることを最初に断っておきたいと思います。
 
 我々は、孤独を、一人きりの時に感じるのでしょうか?人ごみのなかで感じるのでしょうか?それとも、学校や会社などの集団の中、あるいは、家庭や、夫婦・カップルといった親しい関係のなかで感じるのでしょうか?
 
He sees me.
I touch his hand.
He gives me some money.
I know the meaning.
I will make him happy.
 
 これらの、第三、四、五文型のなかで表現されるように、我々は様々な人々や事物に取り囲まれて、それらと様々な関係をもっています。陳腐な言い方ですが、我々は決してひとりでは生きていない。無人島生活のように、ひとりで生活しているのではない。だから、少なくとも、それだけの意味では我々は孤独でないような気がする。しかし、それだけでは満たされない気もする。・・・「孤独」は、何枚ものヴェールに包まれていて、その姿が判然としては見えにくい。
 少なくとも、人や事物と関係しているとき、我々は孤独ではありません。そのとき、『私』はその関係の中に一部が吸収されてしまって、孤独である自分そのものが見えにくくなっているようです。しかし、そのとき、孤独は忘れられているだけかもしれない。だから、それが終わると、叉、やってくる・・・。
 それでは、
 
I work.
I walk.
 
のような、他者のいない、第一文型的な単独行動の時、私は孤独でしょうか?
 時に、人は悲しみを忘れるために働くといいます。人恋しくなって、ただやみくもに歩くこともあるかもしれません。あるいは、家で待つ妻子を想いながらつらい仕事をやりとげたり、山の頂上に立ったときの喜びのために黙々と山を登ったりします。
 少なくとも、活動しているとき、我々は孤独ではありません。むしろ、自動詞的な行動の最中では、『私』はその行動に吸収されてしまって、孤独である自分そのものが消えてしまっている。しかし、そのとき、孤独は忘れられているだけかもしれない。だから、それが終わると、叉、やってくる・・・。
 
 孤独は、おそらく『私』と関わりがある。だからといって、
 
I am teacher.
I am tall.
I am sad.
 
といった、第二文型による、『私』についての分析や解釈によって、『私』が充分説明されたり、孤独が解消されたりするわけではない・・・。
 
 おそらく、『私』が一時的になくなるような状況がおこると、孤独は消えたかのようにみえる。そして、我々のほとんどの時間は、『私』がたえず現れたり消えたりしてうつろっていく、孤独がみえない、もしくはみえにくい時間である。しかし、『私』は、他者や事物が傍らにあるという「一人でない」状況でも、自動詞的な行動でも、分析や解釈によっても、永遠に消すことはできない。
 
 『私』を永遠になくそうという夢が「自殺」という不可能な方法です。 「自殺」が成立しているかのようにみえるのは、その夢から目覚めたときに、もうあともどりできなくなっていることがありうるからです。具体的にいえば、肉体的苦痛により夢からさめたときには、もう、首にかかった縄がほどけなくなっていたり、身体にまわったガスや薬のために力がでずに助けを呼ぶことができない状況になっていたりすることがあるため、「自殺」が可能だったかのようにみえるだけなのです。
 自殺によって『私』は消えるのでなく、後悔の中にその姿を大きく表します。
 『私』を永遠になくすことは不可能な夢だという意味で、自殺もまた他殺と同様に不可能なのです。
 
    *
 
 さて、「孤独」について、ぼくが最も共感するのは、次の指摘です。
 
「孤独が悲劇的なものであるのは、それが他者の喪失であるからではなく、その自己同一性という拘束状態のうちにとじこめられているからである」(巻末 補5)
 
 その意味で、『I am by myself.』という英語表現は、興味深い表現だと思います。
 あるいは、僕には、この表現に、ある優しさが感じられます。なぜなら、孤独ではあるけれども、既に自己は、I とmyselfに分裂しているからです。自己同一性という拘束状態の殻だけは既にひびわれているようです(巻末 補6、も参照)。

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