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自伝的小説 『バンザイ』 第三章 ドアをノックするのは誰だ?

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 真夜中。外を走る。息を吐き、そして吸い込む。首筋には汗。イヤホンからはロックが流れる。最近はこのバンドばかり聴いている。ドラムが頭おかしいくらい上手いスリーピースバンド。自分の呼吸音すら聴こえなくなる。BPMに合わせて、順番に足を蹴り上げる。しばらくすると、赤信号にぶつかる。呼吸を整え、ストレッチで身体をほぐす。音楽と向き合い、自分と向き合う時間。

 走ると自分の弱さが浮き彫りになる。負けじと足を前に出す。一日十キロ走ることは、そんなに大変じゃない。しかし毎日続けるのは至難の業だ。なるべくたくさん走りたい。走るのはとても気持ちがいい。ドラマーは身体が資本だ。鍛えておいて損はない。どんな楽器よりも体力を使う。ステージに立つ人間は、デブであってはならない。それは敗北を意味する。ある大物ミュージシャンがそう言っていた。確かにそうかもしれない。

 僕はタバコを吸わないし、一人では酒も決して飲まない。ストイックな生活は嫌いじゃない。健康的な方が身体がよく動く。食いすぎたり飲みすぎたりすると、すぐにポンコツになる。身体は正直だ。だから僕は走っている。憂鬱な気分も一発で解消される。走ることによって、脳内にドーパミンやらセロトニンやらが分泌されて、ハイになるらしい。憂鬱はガソリンにもなるけれど、ただの重りになってしまうこともある。

 そんなに走れてすごいね、なんて言われるけれど、慣れれば大したことはない。中学生の頃からマラソンは得意だった。Mなら十キロなんて余裕。フルマラソンを走る奴なんて、みんなマゾに決まってる。僕はドが付くほどのMだ。耐えて耐えて抜いて、その先にはゴールという名のご褒美が待っている。でもなんかそれって、普通の会社員とかと同じみたいで嫌だな、なんて。

 思考が巡る。脳ミソが回る。ぐるぐるぐるぐる。
 嗚呼、走るのは気持ちがいい。
 このままずっと走っていたい。
 どこまでもどこまでも、走り続けていたい。

 両耳のイヤホンからは、鳴り止むことなくロックが流れて続けていた。


「一週間後に俺の企画があるんだけどさ、よかったら軟弱金魚も出てくれない?」

 蒲田のライブ終わり、駅に向かって歩いてる最中だった。ちょうど二人きりになったタイミングで、千鳥足のヒデさんが、真っ赤な顔をしながらそう言った。

「一週間後ですか? 俺は大丈夫ですけど……、他のメンバーは、ちょっと聞いてみないとわからないですね」

 普通ライブというものは、一ヶ月以上前には決まるものなので、あまりにも唐突な誘いだった。

「厚木にあるライブハウスなんだけどさ、トップスよりは全然でかいハコだよ。俺その辺が地元なんだけど、結構有名なとこなんだよね」

 フラフラ歩くヒデさんは横顔は、少し誇らしげだった。

「轟音祭って名前の企画なんだ。もう次で七回目とかかなー。昼前からスタートで十バンド以上出るよ。もちろん喧嘩屋もやる。俺はもう今日以上にめちゃくちゃに飲むし、みんなにも飲ませるつもりだよ。なんかあったら全部俺が責任取る。だから頼むよ、いいハコだし、みんに軟弱金魚観てもらいだいんだよ」 

 実に彼らしい嬉しい誘い文句だ。

「そこまで言われたら断われないっすよ。わかりました。またすぐ会うんで、その時みんなに訊いてみます。無理かもしれないですけど、なるべく良い返事出せるようにします」

 僕がそう言うと、フラつきながら彼は、よろしく! と親指を立てた。

「っていうか十バンド以上ってすごいですね。もうフェスじゃないっすか」

 僕の言葉に、そうそう! と声を荒げた。

「そうなんだよ、フェスなんだよ。俺はみんなが酒飲んで遊んで音出して楽しめる、フェスみたいなことがやりたいんだよ」

 ヒデさんは上機嫌だった。なんだか大変な人と出会ってしまったみたいだけど、悪い気はしなかった。そうこうしているうちに駅の改札に着き、僕らは連絡先を交換して別れた。


 三本の紫煙が揺れる、都立大学駅近くの音楽スタジオ三階ロビー。名はスタジオヒノーズ。
 ここで僕らは週二のペースで練習をしている。僕以外のメンバーは高校時代から使っているらしく、練習はここじゃないとやりたくないと言っている。休憩時間にヒデさんからの伝言を伝えた。

「楽しそうだし、いいんじゃない?」

「めちゃくちゃ飲ませるとか望むところだわ」

「ヒデさんの企画なら出るかあ、俺あの人のこと嫌いじゃないし」

 ホシくんもカメもクボタも、概ね同じ意見のようだ。スケジュールの調整も、なんとかなりそうだった。

 三人とも融通が利く仕事をしている。クボタはスーパーで魚の調理、カメは実家の不動産屋の手伝い、そしてホシくんは、ここスタジオヒノーズで店番をしている。      
 従業員がやっているバンドはスタッフ割引きが効くので、僕たちのスタジオ料金は、なんと毎回半額なっている。僕ら貧乏人にとっちゃ神のシステムだ。スタジオヒノーズ万歳だ。

「よし、じゃあ出れますって連絡しとくわ。俺はみんなが大丈夫なら出るつもりだったから」

 ヒデさんに出演OKの旨を連絡し、五日後にライブが決まった。厚木という、行ったこともない神奈川県の街だ。

 いつもは僕は、休んでる時間がもったいないので、休憩なしでドラムを叩き続けている。しかし、こういう話がある時は別だ。僕以外の三人は喫煙者なので、一時間に一回は必ず一服を入れている。狭いロビーに、煙が畝りながら充満している。

「んじゃ俺、先に戻ってるわ」

 そう言い残し、僕はスタジオへ戻った。

 オレンジ色の少し薄めの防音扉を二枚開けると、七畳のスペースに、アンプやドラムや弦楽器たちが、半ば無理矢理詰め込まれている。

 カメのギターから伸びたケーブルは、直接アンプに刺さっており、クボタのギターにはオレンジ色のディストーション、ホシくんのベースには紫色のエフェクターが噛まされている。どこかのアンプから、ジーっと小さなノイズが漏れる。僕がセッティングしたドラムは、まるで叩いて欲しそうにこちらを見ているかのようだ。

 椅子に座り、頭の中で曲を流す。細かい音まで綺麗に再現される。それに合わせてドラムを叩く。一人でいる時はよくこのやり方で練習している。メトロノームを用いた練習法も存在するが、僕はあまり好きではない。もっと人間味のあるやり方がいい。
 リズムなんて、少しズレてるぐらいが丁度いい。リズムキープに気を取られてすぎて、つまらない演奏になってしまったら本末転倒だ。己がゼロから生み出したリズムで、メンバー引っ張っていく。まるでオーケストラの指揮者のように。

 演奏を支配しているのはビート。つまり、ドラムがバンドサウンドの核となる。電気も使わず、身体全体を使って音を鳴らす楽器。魂や力を込めれば込めるほどいい音が鳴ってくれる気がする。だからこそ、日々の鍛錬は欠かせない。

 スタジオの防音扉がゆっくりと開き、三人が笑いながら入ってくる。何か楽しいことでもあったようだ。彼らは元々、高校の友達から始まっている。僕は彼らとライブハウスで出会った。
 疎外感がなくはない。でも大丈夫。今更そんなこと気にしない。やらなきゃならないことをやるだけさ。

「よーし、新曲完成させちゃおう」

 一旦切れた集中力を取り戻すべく、僕は大きな声を出した。

 三人は楽器を手に取り、円陣を組むかのように向かい合った。今日は久しぶりに、クボタが新しい曲を持ってきたのだ。クボタはなんだかんだでいい曲を作ってくる。どうやって生み出しているかは知らないが、高校生の頃からオリジナルをやっていたのだから、やはり天性のものなんだろう。

 この才能を生かすも殺すも、きっと僕次第だ。いくらすごいものを持っていても、磨かなければ光らないし、見つけてもらえなければ価値がない。このバンドをすごいところまで持ってかなければならない。そしてなんとしても、作品をこの世に残したい。
 バンドはメンバー全員でカッコよくするもんだ。ホシくんとカメをなんとかしなければいけない。クボタもまだまだ甘いし、僕もそうだ。今のままでは弱い。僕がこのバンドを、指揮者のようにコントロールしていかなければならないんだ。

 僕はそんなことを考えながら、新曲のドラムを叩いた。ああでもないこうでもないと、案を出し合いながら、少しずつ曲を自分たちのものにしていった。


「コジが言ってることもわかるけどさ、自分一人じゃできないことなんだから我慢も必要だし、協調性をもたないとダメだよ。俺はメンバーのことすげー大事に思ってるし、感謝もしてるし、話し合いもよくするよ。見返りがなくても、思ったように活動できなくても、全部自分が悪いと思ってその分努力する。周りを変えるんじゃなくて、自分が変わればいいんだよ。自分がすごい奴になってしまえば周りに頼らなくてもいいし、みんなをすごいところまで連れてけるじゃん? いくら頑張っても頑張り足りないし、毎日続けても中々成果はでないけど、それでもやるしかないんだよ。コジはきっといいもん持ってるし、俺よりも全然若いんだから大丈夫だって」 

 受付の向かいにある赤いベンチに座り、たくさんの言葉を投げかけてくれる。

「そうですかね……。いやー、頑張りたいです」

 今まで出会った人の中で、一番尊敬している人。そんな人が同じ職場にいるっていうのは、本当に奇跡だと思う。

「まぁ今の音楽業界に期待しても、あんまりいいことはないかもしれないけどね」

 そう言いながら小さく笑うエノさんの表情は、どこか悲しげだ。

「メジャーの世界も、厳しいですか?」

 と、思い切って聞いてみた。

「そりゃそうだよ。うちのボーカルだって牛丼毎日作ってるし、ベースだって日雇いのバイトだし、俺だってここでたまに働いてるじゃん? まぁ俺は副業があるから楽な方だけどさ。バンドだけの収入なんて、本当に微々たるものだし、今はどこもそんな状態だと思うよ。解散するバンドも最近多いしさ。いよいよ本当に、好きな人しか残らない世界になってきてるよ。最近ここの客も減ってるでしょ? 大学生のコピーバンドがいなかったら、たぶん潰れてるレベルだよね。目には見え辛いけど、水面下ではどんどん浸食が進んでるよ。まぁだからこそ、チャンスだと思うんだけどね」

「チャンス……」

 僕が独り言のようにそう呟くと、エノさんは続けた。

「こんなに世知辛くて食えない時代だからこそ、できる音楽があると思うんだよね。誰かの光になるようなさ。人間ってのは何かに頼らないと生きていけないわけで、それが宗教だったり、恋人だったり、お金だったりするんだけど、音楽って人もたくさんいるんだよ。そんな人たちもこの現状を見て、もうすごいバンドなんて現れないんだ、って高を括って、昔の音楽しか聴かなくなったりしてさ。でも、だからこそ、今が本物の音楽をやるチャンスなんじゃないかって思う。メジャーでドラム叩かせてもらってて、本当に色んな現場で経験させてもらってて、それがめっちゃくちゃ勉強になってるんだよね。その学んできた事を全部、メインのボーカルのバンドに持ってきたら、すごいことになるんじゃないかって思ってる。その為に今ドラムをやってるって言っても過言じゃないよ。やっぱり俺の中で重要なのは、あくまでも歌と言葉なんだよね。よりよく歌う為にボイトレにも通ってるし、小説のストーリーを書くのも音楽に直結してる。俺はいくらでも努力はするし、メンバーもすごい人たちだからさ、全部が上手いこと噛み合っていったら、本物の音楽ができるじゃないかって思うよ。それが誰かの光になればいいなって」

 圧倒されて、言葉が出てこない。

「なるほど……。やっぱりエノさんって、本当にすごい人ですね。すごすぎてついていけてませんけど、それだけはわかります」

 首を横に振りながら、いやー、エノさんは言った。

「俺も全然まだまだなんだけどさ、もう少しだけ色々やってみるよ。こんな状況でも、音楽の力は信じてるからさ。一番人に熱が伝わる表現って音楽だと思うから」

 この人みたいになりたいと、心から思う。こんな人が身近にいて僕はラッキーだ。彼のエネルギーは一体、どこから湧き出てくるのだろうか。

「じゃあ、俺はこれから打ち合わせがあるから」

 そう言うと、エノさんは真っ直ぐ立ち上がり、店の外へと消えていった。僕はスタジオの受付で、ぼんやりと彼の言葉を反芻していた。

 メジャーデビューしているバンドでドラム、もう一つのバンドではギターボーカルと作詞作曲、さらに小説まで執筆していて、小さな賞を獲ったこともあるそうだ。数年前にアメリカに留学経験まである。
 出版社から校正などの仕事をもらい、メジャーバンドでの収入もあるので、ここで働くことはそんなに多くはない。いつも忙しなく動き回っていて、休みなんか全くないように見える。だからこうして、話を聞かせてもらえる時間はとてもありがたい。

 元々人の話を聞くのは好きだけど、エノさんの話は次元が違うというか、宗教の教えのようなものだと思っている。とても勉強なるし、彼のエネルギーみたいなものを、直接頂いてる気がする。僕が今ストイックな気持ちでいられるのは、彼の存在が大きい。かなり影響を受けているし、本当に心から尊敬できる稀有な存在。

 彼から色んなものをどんどん吸収していきたいし、自分も誰かに尊敬されるような人間になりたい。これで年齢が四つしか変わらないっていうんだから、本当に開いた口が塞がらない。


 時刻は深夜二時を回り、そろそろ部屋の掃除を始める頃合いだ。スタジオにはもう誰もいない。あとは飛び込みで個人練習が来るか来ないかといったところ。

 業務用の大きな掃除機を持って部屋に入る。
 好き勝手に移動されたアンプを定位置に戻し、コードをぐるりと巻き、取手の部分にしまい込む。ついでにツマミの数字すべてゼロにする。シンバル類を一旦退けて、ドラムについた木屑をハケで払い落とし、汚れた黒いゴムシートに掃除機をかける。鏡に汚れないかチェックし、指紋があれば綺麗に拭き取る。ミキサーを初期設定に戻し、コンポ類の電源も落とす。付けっぱなしにされたエアコンを切り、椅子や扇風機やリモコン等の全ての備品を綺麗にセットする。

 これで一部屋完了。
 あとはこれを十回繰り返すだけ。部屋数は十一と、都内のスタジオの中でも多い方だ。しかしこの時間帯は客が少ないので、急げば一時間程度で終わわってしまう。そこからはもう、何をしようと自由だ。

 他の部屋の掃除を終え、電話の子機とスティックだけを持って、1スタジオに入る。照明を薄暗くすると、防音扉の黒いセロハンが貼られた窓から、ぼんやりと受付が見えるようになる。これで急な来客も怖くない。僕はいつものように、エイトビートから叩き始めた。

 不安や焦燥感は、行動することで解消される。僕にとってそれは、ドラムを叩く、走る、ノートに文字を書く、この三つだ。これさえやっていればなんとかなる。不安に押し殺されなくて済む。真正面から向き合ってしまったら、確実にやられてしまう。逃れる方法はない。紛らわすしかない。例え一瞬消えたとしても、またすぐに新しい形となって生まれ変わる。だからなんとかして、紛らわせ続けるしかない。
 そこらにいる人々は楽しそうに見える。ゲラゲラと大声で笑っているし、余裕を持った顔をしている。なぜそんな風に生きれるのかわからない。僕は普通に生きるのが怖くて仕方がない。何もせずにはいられない。何もしなかったらやられてしまう。だから音を鳴らす。勤務中だろうと関係ない。楽しいかどうかなんて最早どうでもいい。でかい音で掻き消してしまえばいい。
 いつか死ぬ。いつか絶対死ぬ。死ぬのなんて怖くない。生きるていることの方が、僕にはとっては何倍も恐ろしい。でもその前に、くだばってしまう前に、やらなきゃいけないことがある。どうせ死んでしまうんだから、ボロ雑巾のようになるまで無茶し続けろ。走り続けろ。死ぬ覚悟があるなら、なんだってできるはずだ。
もうすぐ消えてしまうから。命なんて簡単に終わってしまうから。その前に。それまでに。

 朝が来るまで、音を鳴らし続けた。



 厚木に辿り着くまで一時間以上かかった。東京に住んでいる僕らには少し遠すぎる距離。都会よりも空が広く、雲一つない快晴が広がっており、蝉もたくさん鳴いている。
 夏だ。どうしようもないほど暑く、気だるい夏の朝。この季節がやってきてしまった。

「なんだあのコンビニ? あんなの見たことねーぞ」

 柄入りのシャツにダボっとしたズボン。メガネをかけたカメが言う。

「てかさっきクッキーの自販機あったんだけど、やばくね? なんだよあれ」

 黒い洋楽のバンドTシャツに、半ズボン姿のクボタ。二人はいつにも増して、和気藹々と楽しそうだ。僕はこういう空気が少しくすぐったい。

「入ろうよ。たぶんここが一番近いコンビニでしょ? 飲み物とか買って行こうよ」

 真っ赤なTシャツに真っ赤な帽子、首にタオルをぶら下げた少年のようなホシくんがそう言い、みんなで青い看板の謎のコンビニに入った。

 都内のコンビニでは見ることのない、スーパーにあるような、食品むき出しの惣菜コーナーが店の真ん中に構えられていて、なんとも奇天烈だった。僕は水だけを買い外に出た。他の三人は惣菜やら菓子パンやらを物色している。彼らはライブ前でも普通に食事を取ることが多い。僕には考えられないことだ。

「なんかバンドマンっぽい子たちがいるね」

 外で待っていると、ホシくんが話しかけてきた。

「あの子たちも轟音祭に出るのかなー? 明らかに高校生に見えるよあれ。めっちゃ酒飲ませるとかヒデさん言ってらしいけど、ライブハウス的に大丈夫なのかな?」

「わかんないけど、大丈夫なんじゃない? まぁさすがにライブハウスに警察とか来ないでしょ」

 水を飲みながら僕は答えた。

「高校生前だろうとなんだろうと、とりあえずいつも通りやるしかないっしょ」

「そうだよね。十バンド以上いるってことは人がたくさんいるってことかな? 楽しみだなあ」

 いつもと変わらない、ゆるりとした空気感の彼に少し安堵する。胸は静かに高鳴っていた。緊張はしないが、鳩尾のあたりがギュッと熱くなる。戦いに行く前の格闘家のような、遠足前日の子供のような、そんな心境。

 これをあと何度味わえるだろうか。何度味わったら満足できるだろうか。飽きることはきっとないと思う。飽きている暇なんてない。僕はライブの日が来る度に、今日で死んでもいいと思っている。死んでカッコよくなるなら、こんな命いくらでもくれてやる。
 やるしかない。命を失っても後悔のないように、全身全霊を込めて。

 コンビニから少し歩くと、ライブハウスに着いた。スタジオが併設している特殊な作りだ。中はかなり綺麗になっていて、入り口にでかでかと「禁煙」の文字。今の時代、ライブハウスですらこうなのだ。
 重い防音扉を低い音を立てて開けると、やはりライブハウス特有の、あの匂いした。

「おー、お疲れー。待ってたよー、軟弱金魚」

 ヒデさんが上半身裸で現れた。もうすでにアルコールが入っている様子。片手にはウイスキーの瓶。
 ライブがもう既に始まっていた。時間はまだ午前十時過ぎだ。

「この子たちはまだ高校一年生なんだ。今日が初ライブで、もちろんコピーバンドだよ。めちゃくちゃ下手でしょ?」

 ヒデさんがユラユラ揺れながら、嬉しそうにそう言った。確かにびっくりするほど下手くそだ。

 ギターは弦の押さえが甘いのかペラペラな音で、ドラムは度々手を止めてしまっている。ベースは余程緊張しているのか、直立不動でぎこちない。一番まともなボーカルは、なんだかカラオケのノリそのもので、本当に初めてステージに立った人たちという感じだ。
 しょうがない。僕らも昔は、似たようなものだったはずだ。

「とりあえずなんも気にせず楽しんでってよ。酒もその辺にたくさん置いてあるし。責任は俺が持つからさ。ライブ楽しみにしてるよ」

 そう言い残し、ヒデさんはフロアの人だかりの方へ行き、大きな声で笑っていた。周りを見渡すと、ステージや客席がトップスの倍以上あり、天井も高い。高校生や大学生に見える若い子。僕らと同じかそれ以上に見えるバンドマン風の人たち。まだ早い時間にも関わらず、それなりに人がいた。

 荷物を置く為に楽屋を開けると、既にそこは荷物で溢れ返っていた。楽器や鞄に服、食べ物とビニール袋。飲みかけのペットボトルが転がり、ストローの刺さった紙パックジュースと酒の缶が、そこらじゅうに置いてあった。まるでゴミ箱をひっくり返したかのように、様々な物が散乱していた。奥の方では、制服を着た高校生の男女グループが、キャッキャと練習をしている。
 なんだこれは? まるで文化祭みたいじゃないか。こんな子たちどこで集めてきたのだろうか? ヒデさんは一体何者なんだ? そう言えば僕らはまだ、あの人の事をほとんど何も知らない。

「なんか若い子ばっかじゃね? おじさん狙っちゃっていいの?」

「高校時代思い出すなあ。燃えてくるわー」

 クボタとカメは相変わらずの調子である。
 確かに燃えてくるのはわかる。ただ僕は男子校出身の為、こういう状況には慣れていない。変に力が入ってしまう。
 思い返すと、男だらけの学園生活はロクなものではなかった。貴重な思春期の三年間をドブに捨てたと言ってもいい。異性がいるかいないかで、日々の生活は恐ろしいほど豹変する。男女の楽しそうなグループを見て思うことはただ一つ、「くたばっちまえ」、これしかない。
 あいつらを何とか見返す為に音楽を始めたのだ。やかましい音を食らわせて、そのあまりの衝撃に、奴らはなす術もなくひれ伏す。合法的にあいつらをくたばらせるにはこれしかない。
 復讐だ。未だに色褪せることのない、僕の大きな原動力だ。

 楽屋に荷物を無理矢理置き、フロアに出てみると、聞き覚えのある曲が演奏されていた。

 テンポの速いツービートに、耳に残るギターリフ、メロディックな英詞、そしてベースボーカル。
 高校の学園祭で、必ずと言っていいほど演奏されるバンドの曲。僕もそうだし、クボタたちも例外じゃないはずだ。そして今、僕らよりも大分年下であろう子たちが、その曲を演奏している。こうやって音楽というのは、脈々と受け継がれていくものなのかもしれない。
 知らない人に自分の音楽を演奏されるのって、一体どんな気分なんだろうか。

「見てくれた人たちサンキュー! ありがとうございましたー!」

 コードを長めに掻き鳴らし、フロントの二人が同時にジャンプを決め、着地と同時にドラムがシンバルを合わせる。どこかのメロコアバンドを真似たような、照れ笑い混じりの初々しい終わり方。見ているこちらも思わずニヤけてしまう。

 店内にBGMが流れ、大きなスクリーンのような白い幕が、ステージをゆっくりと隠すように下りていく。次のバンドの転換が始まったようだ。
 そんな時だった。

「あのー、軟弱金魚の方ですよね?」

 声がした方に振り向くと、オカッパの女の子二人組がいた。左のメガネをかけている子が話しかけてきたらしい。

「あー、そうですそうです。そうですけど、なんで知ってるんすか?」

 こんな風に話し掛けられたのは、初めての経験だった。

「私、都内のライブハウスに結構出入りしてて、色々詳しいんですよ。軟弱金魚もよく名前は目にしてて、ネットの音源は聴いたことあります」

 眼鏡をかけたオカッパの子は少し早口でそう言うと、チラッと左の方を向いた。視線の先には、眼鏡をかけていない子が、気まずそうに隣に立っている。

「へー、そうなんだ。ありがとう。でもよくわかったね。うちら全然有名でもなんでもないのに……」

「それも知ってます。全然有名じゃないバンドの方が好きなんですよ」

「なんだそれ?」

 思わず吹き出してしまった。ストレートに物を言う子だ。自分たちが知らない誰かに知られているなんて、考えたこともなかった。なんだか新鮮気持ちになった。そして素直に嬉しかった。

「私はニシといいます。今高校三年です。今日はよろしくお願いします。こっちはアキっていって、私より二つ上かな? めっちゃ人見知りな子だけど、仲良くしてあげてください」

 そう言うと、ニシちゃんは隣にあったアキちゃんの手を取り、頭を下げるように諭した。

「よ、よ、よろしくお願いしまあす」

 初めて聞くアキちゃんの声は、信じられないほど裏返っていた。僕は大声を出して笑ってしまった。なんだかアンバランスでおもしろいコンビだ。二人はネットのバンド募集サイトを通じて知り合いったらしく、今日が二度目のライブらしい。

「曲何やるの? もしかしてあれ?」

 二人の雰囲気から予測して、あるバンド名を挙げてみた。

「すごい、なんでわかったんですか?」

 と、ニシちゃんは目を丸くした。

「いやー、なんとなく雰囲気で? 俺こういうの得意なんだよね」

「へー、なんかすごい」

 ニシちゃんは指先だけの小さな拍手をしながら言った。

「っていうかさ、今日出るバンドってどんな感じなの?」

 気になっていた疑問を二人に投げかけてみた。
 アキちゃんからは会話に加わろうという気配を感じるものの、実際に言葉を発することはなく、ちらちらとニシちゃんと僕を交互に見るだけで、その目は泳ぎっぱなしだった。代わりにニシちゃんがサッと答える。

「轟音祭は基本、高校生とか大学生のコピーバンドが多いんですけど、普通に軟弱金魚みたいにライブハウスに出ているバンドも少しは出ますよ。次のバンドとか大学生ですけど、オリジナルやったりしてて、ライブハウスにもちょこちょこ出てるはずです」

「へー、そうなんだ。なんで学生ばっかりなの? これはヒデさんが集めたの?」

「あー、あの人、塾の先生やってたんですよ。だからその関係で学生の知り合いが多いんです」

 意外だった。あの人が塾の先生? 上半身裸で昼間から酔っぱらってるあの人が?

「まじで? あんなロンゲで髪も染めちゃってる人がそんな仕事できるの?」

「もう辞めてるんですよ。今は通信制の高校通ってるんです。意味わからないですよね。フラフラフラフラしてて、おもしろいですよあの人。たまに二人で飲みに行くんですけど」

 通信制高校——。そう言えばライブのMCで、そんなこと言っていたのを思い出した。

「飲みに行くって、高校生の女の子と二人で?」

「私は飲まないですけどね。あの人がベロベロになって、あーだこーだ言ってて、私はそれをうんうんって聞いてるだけです。波乱万丈なんですよあの人。昔はすっごいヤンキーだったみたいで、そのくせ頭いい高校行ったんですけど、すぐ辞めちゃったり。彼女と駆け落ちして家飛び出して、色んなところを転々としたりしたけど、結局上手くいかなくてバツイチになったり。一からやり直す為に二十二才過ぎてから大学通い始めて、卒業したと思ったら何故かまた高校通いだしたり。今は仕事をしてるのかどうかもわからないですけど、こんなイベントやって朝から飲んで裸になってコピーバンドしたり。……ね? おもしろいでしょ?」

「はー、そんな感じなんだあの人。なんかすごいな」

 やはり彼は思った通りの人だった。おもしろくてバカで人生めちゃくちゃな先生なんて、最高じゃないか。

「そうなんですよ。で、今から出るバンドのベースの子もヒデさんの教え子で……、あ、始まりますね」

 客席が暗くなり、店内のBGMが薄くなっていくと、次の瞬間、爆音のSEが流れ出した。そして白い幕がゆっくと上がっていく。
 久しぶりにステージに目を向けると、浴衣姿の二人が徐々に現れ、木製の小さなベースと、ステッカーだらけの黄色いレスポールを持っていた。よく見ると、奥に座るドラムも浴衣を着ているようだ。

 照明が三人を照らす。SEが段々と小さくなっていく。

「こんばんは! ジッピーです!」

 下手にいる女の子がそう叫ぶと、演奏が始まった。
 マーシャルのアンプで歪んだギター、ハイハットの開かれたエイトビート、ルート弾きのベースライン。シンプルな曲構成。スリーピースのパンクロックだった。

 僕はステージ左に目を奪われた。さっきバンド名を名乗ったベースの女の子だ。長いストラップで、低い位置にある茶色いベース。紺色の浴衣。後ろで結ばれたボーイッシュなショートカットは、動くたびにゆらゆらと揺れていた。猫のような瞳で客席を眺め演奏している。

 ――なんだこの生き物は?

 何かががおかしかった。
 ピョンピョンと飛び跳ねるようにベースを弾き、時折り拳を高く突き上げ、真っ直ぐな目線で歌い、顔をくしゃくしゃにして叫んでいる。別にバンドのステージとしては、全然普通のことなんだけれど、何かがおかしく見えた。なんというか、光っている。
 ステージ照明のそれとは違い、身体全体が発光しているような、していないような、とにかく眩しい光を放っているように見える。表情はキョトンとした澄まし顔だったり、しかめ面だったり、時折り笑顔を見せていたりと、豊かなものだった。
 今までいろんな人達のライブを見てきたけれど、こんな演奏している人ははじめて観た。別に特別なことはしていないし、普通と言えばごく普通。演奏が特別上手いわけではないし、むしろ拙さが目立つ。
 何かがおかしい。
 曲が終わってからも、なんだかずっとヘンテコなままだった。

「いやー、こんな高校生とかばっかで嫌になっちゃうね。うちらもう卒業したし、制服なんて着れないからこんなん代わりに持ってきたよ。夏らしくていいでしょ? こんなん着てればチヤホヤされっかなー、とか思ってさ、三人で合わせてきたよ。でもわかってる。どーせライブ終わっても誰も話しかけてくれなくて、寂しい思いするんだ。いーよいーよ。どーせ酔っぱらっちゃって、明日には今日の事なんか誰も覚えてないんだ。みんなうちの事なんか、どーせすぐに忘れる。それでもいいよ。今この瞬間だけ見てくれればいい。将来のこともお金のことも学校のことも全部忘れて、うちは今、このステージの為だけに生きてるんだ。だからその辺でくっちゃべってる高校生たちも、今だけはうちらを観ておくれよ」

 なんなんだこの子は? 変だ。とてつもなくヘンテコな奴だ。何を言ってるのかよくわからない。しかしなんだか目が離せない。一挙手一投足を見逃したくなかった。

 そこから彼女たちは、立て続けに三曲演奏した。僕はずっと、ベースの彼女に釘付けだった。なんだか玩具を持った子供が、ただ楽しそうにはしゃぎまわっているだけのような、そんなステージだった。誰かに見せつけるのではなく、純粋に楽しいから遊んでいるだけ。髪の毛や喋り方のせいもあってか、男の子にも見える。
 そしてやっぱり、ずーっと光って見えた。
 本当におかしな話だけれど、その時僕は、彼女の事を好きになってしまっていた。たぶん、一目見たその瞬間から。
 名前も年齢も何も知らない、今日初めて存在を知った少年にも見える女の子に、あっという間に心を奪い去られてしまった。理由は全くわからない。人を好きになるのは、いつだって青天の霹靂のように一瞬だ。

「その辺のいちゃこらして幸せそうなカップル見てるとさー、死にたくなるよ。楽しそうにお喋りして笑ってる奴らもそうだ。でもさ、それと同時に、いつまでも幸せでいてくれよー、なんて思うんだ。こんな場所でうちと君たちが巡り会う確率なんて、奇跡としか言いようがないよ。うちがいくら大学で勉強しても、運命の人に出会う方法なんて教えてくれないし、人生を楽しむ方法なんて教科書に載ってない。もがいて足掻いて苦しんで、たまに泣いたりもしながら、必死に生きて探すしかないんだよ」

 僕は彼女の言葉を聞き逃さないように、必死に耳を傾けた。

「ま、なーんて言ってるけどさ、うち結構あれらしいから。あれ、なんだっけ? リア、リア……」

「なに? リア充って言いたいの?」

 ギターの女の子が透かさずフォローを入れると、そうそうそれ! と、嬉しそうに答えていた。

「側から見るとそのー、リア充? ってやつに見えるらしいからさ、そこそこ人生楽しんでると思うよ。だけどさ、そんなうちでも、こんな風に馬鹿みたいに騒いで叫んだりしないと、心が押し潰されそうになるんよ。そんな時ってみんなにもあると思うけど、うちはその解消法をこれしか知らないの。だからこうやって、なけなしのお金を叩いて、今このステージに立ってる。今日もここに来る前は、怖くて怖くて仕方なくて、逃げ出したくてバックれたくて堪んなかったけど、どうにかこうにか自分を一生懸命奮い立たせて、こうして今、うちはこのステージに立ってるよ」

 この子の言葉には不思議な説得力があった。誰かに似ているなと思ったら、それはクボタだった。二人は言葉の質みたいなものが似ている。そして僕が好きなバンドマンやアーティスト達も、みんな同じように、言葉に不思議な魅力を持っていた。

「もうわかったから曲やろうよー」

 ギターの彼女は、呆れた顔をしてそう言った。

「あ、長すぎました? ごめんごめん。でもさー、こういう時くらい本音で喋りたいじゃんかー。いつも愛想よく笑って誤魔化したりしちゃってるけど、ここでくらいは嘘つきたくないじゃん? で、そういうことを話してると長くなるじゃん?」

「もうわかったから早くしてー」

 低い声でそう言う彼女は、本当に嫌そうな顔をしていた。サバサバとしていて、気が強そうな子だ。

「もー冷たいなあ、シノさんは……、わかったよー。で、なんでしたっけ? 何話してたか忘れちゃったけど、とにかくここはうちにとって、全てをさらけ出せる大切な場所なんです。なんなら服も脱ぎたいくらいだし、心の中も見せれるもんなら見せてあげたいくらいだよ。頭もこうパカッと開いたらいいなーなんて思う。でもそんなの無理じゃん? だからその代わりにいっぱい喋って、一生懸命歌うしかないです。そんなことしかできないけど、こんなことでよかったらいくらでもやりますんで、またどこかで会いましょう。お金払って見に来てくれたら嬉しくてもう、エロいことでなんでもしちゃいますって感じで」

「なんか勝手なこと言ってるけどさ、やるならあんた一人でやんなよ?」

 そう突っ込みが入ると、客席からはクスクスと笑い声が起こる。

「やー、うち一人かー、それはちょっと厳しいなー。だってうち、胸とかないし、色気とか皆無だし」

 更に笑いが大きくなる。際どい事でもさらっと言い放ち、その表情は凛としている。

「ま、冗談はさておき、そんなこんなでね、次が最後の曲です。今日は本当に、素敵な時間をありがとうございました。先生もありがとね」

 ヒデさんの方を見てニコッと笑った。彼は揺らめきながらも、ウイスキーの瓶を持った右手を挙げ、それに答えた。

「じゃあラスト! この曲やって終わります!」

 ドラムの4カウントから演奏が始まった。Eのコードを長く鳴らした後に「ワンツースリーフォー」の掛け声が入る。聴き覚えのあるイントロだった。僕の好きなバンドの、ファーストアルバムに収録されている曲。自由を歌うその歌詞が、彼女たちイメージにピタリとハマっていた。僕はまた釘付けになっていた。終わってほしくない。いつまでもこの姿を見届けていたい。

 しかし、ライブが終わりに近づくに連れて、心が少しずつ沈んでいくのかわかった。

 ——この子と僕の人生が交わることはない。

 瞬間的にそう思い、僕は現実に引き戻された。あの子と僕がどうにかなるなんて、ありえない。

 まだ子供みたいなルックスの年下の大学生だ。絶対に釣り合うわけがない。そもそも大学なんて、人生で一度も行ったことがないのだ。住む世界が違う。彼氏の一人や二人いてもおかしくない。いや、いない方がおかしい。きっとあんなルックスだし、モテるだろう。こんな売れてないバンドマン、相手にされるわけがない。そもそも恋愛なんてしている場合じゃない。そんな時間は一秒だってありゃしない。

「あの子さっきあんなこと言ってましたけど、彼氏いるんですよ。このあと出ますよ、そのバンド」

 ニシちゃんがそう耳打ちしてきた時に、確信した。

 絶対に交わることはない。

 「ありがとうございました! ジッピーでした!」

 最後に三人で、せーのと同時に音を合わせ、ライブが終了した。

 ステージの照明が消え、客席が少し明るくなると、知らないバンドの曲がフロアに流れ始めた。スクリーンがステージと客席の間に下りてくる。僕にはなんだかそれが、ゆっくりと落下する大きなギロチンのように思えた。紺色の浴衣が少しずつ見えなくなる。完全に見えなくなるまで見届け、僕はその場で立ち尽くしてしまった。


「可愛かったなー、さっきの子たち。なにあの感じ」

「俺はギターがいいかなあ、お前ベースいっちゃえばいいじゃん」

「いけるもんならいきたいさ! 女がいなければとっくにいってるさ!」

 クボタとカメが喚いている。やめてくれ。聞きたくない。君たちのそのおちゃらけに、あの子を混ぜないでくれ。

 僕はライブハウスの外に出た。まだまだ暑い昼下がり。その辺をぶらつきながら、耳にイヤホンを刺し、雑音を消し去る。

 あの子に彼氏がいるからってなんだ? そんなこと言われても知らない。そんなの僕には全く関係ない話。僕はただ、いつものように死ぬ気でやるだけ。関わらなければいいだけの話。悲しさなんて微塵もない。全然余裕で忘れてやる。女がいると僕はダメになる。弱くなる。守るべきものなんていらない。失ってしまうくらいなら、最初からそんなものはほしくない。

 歩いていると、畑と無人の野菜売り場が見えた。見慣れぬ田舎風景に、なんだか無性にイラついた。

 僕は決して幸せにはなれないだろう。わかってる。もうずっとこんな感じだ。どこにいても分かり合えない。何をしていも足りない。この世界で生きるにはあまりにも弱く、繊細すぎる。色んなことを感じすぎてしまう。普通に生きていても何一つ満足できない。温くて、くすぐったくて、くだらない。
 この世界は、まるで地獄。蟻地獄のようにズルズルと落ちていく心。頭だけは怖いくらい冷静だ。
 何を優先すべきがしっかり考えろ。何の為にここにいるんだよ。遊びに来たわけじゃない。ライブをしに来たんだ。誰かと仲良くなる為じゃない。女と出会う為に、わざわざこんな所まで来たわけじゃないんだ。

 フラフラと一時間以上歩いて、汗だくになりながらライブハウスに戻る。空調に冷やされたフロアに凍えそうになった。
 汗とタバコとアルコールが混ざったような、湿っぽい匂い。チューニング中のギター、弾かれたベースのスラップ、地響きにも似たバスドラムの音圧、誰かの笑い声、氷が揺れる音、ホワイトノイズ、耳鳴り——。

 僕らの出番はもうすぐだ。

「コジー、どこ行ってたの?」

 楽屋に入ると、ベースを抱えたホシくんが駆け寄ってきた。クボタとカメも既に楽屋入りしている。

「ごめん、ちょっと精神統一してたわ。よっしゃー、今日もやるべ」

 僕はそう答え、ケースからスティックを取り出した。

「うん、やろうやろう。高校生とかたくさん見てるし、きっと楽しいよ」

 ホシくんはそう言うと、ベースを弾きながら地団駄を踏み、頭を縦に振りだした。

「お前男子校だったから、こういうの男女が入り乱れる場所、テンション上がるんじゃねーの?」

 クボタがギターを弾きながら、ニヤけている。

「上がるかよ。むしろ全員ぶっ殺してやりたいね」

 僕はぶっきら棒に答えた。

 ぶっ殺してやりたい。本当にそう思う。だけどそんなのは許されない。実際に殺すのが許されないのなら、せめて音で。音楽で殺す。

 機材のセッティングを終え、テキトーなリズムを叩く。今日はリハーサル無しのぶっつけ本番。各々が音の確認をし、全員の準備が整ったところで、ライブハウスのスタッフに合図を送る。BGMが大きくなり、白い幕が上がる。

 照明が僕らを強く照らす。
 視界が真っ白で何も見えなくなる。

 
「どーも軟弱金魚です! どいつもこいつも楽しそうでいいなあ、おい! 若者たちの集まりにこんなおっさんが混ざってすみません! 短い時間なので許してください! 僕はこういう場が大好物です! それでは聴いてください! 一曲目、バカ音頭!」 

 クボタがこちらを振り向き、ギターを振りかぶる。

「せーーーーの!」

 クラッシュシンバルをぶっ壊す勢いで殴りつけ、同時に前の三人は解放弦を鳴らした。間髪入れずにフロアタムを祭囃子の要領で叩いていくと、体中の血液がグツグツと煮え滾るような感覚に陥る。血管が千切れそうなほど頭を振り乱す。まともに叩けているのかどうかすら、既にわからない。視界がぐわんぐわんと回る。

 そうだ、これだ。この感覚だ。
 ズブズブと音の渦に飲み込まれる。意識がどこかへ飛んでいきそうになる。何度味わっても、飽きることはない。

 気付いた時には三曲演奏していた。体感時間は一分程だったが、もう既に半分以上が終わっている。残りはあと二曲。

「照明さん、電気を暗くしてください。客席もステージも全部です」

 肩で息をしたクボタがそう言うと、目の前にあるはずのドラムすら見えなくなった。

「あー、いいですねー。バッチリです。このままにしておいてください。この状態で曲をやります」

 こういう突拍子もないことを、クボタは時々やる。

「こんなライブしてみたかったんですよ。いいですねー、この状況。すっごく不自然ですよね? こんな真っ暗なライブハウス、僕は見たことありませんよ。こんな状況でライブできるのかって思いますよね? でもなんと、できちゃうんですよこれが。音楽ってやつは目には見えないけど、目が見えなくても鳴らすことができるし、目が見えない人にも伝わるんですよ。みなさんには耳が付いてますよね、立派なやつが二つも」

 真っ暗な客席がざわついているのがわかる。クボタは更に続けた。

「みなさん知っての通り、今年の三月に大きな地震がありました。計画停電だっつって東京の街もこんな風になってましたよ。関東にいる人はそんなに恐怖心もなく、むしろワクワクしてたなんて人もいるんじゃないですかね? 僕はワクワクなんか全く出来ずに、むしろガクガク震えてました。死ぬのが怖くてたまらなかった。人が死んでいくのが恐ろしくてしょうがなかったよ。彼女の胸で、馬鹿みたいにワンワン泣きました。僕はその日、仕事で家から遠いところにいて、電車が全部止まっちゃって、いくら待っても全然動かないから、知らない道路を歩いて帰るしかなかったんです。車は渋滞しまくってるし、わけのわからん警報は鳴ってるし、なんだかすごく不気味で、現実味がありませんでした。結局家に着くまで四時間も掛かって、テレビを点けたらひどいあり様で、三日後に予定されていた僕らのライブも中止になりました。僕は何もすることができませんでした。もし僕らが有名だったら、東北のライブハウスを全部回ってライブして、チケット代やら募金やら物販やらで支援できたのに、ライブハウスに人っ子一人呼べない僕らは、働かなければ自分のメシさえ食っていけない僕らは、何もすることができませんでした」

 クボタの声は震えていた。

「悔しいんですよ。本当に何もできなかった非力な自分が。どんな時でもヘラヘラ笑ってしまっている弱い自分が。暗い部分なんて人には見せられないし、友達は大事にしたい。でもこんな気持ちを誰かにわかってもらいたい。だから僕はこうして、ステージの上に立ってるんですよ。自分のぐちゃぐちゃな感情を歌詞にして、頭にメロディを思い浮かべて、曲げて加工して曲にして、それをこいつらと一緒にステージで演奏するしかないですよ。ただ普通に生活してるだけじゃ、誰も俺のことなんかわかってくれねえんだ。だからバンドやってんだよ。みんな辞めてくし、全然売れてねえけど、ここまでずっとなんとか辞めずにやってこれたんだ。……だからさ、聴けよ。聴いてくれよ。真っ暗なまま、何も見えないまま。僕は、僕らは、僕たちは……」

 一瞬の静寂、そして叫んだ。

「僕たちはここにいると歌わせてください!」

 カメが歪んだギターで二つのコード掻きむしった。後ろから僕とホシくんがそこ加わり、スネアとフロアタムを素早く同時に叩く。その刹那、クボタが暗闇の中を、高く飛び上がるイメージが浮かんだ。
 それが着地するタイミングに合わせて、僕はクラッシュシンバルをフルスイングで打ち抜くと、綺麗にイントロが決まり、そのままAメロへと流れていった。

 やっぱりクボタおもしろい。こいつは絶対本物だ。このままやっていればいつか、いつの日か、本当にすごいことになるかもしれない。武者振るいのように身体が震え、鳥肌が立つ。僕は曲が終わるまで、見えないドラムを叩き続けた。暗闇の向こう側に、熱狂を感じながら。


 ライブが終わり、汗だくで片づけをし、楽屋に荷物を置きに向かった。ドアを開けると、奥の方にあの子がいた。一瞬目が合ったような気がした。

「おつかれーっす」

 と小さく囁きながら中へ入る。おそらく半径十センチメートル以内にいなければ、聞こえないレベルの音だった。すぐさま荷物を置き、逃げるように楽屋を後にした。まともに姿を見ることすらできなかった。そのまま外へ飛び出すと、辺りはもう暗くなりはじめていた。

「だっせーな」

 思わず口から出たその言葉のボリューム大きさに、自分でも驚いた。通行人に聞こえてしまったかもしれない。どうでもいいか。さっき挨拶がこの声量だったら、今頃言葉を交わしていたかもしれない。後の祭りだ。

 朝に来たコンビニに立ち寄り、発泡酒と酎ハイを一本ずつ買った。合計一リットルのアルコール。僕は路上で一人、ガブガブと浴びるように飲んだ。いいライブをした後は誰とも話さなくていい。余韻に浸りながら、静かに黄昏ていたい。

 あの子が誰と付き合っていようが、何をしようが、どうなってしまおうが、関係ない。俺の人生には必要ない。俺はこれでいい。俺にはこれしかできない。
 酒を全て飲み干し、その場に倒れ込み、目を閉じた。
 
 このまま永遠に目が覚めなければいいのに。そう思えるほど、今日のライブの出来は悪くなかった。あの子のことはもう、アルコールに溶かして忘れてしまおう。

 頭の中では、さっき演奏したばかりの僕らの新曲が流れ続けていた。


  明日が見えなくたって
  死んではいないだろう
  僕が今できることは
  これしかないだろう
  今は君と僕で歌いたい

  僕らはここで歌っていて
  僕らはここで叫んでいて
  君が笑った 遠くに見えた
  強く光る君がいる
  僕は 僕は 僕はここにいる

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