見出し画像

[連載9]アペリチッタの弟子たち~問診評②~依存症という謎/数値化に人間は適応できる生き物である

毎晩夢にでてくるようになった魔法使いアペリチッタの書いた本、という体裁で語られるこの連載は、ことば、こころ、からだ、よのなか、などに関するエッセーになっています。

この連載のAmazonリンクは アペリチッタの弟子たち | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon

その他の、こじこうじの作品へのリンクは
    太陽の秘密 | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon
    アベマリア | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon

   Youtubeに紙芝居絵本「ものほしざお」があります
    https://youtu.be/iGRwUov3O74?si=bH2ZszSCB6b6fquq 
      
             *

3 依存症という謎
 
 クリニックでの診療のひとつに「禁煙外来」とよばれているものがある。
「禁煙外来」という名前があるが、感冒や皮膚炎の患者に混じっての診察である。やることは、単純で「チャンピックス」というのみ薬を3カ月間に5回にわけて投与するだけである。
 禁煙に立ちはだかる壁は主に二つある。
 一つ目の壁。それは、ニコチン依存症の人が、ニコチンが切れた直後1ヶ月続く、「禁断症状」で、イライラ、動悸、などが強くなりそれを解消すために、タバコをまた吸ってしまう。タバコを吸う変わりに、ニコチン製剤というニコチン入りのガムやはり薬をつかうと、それによりニコチンを補充することで、タバコを吸わずにいることができる。だが、問題は、そのニコチン製剤をやめるときに、「ニコチン切れの禁断症状」がおきることである。
 ところが、チャンピックスは、ニコチンの置き換えの力があり、さらに、チャンピックスをやめるときに「ニコチン切れの禁断症状」がおきない不思議な薬なのだ。なぜ、そうなるのか?は実はよくわかっていない。
 とにかく、一つ目の壁は、チャンピックスのおかげで、多くの人がクリアできる。
 問題は、二つ目の壁で、それには薬はない。
 チャンピクスで3ヶ月禁煙の続いた人も、約半数のひとが1年後には、またタバコを吸うようになる。
 この割合は、覚せい剤や合成麻薬の再犯率とほぼ同じである。
 つまり、喫煙は、麻薬と同様、「依存症」、ニコチン依存症なのだ。
 この二つ目の壁がなぜあるか?やめても、なぜ多くの人が「再犯」してしまうのか?詳しくはわかっていない。
こ の時期の喫煙衝動は、禁断症状ではなく「衝動的」なものなので、「アンガーマネージメント」での怒りの衝動をやり過ごす方法が、応用できる可能性がある。それは、怒り(あるいは、タバコを吸いたい)という衝動が生じた時に、深呼吸したり、1から10まで数えたり、他のことを考えたりして、その衝動を「やりすごす」というものだが。
 依存症。
 そこには、覚せい剤や大麻などの薬物、ニコチンだけでなく、睡眠薬、風邪薬、アルコールの依存症もはいってくる。
 それがおこる原因を説明するのに、「快感記憶」が消えずに残っているから、と説明されることがある。
 
 さて、認知症という記憶障害の研究者が、記憶について、次のような仮説をたてている(注3)。
 
 記憶には、意味記憶、自伝的記憶、手続き記憶、感情記憶の4種類がある。
 意味記憶とは、たとえば、「太平洋は世界で一番大きな海だ」というような、体験ではないが「意味」のあるものだ。自伝的記憶は「その海に昔行った体験」を思い出すこと。「泳ぎ方」の記憶が手続き記憶。そして、感情記憶はたとえば「海風にふかれて心地よく思うこと」とでもいおうか。
 意味記憶と、自伝的記憶は、言葉にできる(顕在記憶)もので、認知症では失われやすい。たとえば、「この人は自分の息子だ」(意味記憶)、「自分は昼ごはんを食べたかどうか」(自伝的記憶)、など認知症では忘れてしまうことがある。
 一方、手続き記憶と、感情記憶は、言葉にしにくい記憶(潜在記憶)だ。
もっとも、手続き記憶も、複雑なもの(ピアノの弾き方、車の運転のしかた、料理の仕方など)は、単純なもの(歯の磨き方、手の洗い方、トイレのしかた、など)に比べると認知症が進行すると早く忘れられていくけれども。 
 感情記憶は定義がむずかしいが、『知らない人でも優しく接してもらったら安心する』といった、倫理的な反応も中に含んでいる。
 そして、「記憶のうち、意味記憶・自伝的記憶・手続き記憶は、劣化する。だが、感情記憶は最後までのこる」と彼らは主張する。
 
 この仮説をもとにすれば、介護施設において認知症をもつ利用者さんの、不隠(大声をあげる。いうことを聞かない、など)や異常行動(便いじりなど)について、優しく接すること(遅い行動やできない行動に対して、怒らない、どらない、せかさない)でそれらをずいぶん減らすことができることを説明できる。
 ただし、この基本的なことが、必ずしも、多くの介護現場で気をつけられているか?というのは別問題だ。実際の介護現場でおざなりになっていることは多いし、実は、そのことを、介護士たちに伝えること自体がとても難しいというのが実態だ。
 教科書的な堅い表現をすれば、「ハンディのある高齢者たちに対しても、人間としての尊厳を認めながら接しましょう」といったところなのだが。
 実際の現場では、たとえば入居者のベッドの背もたれを電動ベッドであげるとき、深く腰をあてていないので、とても苦しい姿勢にもかかわらず、その様子を観察せずただ背もたれをあげて仕事がすんだつもりでいるような介護士が決して少なくないのだ。
 人手不足、教育不足で、「利用者さんの、遅い行動やできない行動に対して、怒らない、どらない、せかさない」は、わかっていても、「仮想現実」となっているのが実際だ。
 
 話をもどそう。
なぜここで、「認知症で感情記憶は最後まで残る」という話をもってきたか?
 それは、依存症の原因かもしれないとされている「快感記憶」は、この「感情記憶」のひとつとして記憶されているのではないか?と思われるからだ。
 そして、さらに、おそらく、「快感記憶」と反対の「不快感記憶」=トラウマ、もこの感情記憶に残るのではないか?
 たとえば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)は、この例だ。
「やさしさ」「安心」「快感」だけでなく、「トラウマ」「絶望や憎悪」も感情記憶として最後まで残るのではないか?
 
4 数値化に人間は適応できる生き物である
 
 国民皆保険という日本の医療制度を支える中心は、「診療報酬」の数値化である。
 これは、日本の官僚がつくった日本独自の発明品で、おどろくべき細かさで、「本来数値化ができない人間の活動」を数値化している。それを、つくりだしたことは、ある意味すごいことである。しかし、その中立性という正の面だけでなく、その負の面もしっかり意識していかないことには、その運用は失敗となる。
 この、アクロバット的な中立性は、例えば、小さな病院や大きな病院、都会と田舎、あるいは研修医やベテランといった、時間的空間的な条件の異なる医療行為も同じ医療として扱うこととしている。
 一般的に、このような中立性は、常に正負両面をもつ。例えば、お金について、「愛はお金で買えない」と非難される。一方、恨みがお金で(とりあえずであっても)解決されれば、憎しみの連鎖を断つことができる。
そして、医療、介護制度も、このような、お金の持つような「解決方法の提供」を可能にする。
 だが、ほとんどの医療に関する矛盾は、もとをたどれば、この「数値化できないものを数値化している」という中立性に行きつくと思われる。
 この視点なしには、医療の矛盾を問いただす論調は、すべてひとりよがりのものとなるだろう。
 医者は、病気の話を、プライベートですれば、もちろん無料だ。だが、診察室で同じ話をすると、料金が発生する。そして、それは、経験ある医者でも、そうでない医者でも、同じ料金である。
 あるいは、例えば、ヘルペスに対する抗ウイルス薬は1カ月に7日以上だすと、それ以上の日数の薬に対して医療保険による割引(保険診療)が適応されない、と一律に決められている(話がめんどうなので、「禁止されている」と説明しているが)。一方、実際には、なおす力のない抗がん剤は、効果がなくても、長期の投与に制限はかからない。
 胃のピロリ菌の除菌治療。抗生物質を1週間のんで除菌をおこなう。だが、事前に胃内視鏡検査をうけていると、医療保険で7割分の金額は補助される。だが、事前に胃内視鏡をやっていないと、全額自費となる。
 医学と医療は、必ずしも一致しないのだ。
 この「数値化できないものを数値化している」診療報酬という制度の延長線上に、「加算」をすることで、医療の「誘導」をする、という考え方が、日本の医療制度にはある。
 例えば、5年ほど前に、在宅医療参入をする医者を増やすために、在宅医療をおこなうと、非常に高い医療報酬をえられるように「診療報酬」が設定された。そして、在宅医療に参入する医師が増えると、その「診療報酬」は減額された。
 「加算」を設定することで、日本の医療を誘導する。誘導成功後は、その「加算」を取り消す。
 これは、ある意味奇妙なことである、という感覚はもつべきだと思う。
 加算・減算といった損得とは別のところに、医療の本質はある、と考える「へそまがり」はいないのか?
 この「誘導」は、医師だけでなく、看護師、あるいは医療スタッフにも浸透していて、時に、みえない「法律」とまで考えられている。
 たとえば、一般に、「1ヶ月以上は、大きな病院に入院できない」という規則があるかのように思われている。だが、1ヶ月以上の入院は、法律によって禁止されていない。1ヶ月以上たつと、その病院の入院にたいする報酬が半減するだけだ。つまり、1ヶ月以上の入院ができないのでなく、病院の収入が減るので、病院の都合で、出て行ってもらいたいだけなのだ。
 だが、実際は、ルール違反のように、病院側から、まるで入院患者が法律に触れる「悪いこと」をしているかのようにいわれる。また、そういう言い方をされる。そして、患者側も、医療提供者側も、それで納得している。
 病院の収入が減るから、退院してもらえませんか?と、正確にいってほしいと思うのは、おそらくぼくのような「へそまがり」だけであろう。
 
 人間の労働を時給で表現することは、もうわれわれにとって当たり前になっている。
 ただし、仕事内容によってその数字は異なる。さらには、同じ仕事でも人の能力やキャリアによって数字は異なる。
 一方、医療制度においてはこれとは違って、能力によらず同じ行為に対して同じ数字が与えられる。
 ここではその善悪を問うつもりはない。
 むしろ、医療制度においては、人の労働という一般的な活動を「時間」で表すだけでなく、「労働」よりさらに具体的なひとつひとつの行為についてさえも、一歩踏み込んで、数値化していることに注目したい。
 そして、それらに対して、人間が適応していけることに注目したい。
 自分が、あるいは自分の行うことが、社会によって数値化されることに、人間は慣れることができる、適応できるのだ。
 だが、適応できることが、すなわち、人間の行動を数値化することが正しい、というわけではない。
 むしろ、適応できることが、社会制度のもつ問題点を覆い隠してしまっていないか?
 人間は、社会に適応し、戦争で殺人をおこすこともできるくらい適応能力が高いのだ。
 だから、やろうとすればできることが、正しいこととは限らないのだ。
 
 介護報酬も医療報酬のように、その介護行為が「点数」化されている。医療行為に比べると、それは単純で、大きく、生活援助、身体介護にわかれる。
 だが、実は、介護の基本、高齢者と会話する、優しい言葉をかける行為、は介護現場でどんなに頑張っても「介護報酬」として数字にならないのだ。
 お金にならなくても、当たり前だからやる、と言う風には、残念ながら人は必ずしもならない。
 むしろ、介護報酬にならない、そんな声掛けは「無駄」という風潮が、介護現場にどんどんひろがっていないか?
 また、介護報酬として制度として設定されている金額が低く設定されているのも問題である。
 訪問介護は、1時間の介護報酬が2700円でしかない(同じ行為を看護師がすると、その看護報酬は2倍の5400円。また、同じ行為ではないが、医師の場合は1時間で、介護士の4倍くらいの医療報酬が提供される)。
 介護士の時給1000円x2.5時間=2500円。もし、訪問先の家が、遠く(?)にあると考えよう。往復の時間や準備時間を考えると、実際は、1時間の訪問介護に要する時間は、2.5時間くらいだろう。そうすると、2500円は、介護士の時給で相殺されてしまう。
 これらの問題が、間接的に、介護士の量の不足、質の低下に悪影響を与えている可能性は大いにある。
 
 開業医になると、地方自治体の開催する、「要介護度認定委員会」に出席する機会がある。
 ここでも、人間の行動は、細かく数値化されている。
寝起き、おきあがり、坐位保持、両足での立位、歩行、立ち上がり、片足での立位、洗身、爪切り、嚥下、食事摂取、排尿、排便、口腔清潔、整髪、上衣の着脱、ズボン等の着脱、外出頻度、被害的、作話、感情が不安定、昼夜逆転、同じ話をする、大声を出す、介護に抵抗、落ち着きなし、独りで出たがる、収集癖、物や衣類を隠す、独りごと一人笑い、話がまとまらない・・・。
 介護経験がばらばらな調査員が、これらの、ランダムな評価項目について、主観をまじえて、チエックをいれ総合するだけで、コンピューターは、要支援1,2から要介護1~5まで、その人の要介護度を、意外に妥当な線ではじきだしてくれる。
 われわれ、「要介護度認定委員」は、そのコンピューターのはじきだした結果が、大きくまちがっていないか?みるのが主な仕事である。
 つまり、「要介護度認定」の判定の主役は、既に、この10年以上、コンピューター(AI)なのである。
 もちろん、この10年間、AIは、われわれ、「要介護度認定委員」が、コンピューターの判断が間違っていると訂正した、そのデータも参考にして、年々その「要介護度認定」の精度を高めている。
 と、いいたいところだが、実際のところ、その精度は、年を追ってもかわっていない、というのがぼくの印象だ。
 さらに、他にも問題がある。
 家から、高齢者施設に入居すると、その高齢者の要介護度があがる傾向がある、のだ。これは、高齢者施設では、介護の効率性を優先するために、その高齢者が或る行為に時間を要すると、「待たずに」、途中から、あるいは、最初から、かわりにやってしまう、ためだと考えられる。
 
 今までのべてきたことを、もしかしたら、人間の医療行為や看護・介護行為、あるいは高齢者の要介護度を「数値化」できたという成功例として評価する見方もあるかもしれない。
 どんなものも、客観的な指標というものは、必要なことだ。たとえ、少しゆがみがあっても、すべての人が納得する制度をつくることは無理なのだから、比較すればこれが最善である。
 そう役人とか偉い人はいうかもしれない。
 良い悪いは、いうのが難しい。
 ぼくもわからない。
 だが、これは、成功例といっても、無条件で成功したのではないことは確かだ。
 今の社会にいる人間が、その「数値化」に、「社会性を発揮して」自分の「行動や考え方をあわせた」から、成功したかのようにみえているだけだ。
 これは、AIは間違えない、というようなものだ。
 AIは間違える。
 でも、「AIの間違いを間違えていないとする」間違いを、人間が犯すので、「AIは間違えないかのようにされる」だけだ。
 
 一連の5G導入の流れは、止められない。
 5G技術は、空間を超えて、声や文字を伝える電波やインターネットの延長線上にあり、伝える情報量と速度が増えることにその新しさがあるという。
 まだ、見ぬものについては、人はいろいろなことが言える。今の、世の中の声の大勢である、伝える情報量と速度が「爆発的に」増えることにより社会の革命がおこるというものもその例だ。
 だが、本当の革命は、空間を超えるだけでなく、「時間を超える」ことにあるのではないか?
 タイムトラベル。
 いずれにせよ、そんな議論はおいておいてもいいことだ。つまるところ、5Gが、本当に人の活動に役立つものかどうか?は時間が選別していくはずだから。
 たとえば、5G技術による未来絵の中に、遠隔医療でロボット手術がおこなえるようになる、というものがある。
 もともと、一連の治療行為の中で、手術をおこなう外科医はロボット(いいかたがわるければ職人)である。ロボットがいくら優秀でも、治療はうまくいかない、ということは既にわかっている。なぜなら、いくら手術が上手な外科医がいても、その治療はうまくいくわけではないことは既に経験しているからである。
 もう一言いえば、外科医あるいはロボットが多少優秀でなくても、結果はかわらない。手術は、芸術作品とは違い、手術後、人の創傷治癒能力という自然の力が、手術の不足分を補い、過剰分をなかったものにする。実際、それなりの経験をつめば、手術の善し悪しは、治療効果に影響は与えない。
 問題は、外科医やロボットを支える、周りの医療スタッフなのである。遠隔医療の問題を解決するのに、遠隔手術ができるロボットが寄与するというのは、ピントはずれだ。
 その他、5Gにより、いろいろなことが「便利」になるという。人手不足が解消し、効率性がたかまり、生活が豊かになるという。
 人間は、いろいろなことに慣れることができるから、5G技術を介した生活に適応することはできるかもしれない。
 でも、それが、本当に便利かどうか?
 それは、歴史がきめていくだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?