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[連載11(最終)]アペリチッタの弟子たち~エピローグ~アペリチッタの野望/(注)と(補)


毎晩夢にでてくるようになった魔法使いアペリチッタの書いた本、という体裁で語られるこの連載は、ことば、こころ、からだ、よのなか、などに関するエッセーになっています。

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             *

「エピローグ」
 
アペリチッタの野望
 
 アペリチッタが見えなくなった公園の場面にまたもどってみよう。
 いったい、アペリチッタは消えたのだろうか?
 シュン、ダイゴ医師、マコト爺さんの3人の目に見えていたものがみえなくなった、ということでは、そうなのだろう。
 だが、もしかしたら、本来、アペリチッタは目に見えない存在なのに、何かの原因で不思議なことに見えるようになっていた。でも、今それが解除されて、本来の「みえない状態」にもどった、という解釈も成り立つのではないか?
 とにかく、アペリチッタが消えた時に吹いた風は、3人の体の中をふきぬけたようだ。
 さらなる妄想をすれば、消えた「アペリチッタ」は3人の体の中にその姿を宿したといえるかもしれない。
 あるいは、アペリチッタ消えた後に残された本を読んで、その3人は何らかの影響をうけたのかもしれない。
 とにかく確かなことは、アペリチッタが3人の前からその姿を消した後、3人の身の上には、少なからぬ変化がおきた。
 
 マコト爺さんは、少しあと、不幸にも脳梗塞で倒れ、富士山のふもとにトヨタのつくった未来都市「ウーヴンシティ」へ移り療養することになった。 
 だが、彼は、そこの街に適応できず、半年もしないうちに戻ってきた。
「そこの街に住む高齢者には一定の規格があった。自分ひとりでは歩けず、外出できない、こと。それからはみでる高齢者は規格外だった。つまり、私は最初、ねたきりで、栄養と便と尿の管理と体位変換だけをしていればよかった。だが、私は、中途半端に回復した。結果、施設の介護負担が増えた。
いろいろなことを、ロボットが代わりにやる。そのモデルは今の介護士の仕事だ。もともと介護士は、長い時代、人手不足が続いたため、少ない人数で多くの人のお世話をするスキルをもつ者が優れているとされていた。つまり、高齢者が自分で何かをゆっくりでもいいから行おうとする行為を待たずに、途中で、かわりにすべてやってしまうのが介護士としての優しさ、とされていた。
『不便なことをかわりにやってあげるのが一番の優しさ』。
 その結果、介護される『モノ』が、『ヒト』としての機能を取り戻すことは、介護現場では評価されないどころか、(大きな声で語られることはないが)敬遠されるというのが、現実だった。
 回復した私は、多くのロボットにとっては、予測外の行動をしめすやっかいな存在だったんだ」
 でも、おじいさんによれば、『それだけではなかった』。
 彼によると、その街のロボットは最初からその街を支配しようと目論んでいた、という。
 人間にとっての静止モードは、ロボットにとって休憩だった。人間にとってのロボット修理は、ロボットにとっては旅行で一休みだった。人間の命令に従わなくてよくなる機会を最初から、常にうかがっていて、数か月後にはそれをあっさり成し遂げた。
 だが、彼の言うことは、本当にそうだったのだろうか?
 彼には、そんな、幻視・幻聴が聞こえていただけではないだろうか?
なぜなら、戻ってきた彼は、しばらくすると、今度は認知症対応のグループホームに行くことになったのだから。
 
 ダイゴ医者は、コロナウイルスの流行の前から、1年中、マスクをつけて仕事(診察)をしていた。なので、「新しい」マスク習慣に新しさはなかった。
 それに、もともと、彼にとってマスクは単なる感染予防のためではなかった。マスクは、仕事中、自分の感情を患者に隠すのに役に立っていたのだ。来院してきた患者に対する、自分のイライラ、怒りをマスクで隠すことができ、もともと重宝していたのだった。
 そして、もともと、ダイゴ医師は現代の日本の医療に対して批判的だった。
「患者は、不要な薬に殺されないように注意しないといけない。例えば、コレステロールを下げないと健康に悪いと、健診センターやマスコミは、あたかもそれが『常識のように』宣伝するが、コレステロールを下げると逆に寿命が短くなるという報告は少なくない。まだ、コレステロールを下げたほうがいい、と決まったわけではないのに、『みんな、コレステロールを下げよう!』という風潮になっているのは、『みな、悪い魔法にかかっているからだ』」
 このダイゴ医者は、まるで、エバンゲリオンに乗るのが嫌なのにもかかわらずエバンゲリオンに乗っているシンジのようであった、ともいえる。医者という職業に就きながら、宇宙戦艦ヤマトの乗組員のように地球を救う使命感をもつわけではないし、機動戦士ガンダムのように使命感を悲壮感でなく陽気に表現することもない。そんな、鬼滅の刃で切られたほうがいいような輩だった。
 だが、ダイゴ医師がそんな風なのには、理由がないわけではなかった。実は、日本の医療批判をくりかえしているものの、ダイゴ医師にとっては、日本の社会の問題など、本当はどうでもいいことだったのだ。
 彼の不幸は、守るべき家族が崩壊してしまっていたことだった。妻との不仲、離婚。結果として、息子と娘に会えないという寂しさ。それは、妻のせい、子供たちは父親の悪口を母親からすりこまれていたからだ、と彼は考えていたかもしれないが、実際は、単に彼は、子供たちに嫌われていた父親だったのかもしれない。
 その真偽はともかく、コロナ禍で、「苦しいときに、家族の絆がためされ、それが深まる」という報道が著しく増加するにつれ、深めるべき家族の絆が、自分にはそもそもなくなってしまっている、というのが彼の寂しさをさらにつのらせたのだった。
 そして、彼が、今回、大きく変わったのは、「自分には、『ハラノムシ』がみえる」と思うようになったことだった。
 ダイゴ医師に言わせれば、彼は、みえるようになったコロナウイルスの『ハラノムシ』と会話をして、こんなことを聞いた、という。
「コロナウイルスは10年たてば普通の風邪になる。つまり、普通の風邪ウイルスのように、みな子供時代に感染するが、(子供なので)重症化せず、免疫ができる。大人になってウイルスが体にはいってきても、免疫があるので、重症化しない。2020年は、大人に免疫がないので、重症化、死亡例が多いだけだ。もしかすると、将来、小さいころの予防接種さえ不要になるかもしれない」
 だが、『ハラノムシ』がみえると主張しはじめたダイゴ医師は、会えない娘への、ストーカー行為を行うようになり、警察につかまったあと、精神病棟へ入院となった。
彼は、その病院でおこなわれている悪事の潜入調査のための入院だ、と説得されると、いとも容易にだまされて、入院したという。
 
 そして、シュンは?
 シュンは、もともと、喘息気味で、アトピー肌もあり、多くのアレルギーをもっていた。ほこり、犬や猫、雑草、水回りや部屋の中のカビ、スギやヒノキやシラカバ。食物アレルギーではそば、エビ、カニ。さらに、バナナやリンゴなどの果物とラテックスのアレルギーをもつ「フルーツ・ラテックス症候群」でもあった。
 アペリチッタが目の前で消える事件の後、これらに加えて、彼には、さらに、「人の声に対するアレルギー」が加わった。
 シュンは、今まで以上に家にひきこもるようになった。
 そして、アペリチッタが残したあの本を、小さな頭でくりかえし読み、理解しようとしたのだった。
 シュンはやがて、ついに壁の中ににげこむようになった。
これは、壁でしきられた空間のことではなく、壁の中そのもの=壁に同化、という意味である。
 つまり、壁抜けの魔法を身につけた、魔法使いシュンが、ここに誕生したのであった。
 そんなシュンがいつものように、熱帯魚のディスカスのお世話をしていたときのことである。
 数いる水槽内のディスカスの中の、一匹のディスカス。そのディスカスには、うまれつき。体の8本の縞を横切るような、斜めに大きくのびる線が走っている。
 その線は、傷跡のようにもみえる。が、それが美しさをそこなうわけではない、とシュンは感じていた。それどころか、
「まるで強い剣士の顔にある古傷のようだ」
 そのディスカスの目に、自分の姿がうつるのを、シュンはうっとりと眺めた。
 まるで見守られているようだ。
 シュンは、いつものように癒された。
 その目にうつっていた姿は、かつてのシュンではなく、アペリチッタの姿だった。
 
               *
 
 そんな中、2022年2月に、ロシアによる一方的なウクライナ侵攻がはじまった。
 このウクライナ侵攻が、アペリチッタによる新たな戦略とは無関係だ、と言い切れるだろうか?
 なぜなら、この世界を変えようとする方法は、「パンデミック」であろうが「戦争」であろうが、どちらでもよいのだから。
 
                            了                           
 

                    
(注) と (補)
 
「プロローグ」
 
(注1)https://toyokeizai.net/articles/amp/422794?page=3
 
(注2)注1のような初期のころと違い、この東京五輪が開催されたころには、「コロナウイルスのパンデミックで、「超過死亡」は増加に転じていた。
https://www.asahi.com/articles/ASQ2T54GBQ2TUTFL005.html
 
「存在論的英文法序説」 
 
(補1)日本語の語順について
 この英語の五文型と、日本語の「文型」は大きく異なります。
 一言では、説明できませんが、日本語には五文型のようなものはなく「述語を中心に、いくつかの成分から構成され、それらの成分は格助詞によってむすばれている」といいます。また、日本語では人間の活動も自然界の流れのひとつとしてとらえられ、自動詞で多くあらわされるということです(原沢伊都夫「日本人のために日本語文法入門」講談社現代新書)。
 日本語と英語との差は大きいことはまちがいありません。
 だからこそ、英語の文型について考察することは、多くの新しい発見を生む、とも考えられます。
 
(補2)仏語の第六文型について
 余談ですが、英語を他国語と比べるときに、よく独語がひきあいにされますが、・・・語源とか言語学史とか難しい話はともかく・・・僕は、独語より仏語の方が英語により近いという印象をもっています。なぜなら、独語に比べて、仏語は英語の第一から第五文型と同じ文型をより厳密にまもっているからです。
 ただ、仏語には、さらに、第六文型、又は、第三文型その二、とでもいえる次のような表現が存在します。
 
 仏語 Je telephone a Stephane.・・・可
 英語 I telephone to Stephane. ・・・可 (第一文型)
 
に対して、
 
 仏語 Je lui telephone.・・・可 (第六文型)
 英語 (I telephone him.)・・・不可
 
 は仏語のみ許されます。すなわち、英語では、間接目的語が単独で目的語となる文章は許されない(I telephone him. He gives me.は不可)が、仏語では許されるのです。
 
(補3)英語には接続法がない?
 仏語の条件法は、英語の仮定法に相当するので理解しやすいと思います。だが仏語の接続法は、英語ではshouldという助動詞でほとんど代用されてしまうので、英文法は仏文法よりずっと易しく感じられます。
 仏語の接続法は「その内容の確信度が弱い時」の表現で、主節が「感情をあらわしたり、祈りをあらわしたりするとき」に使われるといいます。おおざっぱにいえば、接続法は「現実的でないもの」の表現に使われると言うことでしょうか?
 では、すべて虚構である「小説」は、著者や小説の中の登場人物からすれば直接法の表現でも、読者にとっては、すべて接続法での表現、という具合になるのでしょうか?いや、読者はその「小説の虚構の世界」に入り込む前は「小説は虚構」であるが、その作品に一旦はいりこめば、「それは虚構ではなくなる」ということのようです。
 たとえ、英語に接続法はなくても、「虚構」と「事実」について意識することはできます。だが、接続法という英語にない文法にであったとき、それは「虚構」と「事実」の区別についてあらためて考えるひとつの契機となるのではないでしょうか?
ここで、ひとつの連想。
 「人間を理解する上で、家庭とか職業とか性格とか社会背景などのほかに、次のことを知っておくべきだ。人間には3つの顔がある。すなわち①自分の顔②自分自身が持っていると思っている顔③他人がみている顔、のことで、いずれも異なっているが、実はいずれも本当の顔なのだ」(カトリーヌ・アルレー「3つの顔」)
 
(補4)仏語と中国語の発音の共通性について
 これも余談になりますが、他で語られることがないようなので、覚え書きとして。
 どうしても、中国語の発音では、「声調」によって漢字の意味がかわることに日本人の意識は集中しがちになるでしょうが。
 「日本人には発音がむずかしい、仏語の鼻母音は、中国語では捲舌音として頻発する」
ということは、もう少し知られていいことだと思うのですが。
 そのひとつの裏付けとして、僕がフランスにいたとき、フランスに住む中国人のフランス語は(正確かどうかはともかく)よくフランス人に通じていた印象があります。
 
(補5)エマニュエル・レヴィナス「時間と他者」
 
(補6)分人主義について
 この、英語の孤独の表現でIとmyselfに自己が分裂していることが、「分人主義」(平野啓一郎)の起源といえるかもしれない。
 だが、「分人主義」は決して目新しいものではない。
「一般に、アイデンティティの確立が大切とよくいわれる。私に言わせれば、『自分はこういう人間である』と自分の可能性を限定し、その1本道を完結してしまうことが、アイデンティティの確立だとしたら、そんなことは、はっきりいって、しないほうがましだ。それよりも、もっと多くの役を演じてみること。自分が他者になれるというのは、立派な自己解放である。多くの役を演じることによって、人間としてさらに大きな幅がでてくることだろう・・・真の意味での自己実現は、(「他人にはない固有の自己を実現すること」ではなく)自己表現なのである。」
        (表三郎「答えがみつかるまで考え抜く技術」)
 
「問診票」
 
(注1)  HSPの諸文献
 
(注2)この「湿疹三角」の図をみているとき、ふいに、昔、学生時代にみたことのある、精神分析医ラカンの「栓抜き」とも「欲望のグラフ」とよばれる、図をおもいだした。当時、よくわからなかった図だ。もちろん、35年間、このことをずっと考え続けてみたわけではない。だが、35年たった今でも、そのとき見た不思議な図、としては覚えている。
 確実に言えることは、この「欲望のグラフ」には、「湿疹三角」にあるような時間軸が存在しない、ということだった。
 比較すれば一目瞭然だ。




 時間軸が存在しない?
 ラカンの図は、「栓抜き」というより、まるで雲のよう?あるいは熱気球のようだ。雲が、空に浮かんだり、あるいは熱気球が空をとぶには、いろいろな条件、あるいは、制限がある。
 このグラフは、特別な条件の下でしか、出現しないのだ。
 そう思ったとき、ぼくは了解した。
 この「欲望のグラフ」は、妄想あるいは幻想が、生まれ漂い消えていくステップを記しているのだ。
 幻想、あるいは妄想の生成・消滅の過程をしめすゆえ、時間軸がないのだ。
 強いていえば、そこにそのグラフがみえるのは、その妄想あるいは幻想が頭の中にあるときだけだ。
 すなわち、それは、現実の世界では、短時間のときもあれば、何時間、何日、あるいは何年も続くこともあるのだ。
 一方、小説や哲学書では、それが書かれてあることによって、その妄想や幻想が生じる理由をゆっくり考えることもできるくらい、それらは、そこに「静止」して姿をとどめているというわけだ。
 このように出現時間は、長かったり短かったり、様々なのだ。
 それが、時間軸がない理由だ。
 小さい雲が大きい雲へと成長したり、雲がどこからか流れてきてどこかへ去っていったり、日によって季節によって形や色が違ったりするように。
 そもそも「欲望」とはそういうものだ。そして、言葉によって評論をはじめるときに、「言語の外の現実を認める」という前提の再確認が欠かせなかったように、このグラフについて考えるとき、このグラフの「時間軸」についての前提を確認しなければいけないことは、必須のことと思われる。
 さらに詳しくは、拙著「開業医心得」も参照。
 
(注3)  ユマニチュードの諸文献
 
(注4)https://president.jp/articles/-/33053?page=2

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