見出し画像

クリスマスってどこにあるの

12月24日。人々はいろんなことがあってこの日を迎える。僕はといえば、今年から写真に写ってもらっている鎌田ありささんと過ごす。いつものように写真を撮りながら。

あの頃みたく僕の目の前には笑っている人がいて。
いや別に笑顔である必要もないのだけれど、自然に出た表情が笑顔ならそれに越したことはないと思っているだけで。

ミルワード先生もデーケン先生もリーゼンフーバー先生も帰天して、なんとなく遠く感じるSJハウスとクルトゥルハイムを久々に訪れた。クリスマスだし。

誰とでも来るわけではなくて、かと言って何か特別な意味があるわけでもなくて、でもやっぱり自分の中にある深い風景の中にお連れしたいと思う人はそう多くはいない。ありささんは、そんな中のお一人だ。

迎賓館前の並木道は、思索に耽るときよく訪れた。

イグナチオ教会でクリスマスミサに与るつもりだったのだけれど、どのミサも満席らしい。そこで、カテドラルへ行くことにした。

僕はありささんに「笑って」とリクエストしたことはない。ただ普通に笑顔でいてくれるのだ。それをわざと「笑わないで」と言うのもおかしい。だから自然と笑顔の写真が多い。そして僕はそんな笑顔のありささんがとても好きで、そのときたぶん僕自身も笑顔だ。人の笑顔は鏡だから。

人間なんてクリスチャンだろうが何教信者だろうが無神論者だろうが何だろうが、しょせん「自分教」から抜け出せない生き物だ。
僕は、教えの中に真理はないと思っていて、もし真理だの正しいことだのがあるとするなら、それはその人の行いに息づくものに違いないと考える。

ありささんと僕は、最前列に招かれた。ミサの最中は写真を撮れないのでカメラを置く。ミサは定刻通りに始まり、聖歌を歌い、祈り、僕は聖体拝領を、ありささんは祝福を授かった。

こうして今年もクリスマスミサは終わった。
ありささんは典礼の式次第の中にある「行きましょう、主の平和のうちに」という閉会の挨拶の言葉に深い関心を示していた。
「すごい言葉だなって。今、世の中は平和じゃないですものね」

ミサのあとはルルドで少し過ごして、そのあとちょっと売店に寄ったりして外へ出た。

夕食をとって帰る道すがら、ありささんが会話から消えた。
椿山荘のあたりで僕はバカみたいに一人で話していた。
「あれ?」
ありささんを探すと、少し後ろに離れたところにいた。

白杖をついてバス停を探していたご老人に寄り添ってあげていたのだ。

僕は先刻そのご老人とすれ違ったとき、何もせずそのまま歩き続けた。

ありささんはそのとき咄嗟に、ご老人に寄り添ったのだった。

ご老人はバス停で「ありがとう、ありがとう」と感謝の言葉を繰り返していた。

何をどう祈ろうが、行いに勝るものはない。それを目の当たりにして僕は、自分自身が恥ずかしくなった。

「難しいんですよね。手助けされるのを嫌がる方もいらっしゃいますし、本当にその人によって状況も思いも違いますから」

と、ありささんはあとで話してくれた。いつも当たり前にそういう行いをしている人の言葉だ。どうしてもほうっておくことができないのだという。

クリスマスって、こういうことなんだろうな。

いや、だから別にクリスマスじゃなくてもいいんだって。

僕はシャッターを切って、今日のあなたを撮ることぐらいしか能がない。

今日一緒に過ごしてくださって、ありがとう。

写真に写ってくださって、ありがとう。

写ってくれる人 鎌田ありさ/Arisa Kamata

Merry Christmas !

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?