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ゴミの定義とは

#foodskole 「2021年度前期Basicカリキュラム」
「食」に夢を持てる社会を創りたい
第十回目は8月24日火曜日、「それはゴミ?資源?」
そもそも「ゴミ」とはなんなのか?定義はあるのか?
講師は、資源循環モデルの実証事業を運営する「レコテック株式会社」野崎衛さん。

ゴミの定義

授業の最初に、グループディスカッションとして「ゴミの定義とは何か」について話し合った。
お題にあっているかどうかは少し怪しかったが、私たちが食事の準備をしている中で、食材がゴミに変わる瞬間というのはどこにあるのか、ずっと気になっていたことをふってみた。
フライパンから飛び出た食材の謎の5秒ルール。コンロ台の上に落としたものと床に落としたものとの感覚の違い。
野菜の皮をむいて、むいた皮はどの瞬間からゴミになるのか。

ディスカッションメンバーは、40代以上の2名と30代以下の2名。うち男性1名、女性3名の割合。
私の問いかけに対し、フライパンから飛び出た食材をどこに落としたかは、ゴミとしての認識として重要な要素であったりするのは共通認識らしい。コンロ台の上が清潔かどうか、落とした先が床だったらどうか。

40代以上は、外でお菓子を落としても洗えば食べられるという認識があったが、30代以下はそういう認識が薄いということも。そもそも30代以下の人たちは、外でお菓子を食べるということ自体少ないという話もあった。

食材がゴミになる瞬間というのは、人が「これは食べないもの」と認識したときに起こるものだと思う。食べられるかどうかは別なのだ。
私がこれを意識したのは、小学校4年生のとき。母に言われて夕食の洗い物をしていたときのこと。
炊飯器の中釜を洗うように言われたのだが、そこにこびりついたご飯は水でふやかして食べて処理するように言われた。理由は、「もったいないから」。
しかし、私はそれがどうしもできなかった。お茶碗の中でお湯にひたされたお茶漬けは食べ物だが、台所で釜にこびりついたご飯は私にとってはすでに食べ物ではなかった。私としては、そんな微々たるご飯を食べようが捨てようがあまり大差がないように思っていた。
しかし、戦中生まれの母は、米を粗末にすることが犯罪レベルで罪悪感を感じる世代。その感覚を1960年代後半に生まれた私にも強要することが、私は何より嫌だった。しかしそれも実は、明治生まれの祖母から伝達されたものだと、後で知ることになる。

そんなに厳しかった母も、祖母が亡くなってからは徐々にそういう意識が希薄になってくる。昔のきびしい教えはいったいなんだったの? というようなことが、次々と母の行動に出てくる。
炊飯器の中釜のご飯つぶは、もはや口に運ばれることはなくなった。「昔はふやかして食べていたよね」と言うと、「今はそんなことをしなくてもよくなったから」という返事が返ってくる。母は祖母の死とともに、自分でも納得しないでやっていたことを、少しずつ捨てているようにも思えた。

そんなことがあって、もったいないという意識と、さっきまでは食べ物だったものがゴミに変わる瞬間というのは、社会的感覚とその人の生活レベルにも関わるものなのだと漠然と感じている。
もちろん、しつけとして「食べ物を粗末にしない」ということを伝えるのは正しいと思う。しかし、その意識のベクトルは、なんとなく世代によって大きく異なるような気がしてならない。

子供の頃、駄菓子という名のジャンクフードは、私たちのあこがれだった。それを外で落としたとしても、「洗えば食べられるよね」は、その頃の子供たちの共通認識だった。キャンディやキャラメルは裸でポケットに入っていたし、一度かんだガムをとっておいて後でまた食べるという強者も存在した。
お菓子を外で食べないといった世代の人たちは、たとえ外でキャンディを落としたとしてもそれを洗って食べようとは思わないだろうし、その人の親もそれを子供に強要するようなことはしないだろうと思う。
私が、炊飯器の中釜についたご飯粒をふやかして食べられなかったように、駄菓子屋に通わない人は落としたキャンディを洗って食べることはないだろう。それらは今やゴミと認識されるものなのだろうと思う。

フードロス

炊飯器の中釜についたひからびたご飯を水でふやかしてまで食べ、落としたお菓子を洗って食べていた日本人。そんな日本も、いまや食べられるものを捨てるというのは普通になった。
野崎さんの示した「日本における食品廃棄物」のグラフによると、フードロス(可食部分)は年間600万トンにものぼるらしい。
事業系食品ロスでは、その大半が外食産業35.8%と食品製造業38.9%にのぼる。食べ物を作る現場と、食べ物を供給される現場で、まだ食べられるものが捨てられていることになる。
家庭系食品ロスでは、食べ残しが44.6%で、直接廃棄が34.8%、過剰除去が20.7%。

フードロスについての生ゴミ中の食べ残しの内訳グラフでは、「手つかずの食品」が45.6%、母や祖母がこだわっていたご飯粒は6%、野菜類でも12.9%。

野崎さんが示したグラフの基のデータを追跡したところ、出典が「平成29年度京都市家庭ゴミ細組成調査」だったので、そこの元ネタである「京都市食品ロスゼロプロジェクト」のサイトにある同様のグラフを見ると、手つかずで廃棄された食品のうち、賞味・消費期限内のものが37%と圧倒的に多いことがわかる。

我が家ではどうだろう。大人二人の生活で、フードロスに関してはわりと気を付けているつもりでいるけれど、観察してみると盲点がまだあるかもしれない。
大昔、まだ料理が今より下手だったころは、二人分の材料がどのくらいか見極めが甘く、大量に作りすぎることが多かったが、最近はそういうことも少なくなった。
次の日の朝に、前の日の夕食の残りを食べなければならないことさえも、少なくなった。

気を付けているのは、買いだめストックは必要以上にしないようにしている。調味料などは決めたものだけを購入し、よけいな加工品は使わない。
一時期は、ソース、ドレッシング、マヨネーズ、ケチャップが我が家の冷蔵庫から消えた。使い切れずに、何度か使って数年そのままになっているものがよくあったからだ。
ケチャップは小分けのトマトピューレで代用し、その都度自作している。ドレッシングも、食べるときに使う分だけ自作した方がおいしいと思うので、ここ20年くらい買ったことがない。めんつゆのようなものも、我が家にはない。
我が家にある調味料は、塩、砂糖、みりん、醤油、酢、はちみつくらいだ。最近は少しさぼっているので、ポン酢と白醤油は使うようになった。

賞味期限にはわりと無頓着なので、物によっては賞味期限が数年過ぎていても、ものに支障がなければそのまま使ってしまう。
特に乾物は、カビさえはえなければ何年でも大丈夫だと思っているので、賞味期限を見るよりはまず臭いをかいでみて、外側に虫がわいていたりカビがはえていないかを確認して、問題なければそのまま使う。
問題のあるものはだいたい臭いをかいだ時点で変な臭いがしている。また、液ものは大丈夫だと思っていても時間の経ったものは支障のあるものが多いし、そういうものは食品ロスになってしまう。

困るものは、よそからいただいたけれど、我が家では使わないものだろうか。
例えば、だしパックのようなものは、我が家ではほぼ使用しない。例えそこに高級天然素材と書いてあっても、うちでは使わない。
もったいないので1~2回使ってはみても、だいたい全部使いきれずにお蔵になっていることがある。パッケージを開けずに友達にあげることもあるが、友達もそういうものは持て余しているので、あまり喜ばれない。
そうすると、我が家でもそれらはゴミになってしまう。

あきらかに食べられなくなったものは別として、感覚的に「必要ない」と感じたものはゴミとして認識し、廃棄しているのではないかと思う。
参加している団体などから、フードバンクの活動の参加呼びかけを受けることがある。そこに出されているものを見ると、よくこんなにたくさんものがたまっていると驚愕することがある。それは善意で出された「食べ物」なのかもしれないが、個人的にはそこの家ですでに「必要ないもの」として扱われているものであり、非常に不謹慎な見方であることは承知だが、感覚的にはゴミに近いのではないかとさえ思ってしまう。
本来であれば、フードバンクとして何も出てこないのが理想であるのではないかと思うからだ。

「もったいない」の言葉の裏に、自分が食べなければ誰かが処理してくれるだろうという甘えや、最終的にはゴミを増やすだけのことであるという感覚は、「もったいない」世代の方が顕著なような気がしてならない。
食べ物が十分でなかった時代を知っている世代にとっては、周囲に物がないということがひとつの恐怖なのかもしれないと思うことがある。しかし、備蓄することもやりすぎてしまえば、結局はもてあましてしまうことに気づかない人も多いように感じるからだ。

資源ゴミとは

ディスカッションのときに話したことで、やはり以前から疑問に思っていたのは「資源ゴミ」という言葉だ。
“資源”なのか“ゴミ”なのか。ゴミという認識であれば、「いらないもの」という感覚があるが、資源であれば「いるもの」だと思う。しかし、ゴミとして扱う側からすると、それは一度「いらないもの」として処理されているような気がする。

ペットボトルが世の中に登場したとき、マスコミではリサイクルできる夢の素材というような認識だった。「ペットボトルはリサイクルされるからこれは資源である」。だからたくさん使っても大丈夫だし、積極的に回収すべきだという認識で私たちはいたような気がする。
それまで使われていたガラス瓶の商品が瞬く間にペットボトルに置き換わっていき、ゴミの収集項目の中にペットボトルの回収というものが加わった。
しかし最近になって、ペットボトルがほとんどリサイクルされていないことを知った。資源だと思っていたペットボトルは、ゴミとして「いらないもの」として処理されていたらしい。

今、日本で生ゴミは、水気たっぷりのまま燃やされている。しかし、この生ゴミを別な資源として利用することが課題となっていることを、野崎さんの資料で知る。
今までの取り組みとしては、家畜の飼料にする、たい肥にして土壌に返すというようなことが主だったが、無酸素で発酵させバイオガスを生成させ発電に利用するという取り組みが注目されているらしい。ここでは、食べ残しのような生ゴミの他、家畜の糞尿、農業廃棄物なども利用することができる。

環境省の資料では、日本でも試験的に廃棄物系バイオマスの生成を行っているようだが、全国で42施設とまだ小規模にとどまるようだ。
前回の授業の中でも、人の糞尿の利用価値について学んだが、人や家畜の糞尿が資源として活用できるのであれば、それは積極的に活用すべきだとも思うが、臭いなどの問題もありなかなか進まないのが現状のようだ。

野崎さんの話の中では、インドネシア、バリでの取り組みとして、ゴミを燃やすことを非常に嫌う文化の中で、バイオマスボイラーを利用する取り組みが紹介されていた。ただ、宗教的な問題などから人員確保や、生成された肥料が実際には土壌に利用できないなど、さまざまな課題があることも興味深い内容だった。

江戸時代に糞尿が高価な資源だったことを考えると、これまでゴミだと思っていたものが資源として「必要なもの」であるようになれば、物に対する「ゴミ」という感覚が少しずつせばまっていくようになるのかもしれない。
多くの自治体でお金を払ってまで処理してもらうという実情が加速するよりも、「いらないもの」を「いるもの」にすることでキャッシュバックされるほうがいいように思う。
夢のリサイクル素材だったペットボトルも、リサイクルする方がお金がかかるから資金投入しないということではなく、資源になるから積極的に資金投入するというサイクルができれば、それが当たり前になるときがくるようにも思う。
少なくとも、最初からそういう取り組みが前提となっていたから、「資源ゴミ」が存在するのだろうから。

未来のために、約束はちゃんと果たしたい。


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